第12章:語られなかった坑道
朝九時前。
美琴は少し重い足取りで、僕の家の玄関へと向かっていた。
いつものように三回はインターホンを鳴らし、それでも起きない僕を「はよ起きんね!」と叩き起こすのが目に見えてるからだ。
ましてや、今日はあの不気味な『宮原坑跡』へ向かう日だ……気が重い。
「灯真、きっと二度寝したとやろなぁ」
美琴がインターホンに手を伸ばすより早く、ガチャリとドアが開いた。
僕は既に出かける格好に着替え、リュックを背負って玄関に立っていた。
「おはよう……って」
美琴はパチクリと目を丸くした。
「なん?」
「……生きとった」
「何だその確認」
「いや、いつもなら三回起こしても起きんやろ」
「今日は本気やけん」
僕が真面目な顔でスニーカーの紐を結び直すと、美琴はふっと視線を落とした。
「……怖か?」
小さく、掠れた声だった。
「怖い」
僕は正直に答えた。
嘘をついても意味がない。
昨夜のあの生々しい暗闇と、脳裏に響いた自分の声がまだ耳の奥に残っている。
「ばってん、知らんままの方がもっと怖か」
僕が顔を上げて笑ってみせると、美琴は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから小さく「……うん」と頷いた。
◇
大牟田の街を走る西鉄バスの車内は、お年寄りが数人乗っているだけで静かだった。
窓の外を、夏の青空が流れていく。
ぎらつく太陽に照らされた古い住宅街、遠くに見える大工場群の煙突、放置された自転車、そして今はもう使われていない炭鉱電車の廃線跡。
怪異なんてどこにも存在しないような、あまりにもありふれた大牟田の日常風景だった。
「なぁ美琴」
「なん?」
「今さらやけどさ、俺ら高校生が夏休みにすることじゃなくない? 普通さ、海行くとか、イオンモールで遊ぶとかやん」
「……今さら言うな。あんたが『行く?』って聞いたっちゃろ」
美琴は窓の外を眺めたまま、呆れたように、でもどこかホッとしたように口元を緩めた。
バスが止まり、僕たちは目的地へと降り立つ。
目の前に現れたのは、夏の青空に突き刺さるような、巨大な赤い鋼鉄の櫓だった。
宮原坑跡。
明治の時代からここにそびえ立つ、日本最古の竪坑櫓。
その横には、重厚なイギリス積みの赤煉瓦で造られた巻揚機室が、静まり返った空気の中に佇んでいる。
美琴が、櫓の前に着いた瞬間に足を止めた。
そして、すっと静かに胸の前で手を合わせた。
「山の神様。今日はお邪魔します」
「……観光施設にも挨拶すると?」
「何言いよると。炭鉱は山の神様の領分やけん。許してもらわんと入れんとよ」
美琴の引き締まった横顔を見て、僕の背筋が少しだけ伸びた。
ここはただの歴史遺産じゃない。
かつて数え切れないほどの人間が、命を懸けて地の底へと潜っていった『本物の坑口』なのだ。
◇
施設の中に入り、僕たちは展示されている資料や道具を見て回った。
壁に掛けられた、網の目のように複雑に入り組んだ巨大な地下坑道図。
色褪せた白黒の写真。
実際に使われていた、ゴツゴツとした鉄製の炭車や、古い作業道具の数々。
けれど、どれだけ目を凝らしても、僕たちの探している「答え」らしきものは見つからない。
「……収穫ゼロやね」
美琴が展示ケースを覗き込みながら、小さくため息をついた。
「これなら、埋蔵金探した方が早かったかもな」
「まだそんなこと言いよる」
僕が肩をすくめると、美琴が少しだけ呆れたように笑う。
その時、僕たちの背後から、低く掠れた声が掛けられた。
「見学かい?」
振り返ると、そこにはボランティアのガイドを勤めているらしい、一人の老人が立っていた。
「あ、はい。そうです」
「夏休みに珍しか若者たちやねぇ。よし、せっかくやけん案内してあげようか」
老人は穏やかな笑みを浮かべ、宮原坑の歴史について話し始めた。
ここが明治時代に開かれ、深さ百六十メートルもの垂直の穴が掘られていたこと。
毎日大量に湧き出る地下水を抜くために、イギリス製の巨大な排水ポンプが二十四時間動き続けていたこと。
老人の語るリアルな炭鉱の描写を、僕は胸の鼓動を抑えながら聞いていた。
深さ百六十メートル。
そこから先へ、さらに深くへ続く闇。
老人の説明がひと段落したところで、僕は思い切って、ずっと気になっていた質問を投げかけた。
「あの……」
「ん? 何かね」
