第7章:見えない少女と、闇の呼び声
僕たちは、百年前の三池炭鉱の中にいた。
いや――。
正確には、「いた」という言葉さえ、もう正しくないのかもしれない。
足の裏にダイレクトに伝わる、ぬかるんだ地面の生々しい感触。
肺の奥をチクチクと刺激する、石炭の粉塵と、湿った土と煤の臭い。
遠くの坑道から絶え間なく響いてくる、炭車の軋む不気味な金属音。
ガラガラガラ……。
ギギギギギ……。
そのすべてが、「これは現実だ」と僕の五感に容赦なく訴えかけていた。
けれど、その現実の中で、ただ一つだけ決定的に異質なものがあった。
僕の隣に立つ、神崎美琴。
白いブラウスに紺色の膝丈スカート。
令和の世界から、そのまま切り取られてきた女子高生。
彼女の左手首に浮かび上がる青白い幾何学的な紋様だけが、僕たちが本来この世界の住人ではないことを不気味に示していた。
「……灯真」
美琴の声は震えていた。
いつもなら誰よりも強気な幼馴染が、今は真っ暗な迷子の子どものように見えた。
「……大丈夫だ。俺の近くにおれ」
そう答えた僕の声も、情けないほどに同じように震えていた。
目の前には、半円形のレンガで作られた巨大な坑口が、地獄の口みたいにぽっかりと開いている。
その向こうは――光そのものを噛み砕き、食い尽くすかのような、圧倒的な「絶対の闇」だった。
「新入り。ぼさっとするな、置いていくぞ」
低い声が響く。
振り返ると、煤で顔を真っ黑にした大柄な先輩坑夫が立っていた。
その男の目は、僕のすぐ隣にいる美琴を――その白いブラウスも、青白く光る手首の紋様も――まるでそこに空気しか存在しないかのように、完全に素通りして僕だけを睨みつけていた。
「おい、聞いてるのか。境灯真」
男に名前を呼ばれた瞬間。
僕の頭の中で、パチンと何かが切り替わった。
呼ばれたのは、僕の名前だ。
令和を生きる、大牟田の高校二年生、境灯真。
だけど、同時に理解した。
男が呼んだのは、僕のひいじいちゃんの名前。僕と完全に同姓同名である、百年前の**「境灯真」**。
十三歳の彼が、今日、生まれて初めてこの地獄の入口に立った瞬間の記憶。それが、名前の響きと共に、当時の生々しい感情ごと僕の中へ濁流のように流れ込んでくる。
ひいじいちゃんと僕。百年の時を超えて、今、二人の「境灯真」が完全にシンクロしていた。
「あ、あの、この子は――」
僕は思わず、隣の美琴を指差そうとした。
しかし、先輩坑夫は僕の言葉を遮り、フンと鼻を鳴らして闇の奥へと歩き出してしまった。
「……灯真」
美琴が、僕の作業着の袖を小さく引いた。
「あの人……私のこと、全然見えてない。声も、届いてないみたい……」
「え……?」
「さっき、あの人が近づいてきたとき、私、怖くて思わず身を引いたの。でも、あの人、私の身体を完全に『すり抜ける』みたいにして、あんたの前に立ったとよ……」
美琴の顔が、恐怖でさらに青ざめていく。
見えていない。触れられない。
美琴は確かに僕の隣にいて、僕だけが彼女の温もりを感じているけれど、この百年前の世界にとって、美琴は存在しない「透明な亡霊」なのだ。
怖い。帰りたい。今すぐ逃げ出したい。
だけど、この世界の住人ではないはずの美琴を連れて、僕はもう進むしかない。
手元にある真鍮製の安全灯の中、小さなオレンジ色の炎が、命そのもののようにゆらゆらと揺れていた。
【安全灯センサー】
周囲の恐怖レベル:上昇中(臨界値)
現実世界との同期率:15%
警告:灯を絶対に絶やすな
備考:炎が消えた瞬間、お前の世界は終わる。
「灯を消すなよ、灯真」
暗闇の奥から、先輩坑夫の声だけが響く。
「消えたら終わりだ。ここは大蛇の腹の中だからな」
その言葉の本当の意味を理解する間もなく。
僕たちの足は、暗闇の中へと勝手に歩みを進めていた。
一歩。また一歩。
地上の世界から、人間たちの光から、遠ざかっていく。
十間(約18メートル)ほど進んだところで、周囲の景色ががらりと変わった。
それまで続いていたレンガ造りの坑道が唐突に途切れ、そこから先は、無数の松丸太で組まれた剥き出しの坑道になっていた。
五寸、六寸(約15〜18センチ)の太い丸太が、地獄の肋骨みたいに連なっている。
その隙間から、絶えず不気味な地下水が滴り落ちていた。
ピチャリ。
ピチャリ。
その冷たい水が、僕の首筋を伝い、背中へ流れるたび、背筋が凍った。
美琴の身体はすり抜けて落ちていくその水が、僕の身体にだけは、耐え難い冷たさとして実体を持っていた。
「これ……本当に……」
美琴が、僕の腕をちぎれんばかりの力で掴んだ。
「本当に、百年前の炭鉱なの……?」
「……ああ、間違いない。ひいじいちゃんが見た、本物の三池炭鉱だ」
そう答えた、まさにその瞬間だった。
(ガラガラガラガラガラッ!!)
