第11章 : 記憶の癖
「トイレ、トイレ……」
午前三時半。
尿意に襲われて目が覚めた。
意識はまだ、半分眠りの中に溶けている。
僕はベッドから這い出し、自室のドアを開けた。
廊下も、その先にある階段も、吸い込まれそうなほど真っ暗だった。
いつもならスマホのライトを点けるか、手探りで壁のスイッチを探すはずだった。
なのに。
僕は電気もつけず、漆黒の階段を迷いなく駆け下りていた。
一段の狂いもない。
足裏がとらえた木材のわずかな感触。
空間に反響する自分の衣擦れの音。
それだけで、闇の中の段差を完璧に、そして無音に近くハイスピードでクリアしていく。
トイレを済ませ、再び闇の階段を駆け上がり、ベッドに入る。
「んー?……」
枕に頭を沈めた瞬間、寝ぼけた頭に、何か奇妙な違和感が残った。
今、俺。
なんで普通に階段を走れたんだ……?
「……まあ、いっか。寝よ」
考えるのをやめて、僕は再び深い眠りに落ちた。
◇
いつもなら昼前まで泥のように眠っている夏休みなのに。
なぜか今朝は、早朝五時に目が覚めてしまった。
頭は冴え渡っている。
なんとなく部屋にいるのが落ち着かなくて、僕はそのまま、神崎神社の方へと散歩に出かけることにした。
朝の空気は、まだ昼間の熱気を含んでいなくて心地いい。
長い石段を一歩ずつ登っていると、上の方から奇妙な音が聞こえてきた。
――シュッ! ……シュッ!
――ザザッ!
空気を鋭く引き裂く音と、きしむ足の踏み込み。
不審者かと思って身を隠しながら境内に足を踏み入れると、そこには一本の木刀を握りしめた美琴がいた。
朝靄の中、一心不乱に木刀を振るい、巫女の舞の練習をしている。
「……これいだ」
思わず、声が漏れそうになった。
短パンからのびた引き締まった太もも。
汗でじんわりと透けたTシャツの奥に、うっすらと浮き出たブラのライン。
不謹慎にもドギマギしてしまうほど健康的な色気がある。
だけど、それ以上に。
その鋭い剣さばきで何かを断ち切ろうとするような姿は。
僕たちの頭から離れないあの地底の恐怖を、無理やり忘れようとしているようにも見えた。
ザッ、と僕が足を踏み出すと、美琴が動きを止めた。
「あれ、灯真、なんしょっと?」
肩を揺らし、荒い息を吐きながら美琴が振り返る。
僕は目を泳がせながら、慌てて言い訳を作った。
「な、何か目が覚めたけん、散歩たい」
「珍しかやん、あんたが早起きとか……」
美琴は意外そうな顔をしたが、すぐに何かを思いついたように顔を輝かせた。
「あっ! ちょうど良かった、もうすぐラジオ体操があるけん、手伝わんね」
「なんで……」
嫌だ、と言いかけるより早く。
石段の方から「おはようございます!」と子供たちの元気な声が響き始めた。
小学生たちが、スタンプカードを手に続々と境内に集まってくる。
美琴は一瞬でいつもの弾けるような笑顔になり、子供たちを出迎えた。
「おはよう! ハンコ押すけんみんなこっちおいでー」
その、いつも通りに明るく元気な美琴の姿を見て、僕の胸の奥の強張りが少しだけ解けていく。
「はよー灯真、手伝って!」
「ハイハイ、なんすっとよかと」
自然と笑顔になり、僕は美琴の隣に並んだ。
そこへ、神社の奥からおばあさんも微笑みながら出てきた。
「灯真君、ラジオ体操しに来たとね、感心感心。今度から毎日こんなんたい」
「あはは! ラジオ体操のスタンプカード作っちゃるたい」
美琴が爆笑する。
おばあさんの前だから無下に嫌がるわけにもいかず、僕は笑って誤魔化すしかなかった。
やがて音楽が流れ、ラジオ体操が始まる。
学校の体育の授業では、いつも気だるそうにダラダラとやっている僕だったが――。
(……え?)
