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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第11章 : 記憶の癖



「トイレ、トイレ……」


午前三時半。


尿意に襲われて目が覚めた。


意識はまだ、半分眠りの中に溶けている。


僕はベッドから這い出し、自室のドアを開けた。


廊下も、その先にある階段も、吸い込まれそうなほど真っ暗だった。


いつもならスマホのライトを点けるか、手探りで壁のスイッチを探すはずだった。


なのに。


僕は電気もつけず、漆黒の階段を迷いなく駆け下りていた。


一段の狂いもない。


足裏がとらえた木材のわずかな感触。


空間に反響する自分の衣擦れの音。


それだけで、闇の中の段差を完璧に、そして無音に近くハイスピードでクリアしていく。


トイレを済ませ、再び闇の階段を駆け上がり、ベッドに入る。


「んー?……」


枕に頭を沈めた瞬間、寝ぼけた頭に、何か奇妙な違和感が残った。


今、俺。


なんで普通に階段を走れたんだ……?


「……まあ、いっか。寝よ」


考えるのをやめて、僕は再び深い眠りに落ちた。



いつもなら昼前まで泥のように眠っている夏休みなのに。


なぜか今朝は、早朝五時に目が覚めてしまった。


頭は冴え渡っている。


なんとなく部屋にいるのが落ち着かなくて、僕はそのまま、神崎神社の方へと散歩に出かけることにした。


朝の空気は、まだ昼間の熱気を含んでいなくて心地いい。


長い石段を一歩ずつ登っていると、上の方から奇妙な音が聞こえてきた。


――シュッ! ……シュッ!


――ザザッ!


空気を鋭く引き裂く音と、きしむ足の踏み込み。


不審者かと思って身を隠しながら境内に足を踏み入れると、そこには一本の木刀を握りしめた美琴がいた。


朝靄あさもやの中、一心不乱に木刀を振るい、巫女の舞の練習をしている。


「……これいだ」


思わず、声が漏れそうになった。


短パンからのびた引き締まった太もも。


汗でじんわりと透けたTシャツの奥に、うっすらと浮き出たブラのライン。


不謹慎にもドギマギしてしまうほど健康的な色気がある。


だけど、それ以上に。


その鋭い剣さばきで何かを断ち切ろうとするような姿は。


僕たちの頭から離れないあの地底の恐怖を、無理やり忘れようとしているようにも見えた。


ザッ、と僕が足を踏み出すと、美琴が動きを止めた。


「あれ、灯真、なんしょっと?」


肩を揺らし、荒い息を吐きながら美琴が振り返る。


僕は目を泳がせながら、慌てて言い訳を作った。


「な、何か目が覚めたけん、散歩たい」


「珍しかやん、あんたが早起きとか……」


美琴は意外そうな顔をしたが、すぐに何かを思いついたように顔を輝かせた。


「あっ! ちょうど良かった、もうすぐラジオ体操があるけん、手伝わんね」


「なんで……」


嫌だ、と言いかけるより早く。


石段の方から「おはようございます!」と子供たちの元気な声が響き始めた。


小学生たちが、スタンプカードを手に続々と境内に集まってくる。


美琴は一瞬でいつもの弾けるような笑顔になり、子供たちを出迎えた。


「おはよう! ハンコ押すけんみんなこっちおいでー」


その、いつも通りに明るく元気な美琴の姿を見て、僕の胸の奥の強張りが少しだけ解けていく。


「はよー灯真、手伝って!」


「ハイハイ、なんすっとよかと」


自然と笑顔になり、僕は美琴の隣に並んだ。


そこへ、神社の奥からおばあさんも微笑みながら出てきた。


「灯真君、ラジオ体操しに来たとね、感心感心。今度から毎日こんなんたい」


「あはは! ラジオ体操のスタンプカード作っちゃるたい」


美琴が爆笑する。


おばあさんの前だから無下に嫌がるわけにもいかず、僕は笑って誤魔化すしかなかった。


やがて音楽が流れ、ラジオ体操が始まる。


学校の体育の授業では、いつも気だるそうにダラダラとやっている僕だったが――。


(……え?)


