第54章:戦いの後
「……少し、見せてもらってもいいですか?」
古谷さんは、机の上に置かれた日記に目を向けた。
「ええ、どうぞ」
俺は日記を古谷さんに差し出した。
古谷さんは慎重にページを開き、文字を追い始めた。しばらくしてページをめくり、別の箇所にも目を通す。
「うーん……」
眉間にしわを寄せ、首をかしげた。
「いくつか読める文字はあるんですが、文章として意味がつながらないんですよね」
古谷さんは、ページに顔を近づけた。
「それに、この文字……。崩れているようにも見えますし、そもそも私たちが知っている文字とは違うものなのかもしれません」
以前、親父たちと資料を調べていたときにも、古谷さんはこの日記をちらっと見ていた。
そのときは、読めないということで終わっていた。
しかし、今回は違った。
古谷さんは、ページをめくる手を止めた。
「……あれ?」
何かに気づいたように、日記の一部分をじっと見つめている。
「どうしたんですか?」
俺が尋ねると、古谷さんは顔を上げた。
「ちょっと待ってください。これ、どこかで見たような気がするんです」
そう言って、古谷さんは進さんが残した写真を手に取った。
写真には、岩肌に刻まれた文字が写っている。
古谷さんは日記と写真を交互に見比べた。
「……やっぱり」
「何か分かったんですか?」
「いえ、まだ何とも言えません。ただ、この文字の形……。写真に写っている岩の文字と、いくつか酷似しているものがあります」
「岩に刻まれた文字と、日記の文字が?」
美琴も身を乗り出した。
「ええ。もちろん、形が似ているからといって、同じ文字だとは限りません。でも、偶然なのかどうか、気になりますね」
古谷さんは再び日記に目を落とした。
読めない文字。
岩に刻まれた文字。
それぞれ別の場所に残されていたものが、ここでつながった。
けれど、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
「……それにしても」
古谷さんは、ゆっくりと日記を閉じた。
「あの黒い影たちは、本当に何なんでしょうね」
その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
黒い影。
俺たちの前に何度も現れ、襲いかかってきた得体の知れない存在。
山伏との関係も、あいつらが何者なのかも、はっきりとは分かっていない。
別の世界から来た存在なのかもしれない。
だが、それも今のところは推測にすぎなかった。
「……分からないことだらけだな」
親父が、ぽつりとつぶやいた。
そのとき、母さんが冷たい麦茶を載せた盆を持ってきた。
「みんな、疲れたでしょう。まずは麦茶でも飲んで、落ち着いてください」
俺たちは礼を言い、それぞれ席に腰を下ろした。
さっきまでの戦いで、身体はすっかり疲れ切っていた。
椅子に座ると、張り詰めていた気持ちが少しずつ緩んでいく。
親父は差し出された麦茶を見て、ふうっと息を吐いた。
「ああ、俺は麦茶より泡の出るやつのほうがよか」
「何ば言いよっとね! こんなときまで、そげなことば言いよって!」
おばあさんの一喝が飛んだ。
「はいはい、分かった分かった……」
親父は頭をかきながら、しぶしぶ麦茶を手に取った。
ごくりと一口飲み、ふうっと息をつく。
「……うん。冷たくて、うまか」
「最初から黙って飲まんね」
おばあさんに言われ、親父は苦笑いを浮かべた。
俺も、思わず笑ってしまった。
ついさっきまで、あんなに張り詰めた戦いをしていたのが嘘みたいだった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
冷たい麦茶が、火照った身体に染み渡る。
ようやく一息ついた俺は、コップを置き、これまでの出来事を思い返していた。
そもそもの始まりは、あの日だった。
俺が、あの日記を手にしたことから、すべてが動き始めた。
最初は、古い炭鉱の記録だと思っていた。
けれど、日記に残されたひいじいちゃんの記憶は、俺たちが知っている炭鉱の歴史だけでは説明ができなかった。
足のない女。
黒い何か。
祭りの音に混じる、感じたことのない気配。
あのときは、それぞれが別々の怪異に思えた。
