第8章 : 上書きー灯を絶やすな
目を開けた瞬間、そこはもう「見張所」でも「坑道」でもなかった。
黒いはずの地底が、奇妙に“明るい”。
だがそれは光ではない。
煤と、百万人もの人間の記憶が混ざり合って、闇そのものが淡く発光しているようだった。
僕は立っている。
でも、どこに立っているのか分からない。
足元は泥なのか、岩盤なのか、それとも誰かの人生の記憶そのものなのか。
「……灯真」
声がした。美琴だ。
すぐ横にいるはずなのに、姿が――圧倒的に薄い。
輪郭が、熱を帯びたガラス越しのように激しく揺れている。
「美琴……いるよな? 答えろ!」
返事はある。あるのに、果てしなく遠い。
まるで、百年前の地底の底と、現代の科学館の廊下から、同時に声をかけられているような奇妙なズレ。
その瞬間だった。
【安全灯センサー:緊急警報】
内部記憶層の過剰同期を検知
境界保持率:62% → 38%
注意:自己同一性の崩壊が危険域に達しています
警告:このままでは「境灯真(現代)」という人格は完全上書きされます
「上書き……? ふざけるな、俺は――」
口に出した瞬間、世界が“割れた”。
(――ガラガラガラガラ……)
音が、匂いが、空間が、濁流となって僕の脳を直接殴りつけてくる。
さっきまで見ていた坑道が、突然「客観的な過去の映像」ではなく、僕自身の「主観的な日常」へと変貌していく。
そこにいるのは、十三歳の**「境灯真」**。
僕のひいじいちゃんであり――今の、僕自身だ。
大正七年。
安全灯係が入営し、その補充として私に入坑の勧めが訪れた。
先輩たちはしきりに勧めるが、最初は乗り気じゃなかった。
だが、何事も体験だと思い直し、承知した。
予備知識も仕事の理解もない。
けれど、今まで知らなかった新しい世界に入ることに、少年だった私は、ある種の好奇心さえ抱いていた。
部外者にはまったく想像もつかない世界。恐ろしい死の場所。独特の服装、風俗、習慣。
(やめろ……俺の頭に直接流れ込んでくるな……!)
三池炭田の鉱脈は、東北から西南に流れ、三池町や米の山で炭層が露出している。
西南に行くほど傾斜はいちじるしく、万田坑に至れば地下千尺近くに下り、炭層は有明海へと果てしなく続いている。
私が入った大浦坑は最も浅く、いちばん早くから採掘された場所だ。
横坑には「車道」と「人道」があり、私は傾斜が急で危険な「第二坑の車道」から、予備の安全灯をいくつも抱えて入坑した。
レンガ積みの坑口から、十間余り下る。
そこからは五、六寸の松丸太の枠。
天井の隙間から、気持ちの悪い地下水がピチャリと首筋に滴る。
ケッチンブルックに繋がれた炭車がひっきりなしに往来し、突風と火花を散らす。
エンドレスが尽き、車道が平らになると、そこからは馬の領域だ。
壁や天井の枠は取り外され、剥き出しの岩盤と石炭の柱だけが空間を支えている。
ただ安全灯の弱い光だけがおぼつかなく四方を照らし、溝には悪水が電気タービンポンプの音を響かせて流れている。
500馬力の巨大な扇風機から送られてくる風は、夏の夕べのように肌触りがいい。
だが、石炭の採掘現場は、ここからまだ一里(約4キロ)も先にあるのだ。
「灯真……私……なんか……」
美琴の声が、ブツブツとノイズ混じりに途切れる。
振り返ると、美琴の身体はもう半透明になり、背景の黒い岩盤が透けて見えていた。
「薄くなってる……? 灯真、手が……すり抜ける……!」
【安全灯センサー:第二警報】
外部認知対象(神崎美琴)の消失進行:存在密度24%
注意:外部支柱が完全に消失した場合、現代軸への帰還は不可能となります
「美琴!!……俺の腕を掴め!!」