自分の動きが、明らかに狂っていた。


一つ一つの動作のキレが異常なのだ。


深呼吸、腕を振る運動、身体をねじる運動。


筋肉の連動が完璧すぎて、まるで精密機械か、あるいは限界まで鍛え上げられたアスリートのような、恐ろしいほどの美しさと鋭さで体が動いてしまう。


「すごーい!」「お兄ちゃんかっこいい!」


体操しながら、周囲の子供たちの視線がキラキラと僕に集まる。


その様子がやけにツボにハマったのか、美琴が吹き出しそうになりながら、小さく呟いた。


「楽しい」


本当に、久しぶりに聞いた、心からの声だった。


ラジオ体操が終わり、子供たちが帰っていくと、おばあさんが僕の肩を優しく叩いた。


「これから朝ごはんやけん、灯真君も食べてかんね」


「ありがとうございまーす、いただきまーす!」


僕のあまりの即答ぶりに、美琴が呆れたように笑う。


「食いもんになると食い付きが早かねー」


「ほら、上がらんね」


玄関でおばあさんに手招きされ、「お邪魔しまーす」と僕は神社の居間へ上がった。


案内されたテーブルを見て、僕は目を見張った。


そこには、大盛りの炊き立てご飯に、湯気の立つ味噌汁、自家製の漬物。


さらに焼き魚、目玉焼きにウインナー、サラダ。納豆に海苔まで添えられている。


これぞ日本の朝食、という完璧なラインナップがズラリと並んでいた。


美琴が少し照れくさそうに、お盆を置きながら言った。


「食べて食べて」


「いただきまーす!」


箸をつけ、口に放り込む。


「うっわ!……うっま!」


「男ん子はよかね……遠慮せんでいっぱい食べてかんね」


おばあさんが目を細める。


「あざっす!……おかわり!」


「よう朝から入るね」


信じられないという風に美琴が呟く。


「だって美味いっちゃもん」


僕が白米をバクバクと掻き込むと、美琴は少し頬を赤らめて視線をそらした。


すると、おばあさんがお茶を入れながら微笑んだ。


「今日は、なんか知らんばってん美琴ちゃんが1人分多く作ってたと。ちょうど良かったねぇ」


「なっ……! だって、なんか知らんばってん、灯真が来るような気がしてて……っ」


美琴が慌てて言いかける。


おばあさんは頬に手を当てて、「あらぁ〜」と嬉しそうに声をあげた。


「もう、おばあちゃん! からかわんで!」


顔を真っ赤にして怒る美琴。


美琴の家はここから少し離れた場所にある。


だけど中学生の頃、両親が突然行方不明になり、今は、おばあさんと神社で暮らしている。


あの時は、なんて声をかけていいか分からなかった。


そして、また、短い間に色々ありすぎて、今だけは、この何気ない日常に浸りたかった。


(……なんか、いいな)


「あぁ美味かった。ご馳走様でした。じゃ、一回帰るわ」


お腹いっぱいになって立ち上がった僕に、美琴がいつもの少し強い調子で声をかけた。


「灯真、九時頃迎えに行くけん。用意して起きとかなんよ!」


九時。僕たちが決めた、あの「宮原坑跡」へ向かう時間。


ドクン。


心臓が跳ねると同時に、脳裏にあの冷徹なノイズが走った。


【安全灯センサー:警告】

未踏破領域『宮原坑』への接近を検知。生存プロトコルを維持、装備の最適化を推奨します。


脳内の安全灯センサーが、静かに、けれど逃れられない確実さで警報を鳴らす。


僕は、美琴の目を真っ直ぐに見据えて答えた。


「大丈夫。ちゃんと用意して待っとくって」


(第11章 終わり)



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