第6章 : 記憶の向こう側
ピンポーン。
夏の朝の静かな住宅街に、場違いなほど鋭いインターホンの音が響いた。
ピンポーン。
さらに二回。間髪入れずに、今度は連打。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
「……」
しかし、家の中からの返事はない。
大牟田の夏の朝。すでにじわじわと気温が上がり始めている境家の玄関前で、神崎美琴はしっかりと腕を組み、般若のような顔で仁王立ちしていた。
今日の美琴は、いつもとは少し違っていた。
普段のジーンズにTシャツという戦闘スタイルのような私服ではなく、珍しく白いブラウスに、紺色のひざ丈スカートを履いている。
髪もいつもより丁寧にまとめてあった。
べ、別に特別な理由があるわけじゃない。
ただ、昨日の帰り道、灯真と二人で歩いた時間が、ほんの少しだけ楽しかったから。
だから、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、女の子らしい格好をしてみようと思っただけだった。
鏡の前で「よし」と頷くまでに、どれだけの時間を費やしたかは絶対に口が裂けても言えない。
なのに――。
「起きろぉぉぉっ! 境灯真ぁぁぁっ!!」
六回目のチャイムを渾身の力で押し込もうとしたその時、
後ろから声がした。
「あら、美琴ちゃん? 朝から元気ねぇ」
振り返ると、買い物袋を提げた灯真の母が、少し驚いたような、そして全てを察したような顔で立っていた。
「あ、おばさん。おはようございます……」
美琴は一瞬で「お淑やかな幼馴染」の仮面を被り、ぺこりと頭を下げる。
「え? 灯真、まだ出てきてないの?」
「はい……」
「ええっ? 一時間前にちゃんと起こしたのに!」
おばさんは困ったように笑うと、慌ててバッグから鍵を探し始めた。
「ごめんね! 今開けるから! 中に入ってあのバカ息子起こしてやって」
「はい!」
ガチャリ。
鍵が開いた瞬間だった。
「おばさん、ごめん!」
美琴はそう叫ぶと同時に、お淑やかな仮面を速攻で投げ捨てて、玄関の扉を勢いよく開け放った。
「あらま、美琴ちゃん」というおばさんの声を背中で聞きながら、慣れ親しんだ階段を二段飛ばしで駆け上がる。
見慣れた二階の廊下。その突き当たりにある、境灯真の部屋。
「境ぃぃぃぃぃ灯真ぁぁぁぁぁ!!」
部屋のドアを勢いよく蹴り開ける。
そこには――。
人生でこれ以上ないほど幸せそうな、全人類を敵に回すレベルの無防備な顔で眠る灯真がいた。
抱き枕を愛おしそうに両腕でホールドし、口元にはだらしなくうっすらとした笑みを浮かべている。
「……むにゃ……替え玉カタで……チャーハンも……大将……」
ピキッ。
美琴の中で、何かが、完全に、音を立てて切れた。
昨日、あれだけ大真面目に「明日は石炭館で調査やね!」と話し合った感動の夜を返せ。
しかも、自分は朝から格闘して服まで選んできたというのに、この男は。
夢の中でラーメンを食べている。
「灯真ぁぁぁぁ!!」
(ドンッ!!!)