けれど、次々と起こる出来事を追いかけるうちに、俺たちは少しずつ気づき始めていた。
この土地には、俺たちの知らない何かがある。
そして、それは炭鉱の歴史や、古くから伝わる神社の伝承とも無関係ではないのかもしれない。
大蛇。
光世。
神社に伝わる言葉。
灯りを持つ者と、朱を持つ者。
それらは、ただ昔から語り継がれてきただけの話ではなかった。
美琴の手首に残る印にも、何か意味がある。
俺自身にも、まだ分からない力がある。
危険が迫ると、何かが俺に知らせてくれる。
最初は、その声に頼ることしかできなかった。
だが、戦いを重ねるうちに、少しずつ自分自身で危険を感じ取れるようになってきた。
あれは、ただの夢ではなかった。
ひいじいちゃんが歩んだ道は、俺が今歩いている道と、どこかでつながっている。
そう思わずにはいられなかった。
けれど、肝心なことは、まだ何も分かっていない。
黒い影たちは何者なのか。
山伏と、どんな関係があるのか。
なぜ、この土地に現れるのか。
そして、進さんが残した写真に写る岩の文字と、日記の文字が似ているのはなぜなのか。
一つの謎を追いかけるたびに、別の謎が顔を出す。
まるで、地下へ続く坑道を進んでいるようだった。
先へ進めば進むほど、暗闇の奥に、まだ見たことのない道が伸びている。
俺は、机の上に置かれた日記に目を向けた。
最初に手にしたとき、俺はこの日記が何なのか、まるで分かっていなかった。
今も、分からないことのほうが多い。
それでも、以前とは違う。
俺はもう、ただ何かが起こるのを待っているだけの人間じゃない。
自分で考え、自分の足で進み、確かめていかなければならない。
この日記が何を伝えようとしているのか。
そして、黒坑の奥に何が待っているのか。
俺は、もう一度日記を見つめた。
答えは、まだ闇の中にある。
けれど、ここまで歩いてきた道の先に、何かがあることだけは確かだった。
「……よし。今日はこのあたりで解散にするか」
親父の声で、俺は我に返った。
「みんな、今日は疲れただろう。これ以上あれこれ考えても、頭が回らん。いったん家に帰って休もうか」
みんなも異論はないようだった。
「そうですね。今日はゆっくり休んだほうがよさそうです」
古谷さんも、日記を机の上に戻しながらうなずいた。
「じゃあ、帰って風呂にでも入って、今日は早く寝ろ。明日からまた動くことになるかもしれんし」
親父に言われ、俺たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
外に出ると、あたりはすっかり静かになっていた。
美琴とおばあさんが玄関先で俺たちを見送ると、軽く頭を下げた。
「では、私もこれで。明日、また来ます」
「はい。また明日」
俺たちが返事をすると、古谷さんは石段を下りていった。
俺が車に乗り込むと、親父は車を走らせた。
窓の外の景色を眺めながら、俺は今日一日の出来事を思い返していた。
身体の疲れもあったが、それ以上に頭の中がいっぱいだった。
黒い影。
日記。
岩に刻まれた文字。
考えなければならないことは、まだ山ほどある。
家に帰ると、親父は俺たちより先に風呂場へ向かった。
しばらくして、居間に戻ってきた親父の手にはビールの缶があった。
「はぁー、生き返るな」
ソファに腰を下ろし、満足そうに息をついている。
俺も風呂を済ませ、さっぱりした身体で居間に顔を出した。
「親父、もう寝るのか?」
「おう。お前も今日は早く寝ろ。身体も疲れとるだろうが」
「ああ、そうする」
俺が部屋へ向かおうとすると、親父がふと思い出したように声をかけてきた。
「灯真」
「ん?」
振り返ると、親父はビールをテーブルに置き、俺を見た。
「進さんを迎えに行く準備、いつでも出発できるようにしとけよ」
「ああ、分かった」
親父はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、親父」
俺は自分の部屋へ戻った。
布団に入ると、身体の疲れが一気に押し寄せてきた。
今日もいろいろなことがあった。
明日から、また新しい一日が始まる。
進さんを迎えに行くための準備も、進めなければならない。
そう考えているうちに、まぶたが重くなっていく。
俺はゆっくりと、眠りに落ちていった。
(第54章、終わり)




