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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第55章:新たな一日


朝の境内に、木刀と槍の打ち合う音が響いていた。


俺と美琴、そして親父。


三人で、稽古の輪を作っている。


「そこ!」


美琴の槍が伸びる。


俺は木刀でいなし、親父の方へ身体を向け直した。


親父が軽く踏み込んでくる。


カンッ!


木刀同士がぶつかる。


「ほら、もっと腰を落とせ」


「分かっとるって……!」


息が上がる。


それでも、以前よりは動けている気がした。


黒い影と戦ったときの感覚が、まだ身体のどこかに残っている。


しばらく打ち合いが続いたところで、親父がふっと木刀を下ろした。


「……よし、今日はこれぐらいにしとこうか」


「え、もうか?」


俺は木刀を下ろし、大きく息を吐いた。


向かいに立つ親父は、いつもと変わらない顔で俺を見ている。


「……どうやった?」


「どうって?」


「自分で分からんとか?」


親父は木刀を肩に担いだ。


「前より動きがよくなっとる。踏み込みも、反応もな」


俺は自分の手を見た。


確かに、以前とは何かが違う気がする。


黒い影と戦ったとき、考えるより先に体が動いた。あのときの感覚が、まだ体のどこかに残っている。


「実戦を経験したけんやろうな」


親父はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。


「戦うたびに強くなっとるんかもしれんな。ひいじいちゃんが残したもんが、そういう形で出とるとやろ」


「……そうなんか」


「ばってん、調子に乗るなよ。強くなったと思ったときが、一番危なか」


「分かっとるよ」


「本当に分かっとるかねぇ」


親父は笑った。


俺も苦笑いを返す。


「ああ。二人とも、今日はこのあと用事があるやろ」


そう言われて、俺は思い出した。


美琴と一緒に、進さんを迎えに行くための準備をすることになっていた。


「そっか、忘れとった」


「相変わらずやね、灯真は」


美琴が槍を下ろしながら笑う。


「それじゃ、俺は帰るけん」


そう言うと、親父は神社の石段を下りていった。


そのとき、家の方からおばあさんの声が飛んできた。


「灯真君、美琴ちゃん! 今日は買い物に行くとやろう! もうご飯できとるけん、早う食べんね!」


「はーい!」


美琴が声を張り上げる。


俺たちは稽古の片づけを済ませ、家へ向かった。


食卓には、おばあさんと俺、美琴の三人が揃った。


「いただきます」


俺たちは手を合わせ、朝食を食べ始めた。


「今日は、何ば買いに行くと?」


おばあさんが尋ねる。


「動きやすい服とか、必要なもんいろいろ」


美琴が答えた。


「そうね。向こうで何があるか分からんけんね」


おばあさんはそう言いながら、俺と美琴の顔を交互に見た。


その目の奥に、ほんの少し心配がにじんでいる気がした。


「……無事に帰ってくるとよ。それが一番やけんね」


いつもの明るい調子だったが、声の端にだけ、少し違う響きがあった。


俺は、軽く返そうとしていた言葉を飲み込んだ。


「……うん。わかりました」


「美琴ちゃんも、無理はせんとよ」


「はい。ありがとうおばあちゃん」


美琴は、いつもより少しだけ真剣な顔で頷いた。


食事を終えると、俺たちは神社を出た。


町に出ると、朝の空気の中に人の声や車の音が混じっていた。


いつもと変わらない景色。


それなのに、俺には少し違って見えた。


つい昨日まで、俺たちは黒い影と戦っていた。


あの夜のことを思い出すと、今でも背中が冷たくなる。


けれど、立ち止まっているわけにはいかない。


「灯真、何ぼーっとしとると?」


美琴が振り返った。


「いや、何でもなか」


「なら、ちゃんと歩かんね。今日は買うもんがいっぱいあるっちゃけん」


「はいはい」


俺たちは、まず衣料品店へ向かった。


美琴は巫女装束の下に着る服を探し、俺は動きやすい服を選ぶことになった。


店内を歩きながら、美琴が何着か手に取っては、鏡の前で確かめている。


「こっちはどう思う?」


「どっちでもよかろ」


「そういう答えが一番困るとよ」


「じゃあ、こっち」


俺が適当に指さすと、美琴はじっと俺を見た。


「……本当に見て選んだ?」


「見た見た!」


「絶対、適当やろ」


「いや、似合うと思ったけん!」


言ってから、しまったと思った。


美琴が一瞬、手を止める。


「……ふーん」


その口元が、少しだけ緩んだ。


「じゃあ、これにしよ」


「お、おう」


なぜか、俺の方が落ち着かなくなった。


美琴は何事もなかったように、選んだ服を抱えてレジへ向かった。


その後、俺も必要な服を買い、次の店へ移動した。


途中、スポーツ用品店が目に入った。


「ちょっと寄っていかん?」


美琴が店先を覗く。


「何か欲しかと?」


「念のためね。これから先、何があるか分からんやろ?」


その言葉に、俺は頷いた。


確かに、もう以前と同じ生活に戻ったわけではない。


俺たちが知らないことは、まだ山ほどある。


店内で必要なものを確認し、買い物を済ませた。


店を出ると、日差しが少し強くなっていた。


美琴は荷物を持ち直し、俺の隣に並んだ。


「これで、だいたい揃ったかな」


「たぶんな」


「忘れ物、なかよね?」


「それ、おばあさんにも言われた」


「じゃあ、ちゃんと確認せんとね」


美琴は笑いながら歩き出した。


俺も、その後を追う。


町には、いつもの暮らしがあった。


買い物をする人。自転車で走る学生。店先で話すお年寄りたち。


誰も、俺たちが何を経験したのか知らない。


けれど、俺たちは知っている。


この日常が、当たり前に続くとは限らないことを。


だからこそ、今できる準備をしておく。


俺は荷物を持ち直し、美琴の隣を歩いた。


進さんを迎えに行く日が、少しずつ近づいていた。



(第55章、終わり)




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