美琴の全力の回し蹴りが、灯真のベッドのマットレスに直撃した。
「ぶべぇっ!?」
「起きろぉぉぉっ!!」
「いったぁぁぁぁ!!?」
大牟田の平和な朝の住宅街に、灯真の絶叫が盛大に響き渡った。
十分後。
ヨレヨレの首元が伸びた黒Tシャツ。
洗濯しすぎて微妙に色が抜けたジーンズ。
爆発した鳥の巣のような寝癖(全開)。
鏡の前でポーズをキメると、
「よし、カンペキ!」
わずか五分で突貫工事された『境灯真』が完成した。
玄関で靴をトントンと整えながら待つ美琴は、完全な無言だった。
いや、怒っている時の美琴は、口うるさい時よりも「無言」の方が100倍恐ろしい。
周囲の空気の二酸化炭素濃度が上がっているのではないか、と灯真のセンサーが錯覚するほど、その無言が何より恐ろしかった。
「……あの、美琴さん?」
「何」
声が低い。完全にドスの効いたバリカタのトーンだ。
「いや、その、なんか……」
「何よ、早くして」
灯真はそこで初めて気がついた。今日の美琴が、いつもと違うことに。
白いブラウス。紺色のスカート。
朝の爽やかな光を浴びた横顔。
普段はガサツな幼馴染のくせに、こうして見ると、驚くほど綺麗になっていた。
心臓がドクンと跳ね、慌てて視線を逸らそうとするが、喉の奥にへばりついていた言葉が、なぜかポロリとこぼれ落ちた。
「……なんか、その。似合っとるね」
美琴が一瞬だけ、ピタリと足を止めた。
「……遅い」
ぽつりと、蚊の鳴くような声で呟く。
そして、少しだけ耳が赤くなった気がした。
「行くよ!!」
「……はい、すみませんでした」
灯真は、なぜかさっきより怒られている気がしながら、二人は気まずい距離感を保ったまま大牟田の街へと歩き始めた。
道中、太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトから陽炎が立ち上っている。
岬町にある目的地へ向かうバスに揺られながら、灯真は気まずさに耐えかねて、世界で一番中身のない雑談を振る。
「……今日は、なんか、あれだな。暑いな」
「はあ? 夏やけん暑いに決まっとろうが」
「あ、うん。そうだよな……。大牟田の夏は最高にホットだよな……」
「だから何」
「……」
会話、強制終了。
さらに数分後。
「そういえば、昨日のラーメン、マジで美味かったな!」
「何? また食べたいとか言い出す気? 太るよ」
「いや、思い出に浸ってただけです……」
会話、秒で終了。
さらに数分後。二人の距離は、心なしかいつもより30センチほど遠い。
「……美琴さん、もしかして、まだ怒っていらっしゃいますか?」
「別に。怒る理由なんてなかろうもん。あんたが遅刻して、寝癖が芸術的で、私の朝の60分が無駄になったくらいで、怒るわけなか。別に」
一番怖いパターンの答えだった。
灯真の脳内安全灯センサーが、ピコンピコンとけたたましくアラートを鳴らす。
【精神衛生アラート:緊急】
対象:神崎美琴。
現在の怒気パラメータ:計測不能(臨界突破中)。
推奨アクション:即座に土下座するか、美味いスイーツの情報を提示せよ。
「ひえぇ……」と心の中で涙を流しているうちに、バスは有明海に近いエリアへと到着した。
大牟田市石炭産業科学館。
小学生の社会科見学以来の場所だった。
館内に入ると、ひんやりとした空調の空気が二人を包み込み、夏休み期間中ということもあって家族連れがまばらに歩いている。
巨大な採炭機械。古い写真。黒く汚れた作業服。
展示のパネルを一つずつ見ながら、美琴がぽつりと呟いた。
「ここってさ……昔はただの、歴史の勉強のための場所だったんよね」
「ああ」
「でも今は違う」
灯真も深く頷いた。
ひいじいさんが見た世界。
日記に残された記憶。
大蛇の腹の中。
そのすべてが、この街の地下に眠っている。
ただの産業遺産だと思っていた景色が、今は得体の知れない生々しさを持って僕たちに迫ってきている。
「大丈夫? あんた、さっきから顔色が真っ青よ?」
美琴が異変に気づき、灯真の顔を覗き込んできた。
「いや……なんか……頭の奥が、熱いっていうか……」
灯真がこめかみを押さえる。一歩、展示室の奥へ進むたびに、奇妙な感覚が全身を包んでいくのだ。
脳内の安全灯センサーが、物理的な環境ではなく、自身の「脳内」に対して異常なエラーを吐き出し始めていた。
【警告:内部メモリの異常同期】
非合法な固有記憶のロードを検知。
深度:大正七年。
システムへの負荷:増大中。
「……いや、進もう。たぶん、この奥に『答え』がある」
灯真は寝癖の残る頭を激しく振り、美琴の目を真っ直ぐに見つめた。
美琴はその強い視線に一瞬圧倒されたが、すぐに「分かった」と力強く頷いた。
二人は吸い寄せられるように、科学館の目玉である『ダイナミック坑道』の入口へと向かった。
エレベーターを模した演出の先、扉が開くと、そこは人工的に再現された「模擬坑道」の世界だった。
薄暗い通路、レンガ積みの壁、天井を支える鉄骨の枠。スピーカーからは「ゴオォォォ」というリアルな地底の環境音が流れている。
観光客向けに再現された炭鉱。そのはずだった。
二人がそこに一歩足を踏み入れた、その瞬間。
美琴が短い悲鳴を上げて、自分の左手首を強く押さえた。
「っ……熱い!」
ブラウスの袖から覗く紋様が、展示の照明をかき消すほどの強烈な「青白い光」を放ち、脈打つように激しく明滅していた。
「美琴!?」
その瞬間。灯真の頭の中で、脳内安全灯センサーが鼓膜を破らんばかりの音量で絶叫した。
【!!!! 危険 !!!!】
【!!!! 警告 !!!!】
空間の位相変化を検知。
現実世界との同期率:22%まで低下。
『大正七年・記憶層』との強制的接触を開始します――!!