僕は叫んだ。だが僕の口から出たのは、声変わりもしていない、十三歳の少年の声だった。
意識が、時間が、ものすごい速度で加速していく。
一瞬の閃光。
気づけば、僕は見張所からさらに二町(約220メートル)進んだ、小さな板張りの小屋にいた。
カビ臭い匂い。
5燭の電灯がぼんやりと点る、天井の低い重苦しい部屋。
幅一尺の板の机。マグネット室。
ここが、僕――「境灯真」の仕事場だ。
安全灯が消えた鉱夫たちのために、マグネットで蓋を開けて再点火するだけの仕事。
だが、鉱夫たちはわざわざここまで来るのを面倒くさがり、規則を破って勝手にタバコを吸い、自由に灯を開けていた。
さっき見た古傷の男の狂気は、ここでは日常の一コマに過ぎなかった。
そして、闇の奥から「彼ら」が現れた。
現場で働く鉱夫たちは、全員が裸体だった。
若い娘たちも、黒のフンドシ一つ。やっと局部が隠れる程度の姿。
一糸もまとわぬ身体。首から肩、胸のふくらみ、若々しい身体の曲線が安全灯の光に淡く浮かび上がっていた。
男たちは完全な丸裸で、たくましい肉体を誇示していた。
先山が黙々と石炭を掘り、後山の娘が炭車に積み込む。
都会のブルジョア(金持ち)には想像もつかない、剥き出しの生命の営み。
最初は、闇から裸の娘たちが小屋に来るたびに、十三歳の僕は激しく胸を躍らせた。
けれど、何日も、何週間も、何ヶ月もその闇の中で過ごすうちに、私もその光景に慣れていき、娘たちの裸を見ても魅惑を感じなくなっていった。
(時間が……何日も経っている……!? なんだこれ、終わらない……!)
炭鉱の闇は、人間の性格をも変えていく。
温厚な人間が、いつの間にか気難しく、傲慢で怒りっぽくなる。
何事にも驚かない「度度(度胸)」こそが最大の人格とされ、外見を装うために大きな喧嘩が何度も繰り返された。
記憶の歯車は止まらない。
僕はバランス手見習いになり、松下伴作君と一緒に積載重量の検査をした。
数日後、思い出深い「七浦坑」へと移る。
そこは、私の青春の訪れだった。
たくさんの選炭婦の中で、少年だった私は女性という存在を意識するようになっていった。
『黒のダイヤは出雲の神よ……赤いその胸どう染まる』
薄暗いヤグラのほとり、桟橋の下で、夜勤の合間に甘い恋を囁き合い、固く抱き合う若い男女の姿。
彼女たちは竪坑の合図の鐘を恨めしそうに聞きながら、男の胸を離れてローラへと帰っていく。
さらに、記憶は地上の光へと広がる。
僕には「馬場」という親友がいた。
二人でよく、大好物の洋食を食いに行った。
笹林公園の下へ筑前琵琶を習いに行き、流行り始めた活動写真を観に、大牟田の街にある「鎮西館」や「太陽館」へ何度も通った。
泉屋で琵琶会を盛大に開いた。
馬場と笑い合った日々。
洋食の味。
琵琶の音色。
活動写真の眩しいスクリーン。
何ヶ月もの、いや、何年もの「境灯真」としての人生、青春、その膨大な月日が、僕の脳内に完全な【現実】として居座っていく。
俺は、大正時代を生きる境灯真だ。
ここで馬場と出会い、ここで働き、ここで――。
「灯真……っ、お願い、私を見て……!!」
消え入るような悲鳴が、脳の最深部で弾けた。
振り返る。
美琴は、泣いていた。
泣いているのに、もう輪郭すら残っていない。
涙の雫だけが空間に浮いている。
それ以外はもう、ただの透明な光のノイズだ。
「私……もう、完全に消えちゃうよ……」
「美琴ォォォォォッ!!」
手を伸ばす。しかし、僕の手は大正時代の泥と石炭しか掴めない。
大正の人々には見えていなかった美琴が、今度は僕の視界からすらも完全に消え去ろうとしている。
存在しないはずの令和の幼馴染に、触れることすらできない。
【安全灯センサー:致命警告】