「当時の炭鉱で……何か、不思議な話とか、怪談みたいなことってありませんでした?」
質問した瞬間。
老人の表情が、ピタリと止まった。
室内の空気が、一瞬で凍りついたように静まり返る。
窓の外で鳴く蝉の声が、妙に遠く聞こえた。
老人はゆっくりと僕の顔を見つめ、それから、深く刻まれた目元の皺をさらに深くして、声を潜めた。
「……あったよ」
その声のトーンに、美琴の身体がビクリと強張る。
「昔から、古い炭鉱夫たちの間で言われとった。――坑道は動く、とな」
「動く……?」
「ああ。昨日まであったはずの道が、今日行ったらなくなっとる。」
「逆に、地図にはないはずの場所に、真っ暗な新しい道ができとる。」
「……そして、その『動いた坑道』の奥へ迷い込んだ者は、二度と帰ってこん」
美琴の手が、僕のTシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
二人の脳裏に、あの郷土資料室の記憶がフラッシュバックする。
『戻ってくる坑道』と、『帰ってこない坑道』。
あれは、ただの昔話なんかじゃない。
僕は乾いた喉を鳴らし、さらに言葉を絞り出した。
「俺……聞いたんです。当時の坑道の中には、馬が働いていて、ネズミがいっぱいおって……壁は全部、丸太の枠で組まれとったって」
それを聞いた老人は、一瞬、ぽかんとした顔をした後、「ははは!」と、おかしそうに声をあげて笑った。
「そら君、百年以上前のずっと昔の話たい。わしらが働いとった頃はもう昭和の終わり、全部機械化しとった。馬なんかおらんし、坑木もそんな使わんよ」
「あ……」
やっぱり、僕の見た記憶はただの妄想だったのか。
そう思って僕が肩を落とした、その時だった。
老人の笑みが消え、その目が、ぞっとするほど鋭く濁った。
「ばってんな。……もっともっと昔の時代には、確かに君の言う通りの光景があった」
老人は少しだけ視線を落とした。
「……今でも時々、その話を夢に見る」
「え?」
「若い頃、先輩たちから聞かされた話ば」
老人はゆっくりと僕たちの方へ顔を向けた。
「それと、わしらの頃にも一つだけ、絶対に破っちゃいかん禁忌があった」
老人は僕たちのすぐ近くまで顔を寄せ、地響きのような声で言った。
『あっちの坑道だけは絶対に行くな』
「先輩たちから、それだけは厳しく叩き込まれた。理由は誰も知らん。ばってん……あそこへ入っていった奴は、誰一人として、帰ってこんかった」
室内を、冷たい風が通り抜けたような気がした。
老人はじっと僕の目を見据えたまま、ぽつりと言った。
「……君たち。なんでそんな古い話を知っとる?」
「え……あ、資料です。学校の、資料で見ました」
僕が慌てて誤魔化すと、老人はそれ以上何も言わなくなった。
長い、痛いほどの沈黙。
やがて老人は、ふっといつもの穏やかな顔に戻り、僕たちの肩を叩いた。
「もし、もっと当時のリアルな場所が見たかなら、三川坑の跡地……今の三川緑地公園の方にも行ってみるとよか。あそこは昭和の炭鉱の姿がそのまま残っとるけん」
「三川坑……」
「よし、じゃあ次はそこに行ってみようか、灯真」
美琴が僕の顔を見て言った。
ここに居続けるのは、もう限界だった。
何かに見られてるような、嫌な気配がして気持ちが悪い。
「ありがとうございました」と老人に頭を下げ、僕たちは宮原坑の建物を後にした。
◇
「……なぁ、美琴。今の話」
「……本物、やったね。灯真の見た記憶も、全部」
歩きながら、美琴の声が震えていた。
僕の脳内では、あの冷徹なシステム音が、先ほどから激しい警告を鳴らし続けている。
【――警告:未確認坑道情報の取得に成功――】
【――周辺エリアの危険度を再計算中――】
【――推定生存率――著しく低下――】
脳裏に浮かぶ赤いエラーログ。
僕は自分の右手を強く握りしめた。
ひいじいちゃんの記憶は、確かにこの街の底に眠る『何か』と繋がっている。
だから、僕は気づかなかった。
真夏の強い日差しに照らされた、宮原坑の赤煉瓦の建物の影。
その、光の届かない漆黒の輪郭の中に。
確かに、一人の人影が立っていたことに。
僕たちが乗ったバスが見えなくなるまで。
微動だにせず。
ただ、そこにいた。
「よし、バスが来たばい。三川坑へ行こう」
美琴の声に弾かれるようにして、僕は歩調を速めた。
僕たちは再び、大牟田の街を走るバスへと乗り込んだ。
(第12章 終わり)