「うわっ……!」
視界が歪む。展示の壁がガラスのようにパリンと砕け散る。
空間がねじれ、伸び、天井が近代的なコンクリートから今にも崩れ落ちそうな生々しい岩盤へと変貌していく。
さっきまで聞こえていた観光客の声や家族連れの足音が、完全に消え去った。
代わりに。
ガラガラ、ギギギギ。
鉄と石の擦れる音。ひたすらに走る炭車の軋み。
肌にまとわりつく湿った空気。そして、濃厚な石炭と煤煙の臭い。
空気の色が、一瞬で「漆黒の闇」へと塗り替えられた。
『――私は初めて、この国の底にある坑内へと入った』
頭の中に、直接「誰かの声」が流れ込んできた。
いや。これは、ひいじいちゃんの記憶だ。
気がつくと、僕は半円形のレンガ積みの坑口の前に立っていた。
人工の科学館ではない。本物だ。
本物の、死の匂いがする大正時代の三池炭鉱の入り口。
外はまだ明るい昼間のはずなのに、その坑口の奥は、光を全て吸い尽くすかのような貪欲な暗闇が広がっている。
「新入り。灯は絶やすなよ」
煤まみれの先輩鉱夫が振り返り、ぶっきらぼうに言い放って歩き出していく。
手には、ずっしりと重い真鍮製の安全灯。中には、まだ大人しい、小さなオレンジ色の炎が揺れていた。
十三歳。ひいじいちゃんが初めて坑内へ入った日。
その胸に渦巻く、圧倒的な好奇心と、それを遥かに凌駕する圧倒的な「恐怖」。
足が、自分の意志とは関係なく、勝手に暗闇の奥へと前へ進んでいく。
天井を支えるのは、五寸の松丸太の支柱。その隙間から、絶えず「ピチャリ、ピチャリ」と冷たい地下水が滴り落ち、僕の首筋を濡らす。
耳の奥を劈くのは、走り続ける炭車の金属音。ワイヤーロープの擦れる怪物の咆哮のような音。
進むたびに、人間の世界から、地上の光から遠ざかっていく。
心細さに耐えかねて、思わず後ろを振り返った。
はるか遠くに見える、坑口の入り口。地上の光。
それは――まるで、望遠鏡を反対側から覗き込んだかのように、小さな小さな、一点の光になって遠ざかっていっていた。
さらに進む。
黒い壁。黒い柱。黒い天井。すべてが漆黒に染まった世界で、僕の手元にある安全灯の炎だけが揺れている。
足元にはドロドロとした地下水が川のように流れ、煤混じりの泥が作業靴を重くする。
(ヒヒィーーンッ!!)
突如、暗闇の奥から高く鋭い「馬の鳴き声」が響いた。
灯を向けると、そこには簡易的な木枠で作られた馬小屋があった。
一度この地下に降りたら、死ぬまで二度と太陽の光を見ることはない、目が退化した馬たち。
その足元を、見たこともないほど巨大な炭鼠たちが、キィキィと鳴きながら群れをなして走り回る。
「なんだ、ここは……。これが、三池炭鉱なのか……」
声が出た。
しかしそれは、17歳の僕の声ではなく、声変わりも完全ではない、13歳の少年の震える声だった。
さらに深く。さらに暗く。黒い地の底、大蛇の腹の、その最深部へ。
その時だった。
「……灯真」
すぐ隣から、小さく息を呑む声がした。
振り向く。
そこには――。
白いブラウス。
紺色のスカート。
この真っ黒な煤煙の立ち込める地底世界に、絶対に存在するはずのない、令和の女子高生の姿。
青白い紋様を痛々しいほどに輝かせた美琴が立っていた。
「見える……」
彼女の声は震えていた。
「全部……何なの?……。これが、百年前の……!」
二人の視線が交差した瞬間、僕は完全に理解した。
これは幻覚ではない。夢でもない。
僕たちは今。資料の文字を読んでいるのではなく、百年前の記憶の中へ、本当に足を踏み入れてしまったのだ。
そして、僕たちの住む世界とは、まったく別の世界へ降りていく。
坑口の向こうに見えていた昼の光が、音もなく閉じた。
二度と戻れないかもしれないという、底知れない予感だけが、はっきりとわかった。
(第6章 終わり)