外部支柱(神崎美琴)消失率:99%
自己同一性(現代軸)の保持が不可能です
警告:現代の「境灯真」はこれより完全消去されます
対処:最深部のアンカー記憶を固定せよ
「アンカー……芯は、どこだ……!」
その瞬間、頭の中で日記の最後の一ページが、ひいじいちゃんの本当の想いが爆発した。
『安全灯の炎だけは絶対に消すな。暗闇で人は、自分を見失う』
そうだ。
どれだけ膨大な大正の記憶が押し寄せようと、どれだけ裸婦の美しさに胸を躍らせようと、親友の馬場と洋食を食おうと。
この記憶の底にある本質は――「暗闇の中で、自分を失わないための灯」だ。
「俺は……ここにいる」
一歩、ぬかるんだ記憶の底を踏みしめる。
「俺は、令和を生きる高校生の境灯真だ。美琴と一緒に、学校に行き、あのラーメンを食って、この科学館に来たんだ……!!」
手の中の安全灯を見る。
ガラスの向こうのオレンジ色の炎が、爆発するように一瞬、強烈に輝いた。
その光が、大正の闇を、馬場との記憶を、選炭婦の歌声を、一瞬で引き裂く。
そして、美琴の輪郭が、白いブラウスが、紺色のスカートが、激しく肉体を伴って再構築されていく。
「灯真……!」
美琴が、僕の腕をがっしりと掴んだ。
その手の圧倒的な温もり。
【安全灯センサー:再同期完了】
自己同一性の再構築に成功
記憶層の強制分離処理を実行します
現代軸:全システム、復旧
「俺は、俺だァァァァァッ!!!」
すべての記憶が、一度真っ白に反転した。
坑道も、日記も、十三歳の少年も、馬場も、洋食の味も、全部が強烈な白い光の中に消えていく――。
「――っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
激しく息を吐き出しながら、僕は冷たい床に両膝をついていた。
目の前にあるのは、レンガの壁。スピーカーから流れる、人工の環境音。
現代。大牟田市石炭産業科学館の『ダイナミック坑道』の中だった。
天井には蛍光灯の白い光。遠くからは、別の家族連れの声や、空調の静かな機械音が聞こえる。
「灯真……! 灯真……っ!!」
すぐ横で、美琴が僕の肩を激しく揺らしながら、本当に、ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた。
その身体は、透けてなんていない。
触れると、確かな生身の温かさと、激しい鼓動が伝わってくる。
「戻った……のか?」
僕は自分の手を、ヨレヨレの黒Tシャツを見つめ、掠れた声で呟いた。
脳内の安全灯センサーは、すっかり静まり返っている。
だが、視界の端に、血のような赤文字で一行だけ、不気味なログが残されていた。
――記憶同期は未解決。対象の精神深度に再侵入の可能性:【極めて高】
美琴が、涙を拭いもせずに僕の顔を覗き込んできた。
「さっきの……一体何だったと? あんた、急に意識が飛んで……でも、私も一緒にあの坑道におった。」
「百年前の炭鉱に……! あれは夢なんかじゃなかったよね……?」
美琴も、百年前の記憶の中へ引き込まれていた。
だが、彼女が体験したのは、坑道を歩いたほんのわずかな時間だけだった。
一方、僕だけは違う。
大正から昭和初期にかけての何年もの歳月を生き、馬場と笑い、洋食を食べ、琵琶を習い、炭鉱で働いた日々まで、そのすべてを自分の記憶として抱え込んでしまっていた。
「……何でもない。大丈夫だ」
僕は震える足で立ち上がった。
美琴には言えなかった。
手の中には、まだあの冷たく重い真鍮製の安全灯の感触が残り、鼻の奥にはカビ臭いマグネット室の匂いが、べっとりとこびりついて離れないことを。
(第8章 終わり)