自分の動きが、明らかに狂っていた。
一つ一つの動作のキレが異常なのだ。
深呼吸、腕を振る運動、身体をねじる運動。
筋肉の連動が完璧すぎて、まるで精密機械か、あるいは限界まで鍛え上げられたアスリートのような、恐ろしいほどの美しさと鋭さで体が動いてしまう。
「すごーい!」「お兄ちゃんかっこいい!」
体操しながら、周囲の子供たちの視線がキラキラと僕に集まる。
その様子がやけにツボにハマったのか、美琴が吹き出しそうになりながら、小さく呟いた。
「楽しい」
本当に、久しぶりに聞いた、心からの声だった。
ラジオ体操が終わり、子供たちが帰っていくと、おばあさんが僕の肩を優しく叩いた。
「これから朝ごはんやけん、灯真君も食べてかんね」
「ありがとうございまーす、いただきまーす!」
僕のあまりの即答ぶりに、美琴が呆れたように笑う。
「食いもんになると食い付きが早かねー」
「ほら、上がらんね」
玄関でおばあさんに手招きされ、「お邪魔しまーす」と僕は神社の居間へ上がった。
案内されたテーブルを見て、僕は目を見張った。
そこには、大盛りの炊き立てご飯に、湯気の立つ味噌汁、自家製の漬物。
さらに焼き魚、目玉焼きにウインナー、サラダ。納豆に海苔まで添えられている。
これぞ日本の朝食、という完璧なラインナップがズラリと並んでいた。
美琴が少し照れくさそうに、お盆を置きながら言った。
「食べて食べて」
「いただきまーす!」
箸をつけ、口に放り込む。
「うっわ!……うっま!」
「男ん子はよかね……遠慮せんでいっぱい食べてかんね」
おばあさんが目を細める。
「あざっす!……おかわり!」
「よう朝から入るね」
信じられないという風に美琴が呟く。
「だって美味いっちゃもん」
僕が白米をバクバクと掻き込むと、美琴は少し頬を赤らめて視線をそらした。
すると、おばあさんがお茶を入れながら微笑んだ。
「今日は、なんか知らんばってん美琴ちゃんが1人分多く作ってたと。ちょうど良かったねぇ」
「なっ……! だって、なんか知らんばってん、灯真が来るような気がしてて……っ」
美琴が慌てて言いかける。
おばあさんは頬に手を当てて、「あらぁ〜」と嬉しそうに声をあげた。
「もう、おばあちゃん! からかわんで!」
顔を真っ赤にして怒る美琴。
美琴の家はここから少し離れた場所にある。
だけど中学生の頃、両親が突然行方不明になり、今は、おばあさんと神社で暮らしている。
あの時は、なんて声をかけていいか分からなかった。
そして、また、短い間に色々ありすぎて、今だけは、この何気ない日常に浸りたかった。
(……なんか、いいな)
「あぁ美味かった。ご馳走様でした。じゃ、一回帰るわ」
お腹いっぱいになって立ち上がった僕に、美琴がいつもの少し強い調子で声をかけた。
「灯真、九時頃迎えに行くけん。用意して起きとかなんよ!」
九時。僕たちが決めた、あの「宮原坑跡」へ向かう時間。
ドクン。
心臓が跳ねると同時に、脳裏にあの冷徹なノイズが走った。
【安全灯センサー:警告】
未踏破領域『宮原坑』への接近を検知。生存プロトコルを維持、装備の最適化を推奨します。
脳内の安全灯センサーが、静かに、けれど逃れられない確実さで警報を鳴らす。
僕は、美琴の目を真っ直ぐに見据えて答えた。
「大丈夫。ちゃんと用意して待っとくって」
(第11章 終わり)