突如として、坑道の奥から鼓膜を破らんばかりの轟音が響いた。
「壁に寄れ!! 退避しろッ!!」
遠くから先輩坑夫の鋭い怒鳴り声。
僕は反射的に美琴の細い腰を抱き寄せ、松丸太の壁際へと激しく飛び退いた。
次の瞬間。
三台の炭車が、狂ったような、凄まじい速度で目の前を通過していった。
(ゴォォォォォォッ!!)
鉄の箱に満載された黒い石炭。鉄と石が擦れ合い、暗闇の中に激しく火花が散る。
生み出された凄まじい風圧だけで、身体ごと吹き飛びそうになった。
もし避けるのがあと一歩遅れていたら――僕の身体は一瞬で肉塊に変えられていただろう。
「ぼさっとしとったら死ぬぞ、灯真」
先輩坑夫は振り返りもしなかった。僕たちを撥ね飛ばしかけた炭車も、美琴の身体をただの幻影のようにすり抜けて走り去っていった。
冗談ではない。脅しでもない。ただの冷徹な事実だった。
ここでは。
死が、すぐ隣にあるのが日常だった。
さらに奥へ進む。
坑道は徐々に低くなり、足元はドロドロとした泥と地下水に埋まっていた。
衣服が肌に張り付くほど湿度は高い。けれど不思議と暑くはなかった。むしろ、夏の夕方に海から吹いてくる風のような、妙に生々しい涼しさがあった。
「……風?」
僕が呟く。
そうだ、風が吹いている。
ひいじいちゃんの記憶がすぐに答えた。
これは地上の巨大な送風機から送られてくる風。人間を窒息させないための、人工の呼吸だ。
この広大な地下世界は、人間が無理やり生き延びるために作られた、巨大な生命維持装置なのだ。
息苦しさに耐えかねて、僕は振り返り、思わず息を呑んだ。
坑口の光が……。
さっきまで僕たちがいた、地上の世界が信じられないほど、はるか遠く、小さくなっていた。
それはもう、手の届く出口ではなかった。
暗闇の果てにぽつんと浮かぶ、針の穴ほどの、小さな一点。
まるで、望遠鏡を反対側から覗き込んだように。
僕たちの生きていた人間の世界そのものが、手のひらに収まるほど小さな光になって遠ざかっていた。
「……帰れん」
美琴が、かすれた声で呟いた。
「これ……本当に帰れんくなるよ……」
僕を掴む彼女の手は冷たかった。
いや、ガタガタと震えていたのは、本当は僕の方だったのかもしれない。
どれほど歩いただろう。
永遠とも思える暗闇の果てに、ようやく少し開けた空間に出た。
『坑内見張所』――。
天井から吊るされた五十燭の白熱電灯が、電圧の不安定さにパチパチと瞬きながら、ぼんやりと周囲を赤黒く照らしている。
煤まみれの男たち。飛び交う怒号。壁掛け電話の狂ったようなベル。炭車の運行を告げる信号機の音。
ここが、この地下世界を動かす司令部だった。
そして、その喧騒の片隅で――。
「おい!! てめえ、何しよるッ!!」
突然、空間を切り裂くような怒鳴り声が響いた。
見張所の空気が一瞬で凍りつく。数人の坑夫たちが、一人の男を血相を変えて取り囲んでいた。
大柄で、顔に痛々しい古傷のある男だった。
その男は、周囲の殺気立った視線を浴びながら、ニヤニヤと不気味に笑っていた。
そして――あろうことか、自分の手にある安全灯のロックを外し、蓋をゆっくりと開け始めていたのだ。
