第5章:呼吸する街のスープ
大牟田駅の表駅前。
少し年季の入った赤提灯をくぐると、豚骨の濃厚な匂いと、小気味よい湯切りの音が僕たちを迎えてくれた。
さっきまでの郷土資料室での不気味な歴史の揺らぎや、足元から伝わる妙な重みは、カウンターに並んだ湯気の向こう側へと一旦押し流される。
「大将、ラーメン大盛り! あとチャーハンと餃子のセットも! 麺の硬さはカタで!」
「よくそんなに入るね……。うちは普通盛りで、バリカタね」
ワンパクざかりの僕の注文に呆れつつ、美琴がお冷やをプラスチックのコップに注ぐ。
美琴はコップをコト、と卓上に置き、僕をジト目で睨んでくる。
「……本当にあんたの胃袋は図太いね。さっきまで『歴史がリアルタイムで書き換わっとる』とか言って、鳥肌立てよった男と同じとはえらい違い」
「しょうがなかろうもん。脳みそが完全に糖分と塩分を欲しとったと。それに、ひいじいちゃんの記憶を頭の奥で引きずり出されたせいか、なんか妙にエネルギーを消費した気がするし……」
「まぁ、それはうちも少し分かる」
美琴は自分の手首にあるあの奇妙な紋様を見つめた。
「資料館で俗謡を見たとき、この紋様がドクドクって熱くなった。灯真が『知っている気がする』って言ったのと、たぶん同じタイミング」
「やっぱりか。お前の手首のそれ、やっぱりナビっていうか……何かしらの警報装置みたいなもんなんじゃないの?」
「だーかーら、そんなハイテクなもんじゃなか。うちの神社に伝わるものってだけで、取扱説明書なんて残っとらんし」
「へい、お待ち。ラーメンと、チャーハンセットね」
大将が威勢よく差し出してきた丼からは、白濁したスープと、大ぶりなチャーシュー、そして博多や長浜とはまた一味違う、大牟田ならではの少し太めのストレート麺が顔を覗かせていた。
続いて香ばしい匂いを放つチャーハンと、小ぶりの餃子が目の前に並ぶ。
「うお、美味そう……! いただきます!」
僕は割り箸を割り、まずはスープを一口すする。
ガツンとくる豚骨の旨味と、五臓六腑に染み渡る塩分。そこにチャーハンをかき込み、熱々の餃子を追う。
(二酸化炭素濃度、測定不能。しかし塩分、炭水化物、および幸福度、限界突破。極めて安全、かつ至高。今すぐ替え玉を視野に入れるべし)
脳内の安全灯センサーが、さっきとは全く違う方向で狂喜乱舞している。
「んー! 生き返るわ……」
「ん、美味しい」
僕は熱っぽく語り出す。
「いや、やっぱり駅前のラーメンと言ったら、この店のセットが一番たいね。」
「ここのチャーハンと餃子をスープにくぐらせて喰うのが、俺の中で大牟田ナンバーワンの組み合わせなんよ」
美琴は、お冷やをごくりと飲むと、呆れたように、でもどこか楽しそうに目を細めた。
「あはは、灯真は相変わらずワンパクやねぇ。……まぁ、確かにここのセットは間違いなか。ばってんね」
美琴は人差し指をチッチッと振って、ツウな顔をしてみせる。
「私はね、あそこの『便所ラーメン』が好きっちゃね。」
「あの、ちょっとドロッとしたスープに太めの麺が絡む感じがさ、無性に恋しくなるとよ」
「出た! 、あそこの呼び名、県外の人が聞いたら絶対ひっくり返るよな。テレビにも出とったし、なんであんな美味いのに便所ラーメンっち呼ばれよるんかって。でも分かるわ、あのドロっとした濃厚さはクセになる」
「やろ? お祭りんときとか、あの濃い味が急に食べたくなるっちゃもん」
湯気を立てて運ばれてきた並々と注がれた並ラーメン。
紅生姜を少し乗せ、レンゲでスープをすする。
口いっぱいに広がるまろやかな豚骨の旨味が、さっきまで図書館の古い図面や資料を睨みつけて凝り固まっていた脳みそを、じわじわと現実に引き戻してくれた。
「……ふぅ。生き返る……」
「生き返るねぇ」
美琴も麺をすすりながら、ふと箸を止めた。
「……でもさ、灯真」
「ん?」
「こんなに美味しいラーメン食べて、普通の街の音がしよるのにさ」
美琴は、ガラス窓の向こうの、のどかな大牟田の街並みに目を向けた。
「うちらがさっき見た、あの『途切れた坑道図』も、おばあちゃんが言っとった『大蛇の話』も……全部、この街の本当の姿なんよね」
スープに浸した餃子を口に運ぼうとしていた僕の手が、ピタリと止まった。
日常の象徴であるラーメンの湯気の向こう側で、僕たちの足元──このコンクリートのさらに深くにある、暗く巨大な「大蛇の腹の中」が、一瞬だけ透けて見えたような気がした。
湯気の中で食べるラーメンは異常なほど正常で、むしろそれが不安だった。
(正常すぎる場所は、逆に異常なのではないか)
