第10章:違和感の初動
夏休みが始まって、一週間ほどが過ぎていた。
朝方に降った激しい雨のせいで、街全体が蒸し風呂のような熱気に包まれている。
アスファルトは濡れたまま熱を持ち、遠くの道路がゆらゆらと揺れて見えた。
僕と美琴は、特に目的もなく大牟田の街を歩いていた。
石炭館で体験したことを、お互いほとんど口にしていない。
いや、正確には――口にできなかった。
あれが夢だったと言い切るには、あまりにも生々しかった。
けれど現実だったと言い切るには、あまりにも異常すぎた。
だから僕たちは、暗黙の了解として、その話題を避けていた。
「……蒸し暑かっ」
隣を歩く美琴が、前髪をふっと吹き上げた。
「まだ午前中やぞ」
「だからよ。あと一か月こんなん続くとか地獄やん」
僕は苦笑した。
いつもの美琴だ。
いつもの、はずだった。
「今日はどこ行く? 資料館か? 図書館か?」
そう尋ねると、美琴は露骨に嫌そうな顔をした。
「……今日は、嫌、気が乗らん」
「お、珍しい」
「なんか……考えたくなか」
その言葉に、僕も返事ができなかった。
本当は、僕も同じだったからだ。
あの暗闇。
あの坑道。
あの音。
あの、『コン、コン』。
思い出したくなかった。
「……じゃあさ」
僕は無理やり笑った。
「マックでも行くか。今日は俺が奢っちゃっけん」
美琴が立ち止まった。
「……は?」
「なんだよ」
「あんたが奢るって、珍しかやん」
「たまにはよかたい」
「……熱でもある?」
「失礼な」
「なら、ゆめタウンのマックがよか、百均にも行きたかし」
久しぶりに、美琴が少しだけ笑った。
それだけで、少し安心した。
僕は振り返りながら歩き始めた。
「ほら、ゆめタウン行くぞ」
「あっ、ちょっと――」
美琴が何か言いかけた。 でも、その言葉は最後まで続かなかった。
僕は後ろ向きのまま歩いていた。
話をしながら。
笑いながら。
それなのに僕の足は、一度も迷わなかった。
雨上がりの大きな水たまりを自然に避け、 赤い三角コーンをかわし、 放置された自転車のペダルにも触れず、 側溝の割れた蓋も正確に避けていた。
足元なんて、一度も見ていない。
まるで身体だけが、危険を知っているかのように。
美琴が立ち止まる。
僕だけが気づかない。
「……灯真」
「ん?」
「今……見えとった?」
「何が?」
「いや……」
美琴は黙った。
僕は首を傾げた。
「どうした?」
「……何でもなか」
そう言って、美琴は再び歩き始めた。
でも、その目だけは、ずっと僕の足元を見ていた。
ゆめタウンのマクドナルドは、夏休みの学生たちで賑わっていた。
冷房の効いた店内に入った瞬間、僕たちは同時にため息をついた。
「生き返る……」
「やっぱ文明は偉大やね」
適当に席を取り、ハンバーガーをかじる。
周囲には笑い声。
子供の声。
スマホの着信音。
ごく普通の夏休みの風景。
そのはずだった。
――コン。
僕の手が止まった。
今。
聞こえた。
確かに。
「……灯真?」
美琴が顔を上げた。
僕は周囲を見回した。
誰も反応していない。
店員は注文を取っている。
子供たちは騒いでいる。
誰も聞いていない。
――コン。
今度は、美琴の顔色が変わった。
「……聞こえた?」
僕はゆっくり頷いた。
「……うん」
――コン。
――コン。
規則正しい。
硬い。
岩を叩く音。
百年前のあの坑道の奥から聞
こえた音。
あれと全く同じだった。
「帰ろう」
美琴が震えた声で言った。
「……うん」
食べかけのポテトを残したまま、僕たちは店を出た。
帰り道。
空は真っ青だった。
蝉がうるさいほど鳴いている。
なのに。
「……なあ」
僕は立ち止まった。
「今、感じた?」
美琴は答えなかった。
ただ、真っ青な顔で足元を見ていた。
ドクン。
地面が脈打った。
錯覚ではない。
足の裏から伝わってくる。
巨大な心臓。
地下深くで何かが鼓動している。
ドクン。
ドクン。
アスファルトの下。
街の下。
大牟田そのものが、生き物のように脈打っている。
周囲の人間は誰も気づかない。
信号待ちをしている。
笑っている。
スマホを見ている。
僕たちだけが、その振動を感じていた。
「……嫌」
美琴が小さく呟いた。
「もう嫌」
僕は何も言えなかった。
だって、僕も同じだったから。
その夜。
眠れなかった。
エアコンの音。
時計の秒針。
外を走る車。
全部が気になった。
午前二時。
僕は諦めて、部屋の電気を消した。
その瞬間。
世界が変わった。
真っ暗。
違う。
これは部屋の暗闇じゃない。
坑道の暗闇だ。
湿った空気。
石炭の臭い。
水滴の音。
遠くで軋む炭車。
僕は息を止めた。
ありえない。
ありえない。
ありえない。
なのに。
――灯真。
声がした。
男の声だった。
老人でもない。
若者でもない。
聞いたことがある。
いや。
知っている。
百年前の。
十三歳の。
境灯真の声だった。
――まだ終わっていない。
僕は飛び起きた。
汗で全身が濡れていた。
時計を見る。
午前二時二十分。
その瞬間。
窓の外。
夜の街のどこか遠くから。
――コン。
音がした。
――コン。
また。
――コン。
僕は震えながら窓を開けた。
夏の夜風が吹き込む。
街は静かだった。
誰もいない。
何もない。
なのに。
音だけが続いていた。
まるで。
地下の誰かが。
まだ僕たちを呼んでいるかのように。
僕と美琴は、ほとんど同時に電話をつかんでいた。
「あのさ」
『……ねえ』
二人とも黙った。
そして。
「……もう終わったと思っとった」
『……私も』
また沈黙が流れた。
電話越しには、お互いの浅い息づかいだけが聞こえていた。
「……でも」
『……うん』
僕は目を閉じた。
あの音は、まだ続いている。
地の底から。
僕たちを呼んでいる。
逃げても終わらない、 あの音は僕たちを追いかけてくる。
「……宮原坑跡、行く?」
僕は言った。
「……行かんと、終わらん気がする」
その言葉を口にした瞬間。
電話の向こうで。
美琴が、小さく息を呑んだ気がした。
(第10章 終わり)