僕の背筋に、今までで一番激しい戦慄が走った。
安全灯の蓋を開ける。それは、剥き出しの炎を炭鉱内に晒すことを意味する。
「何しよるか!!」
別の坑夫が殴りかからんばかりに怒鳴る。
「この奥でガスが出とったら、一瞬で全員吹き飛ぶとぞ!!」
だが、古傷の男はせせら笑った。
「へっ……」
男は懐から、クシャクシャになった煙草を一本、取り出した。
指先が美琴の衣服をすり抜けながら、男はゆっくりと、安全灯の、剥き出しになったオレンジ色の炎へと近づけていく。
(ジュッ……)
小さな音を立てて、白い煙草の先端に、赤い火が灯った。
空気が止まった。
誰も動かない。誰も息をしない。
もし今、この空間にメタンガスが充満していれば、全員が木端微塵になる。その究極の恐怖の1秒。
男はゆっくりと煙を吐き出した。
「見ろ」
男はニヤリと、狂気じみた笑みを浮かべる。
「俺は死なん。大蛇の腹だろうが何だろうが、俺は死なんたい」
その笑い声は、ひどく乾いていて、どこか痛々しい強がりに聞こえた。
「怖がっとったら、この暗い穴の中じゃあ1日も生きていけん。恐怖を忘れた奴だけが、ここで飯を食えるとや」
男は再び、深く煙を吸い込んだ。
その張り詰めた顔を見た瞬間、僕はすべてを理解した。
この人は、恐怖を知らない怪物じゃない。
誰よりも、この地底の恐怖を知っているのだ。
だからこそ――自分の中の恐怖を、1ミリでも認めてしまったら、その瞬間に精神が壊れてしまう。だから狂うしかないのだ。
この地下では、恐怖を認めた人間から順番に、闇に呑まれて壊れていく。
美琴が、僕の背中に隠れながら、小さく呟いた。
「……怖い。お化けとかじゃなくて、人間が、怖い……」
僕は静かに頷いた。
「うん……」
「でも……」
彼女は、その狂気の横で、静かに佇む馬小屋の馬を見た。走り回る炭鼠を見た。黙々と黒いダイヤを掘り続ける男たちを見た。
「みんな、ここで生きてる。これが、この街の生きてきた形なんだね」
その言葉に。
百年前の境灯真の心も、今の僕の心も、同じように激しく震えていた。
怖い。恐ろしい。死にたくない。
でも――知りたい。もっと、この世界の奥を。この闇のすべてを、網膜に焼き付けたい。
その時だった。
(――コン。)
音がした。
遠く。さらに奥。
安全灯の光さえ届かない、完全な、虚実の闇の中から。
(――コン。)
(――コン。)
規則正しく、岩盤を叩く硬い音。
まるで――誰かが、僕と美琴の二人を、指指して呼んでいるかのように。
見張所の男たちは、誰も反応しない。タバコの煙を睨み、電話に向かって叫び続けている。
聞こえているのは。
この世界にいるはずのない、僕と美琴の二人だけだった。
僕たちは、まだ知らなかった。
落盤でもない。
ガス爆発でもない。
暗闇そのものでもない。
三池炭鉱という地底世界において、最も恐ろしく、最も哀しい「ナニカ」が、この先に待っていることを。
実体を持たない美琴と、名前も身体も同期してしまった僕。
元の世界へ戻る道を完全に失ったまま、僕たちはまったく別の世界へと、さらに深く降りていこうとしていた。
(第7章 終わり)