そんな考えが頭をよぎる。
美琴も麺をふうふうと冷ましながら口へ運んでいく。
僕はレンゲでスープをすくいながら、声を低くした。
「……でさ、美琴。さっきお前が言ったこと、チャーハン食いながら考えとったとばってん」
僕は麺をすすり終え、チャーシューに箸を伸ばす。
「神崎神社から見て『南西』。大蛇山の巡行ルートと、主要な坑道の網の目がぴったり重なるって話」
「うん。書き写した俗謡と、頭の中のマップを合わせたら、どうしてもそこに行き着くとよ」
美琴は箸を止め、真面目な目で僕を見た。
「『塞がれた口』『戻ってくる坑道』『呼吸する谷』『大蛇の眠る線』。この4つの言葉が示す交差点が、大牟田の南西にある」
「それって、具体的にどこや?」
美琴はスープを一口飲み、小さく呟いた。
「……三池炭鉱の、宮原坑跡か、さらに奥の。古い社のある三川坑跡地」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の奥で、ひいじいちゃんの記憶がまたカチリと音を立てて噛み合った。
スープを飲み干し、丼の底が見える頃には、夕日が街を本格的に包み始めていた。
「ごちそうさま!」と大将に声をかけ、店を出る。
夜の調査は危険すぎる。
僕の脳内の安全灯センサーを働かせるまでもなく、今日のところは一旦解散して、お互いの家へ帰ることにした。
駅前から自宅へと続く、見慣れた帰り道。
街灯がぽつぽつと灯り始める中、茜色から深い紫へと移り変わる夕日が、前を歩く美琴の背中を鮮やかに照らし出していた。
ふと、僕の視線が彼女の背中に固定される。
薄手のTシャツが、夕日を逆光にして美琴の身体の柔らかなラインをくっきりと浮かび上がらせていた。
いつも通りのジーパン姿のはずなのに、腰から太ももにかけての曲線が、祭りの浴衣姿のときとはまた違う、妙に生々しい「女の子」のシルエットを主張している。
(いや、まてまて。落ち着け俺!)
心臓がドクンと跳ね、慌てて視線を逸らそうとした、その瞬間だった。
僕の脳裏に、全く予期せぬ最悪のビジョンがフラッシュバックした。
「ふんどしおばけ」の姿が。
美琴の綺麗なシルエットの背後に、なぜか重なるようにして現れる、ふんどしおばけの幻影。
脳内で激しく交錯する「美少女の曲線」と「ふんどしおばけの肉体美」
あまりにも強烈すぎるミスマッチに、僕の脳内安全灯センサーが、バグを起こしたようにけたたましい警告音を鳴らし響かせた。
【エラー:対象のビジョンが著しく汚染されています。精神衛生上の危険度、限界突破。今すぐ忘却すべし】
「うわっ、頭から離れん……!」
思わず頭を抱えて小さく声を漏らした僕に、前を歩いていた美琴が、不意にくるりと振り返った。
夕闇に紛れかけたその瞳が、じろりと僕を射抜く。
「……ちょっと、灯真。あんたさっきから、また何かよからぬ事ば考えよろうが!」
美琴のジト目が完全に「疑惑」で満ちている。
ここでふんどしの話なんかしたら、今度こそ本当に分厚い何かでドツかれる。
「な、なんてかっ!!」
僕は裏返った声を上げながら、大袈裟に手を振って、限界までフル回転させた脳みそで急いで話を誤魔化しにかかった。
「ち、違うって! ほら、明日の作戦を考えよったとよ! そう、明日! 、まずはあそこ、石炭館に行ってみよかと思ってさ!」
「石炭館?」
美琴が怪訝そうに眉をひそめる。
「そう! 石炭産業科学館! あそこなら、三池炭鉱の歴史も、実際のダイナミック坑道(模擬坑道)も体験できるし、もっと具体的な図面やヒントが転がっとるかもしれんだろ?」
一気にまくしたてると、美琴は少しだけ考えるように視線を落とした。
僕の苦肉の策による話題転換は、なんとか功を奏したらしい。
ふんどしおばけの幻影が、僕の頭から静かに消えていく。
「……ふーん。まぁ、確かにあそこなら、うちの神社以外の記録もたくさん集まっとるしね。お役所の資料にはない何かが、展示の隙間に隠されとるかもしれん」
美琴は納得したように小さく頷くと、不敵な笑みを浮かべた。
「よかよ。じゃあ明日の朝迎えに行くけん、起きとかなんよ!」
「分かっとるって。じゃあ、また明日な」
手を振り、それぞれの帰路へと別れる。
美琴の姿が見えなくなった後、僕はもう一度、静まり返った大牟田の夜空を見上げた。
明日は石炭館。かつてこの街が掘り進めてきた、黒い歴史のシンボル。
ひいじいちゃんの日記が告げた『これは大蛇の腹の中だ』という言葉の意味に、僕たちは一歩ずつ、確実に近づこうとしていた。
(第5章 終わり)




