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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第50章:黒い影


いつしか日が傾き、夕方になっていた。


俺たちは、まだ神社の中で資料を広げていた。


そのときだった。


「……ん?」


境内の方から、何か聞こえた。


――ザ……。


一度、音が止まる。


――ザザ……ザ……。


まるで、誰かが地面を擦るように歩いている。


俺は顔を上げた。


美琴も同時に立ち上がる。


「……何?」


親父が、黙って窓の方へ歩いていく。


俺たちも後を追った。


窓から境内を覗いた瞬間、息が止まった。


「……なんだ、あれ……」


境内のあちこちに、黒い影がいた。


人の形をしたもの。


地面を這うように動くもの。


蛇のように長く伸びたもの。


数えきれない。


影たちは、ゆっくりと境内を埋めるように広がっていた。


その中に――一つだけ、妙に人間らしい形をした影が立っている。


そいつは動かなかった。


ただ、こちらを見ているようだった。


「……多すぎる」


美琴が小さく呟く。


影たちは少しずつ、建物の方へ近づいてくる。


一体が、縁側の前まで来た。

黒い手のようなものが伸びる。


だが――


そこで止まった。


「……?」


影は、何かに押し返されるように身を引いた。


そのとき、建物の奥にある御神体が祀られているミトビラから、淡い光が漏れているのが見えた。


その光が、畳の上を静かに照らしている。


影が、もう一度近づく。


だが、建物の中には入ってこない。


「……入ってこられんみたいやな」


親父が呟いた。


影は縁側の前で蠢いている。


それ以上、中へ入ろうとはしなかった。


「こりゃ……やばいな」


親父が、低い声で言った。


そして、俺を見る。


「灯真」


「ん?」


「お前、一度家に戻れ」


「家に?」


「蔵に行け」


親父の顔には、いつもの余裕がなかった。


「蔵の中に、布でぐるぐる巻きにされた長細いやつがある」


「……ああ」


俺は思い出した。


美琴を探しに行く前、蔵の中で安全灯を探していたときに見た。


壁際に立てかけられていた、細長いもの。


何重にも布が巻かれていて、中身は分からなかった。


「それを持ってこい」


「……あれ、何なん?」


親父は一瞬、境内へ目を向けた。


「俺も、よう分からん」


「え?」


「ひいじいちゃんから、預かっとるもんたい」


「ひいじいちゃんが?」


「ああ」


親父は少しだけ間を置いた。


「ひいじいちゃんは、それを杖に使っとった」


俺は眉をひそめた。


杖……?


「なんで今、それを?」


「なんでもいい」


親父が俺を見る。


「早く取ってこい」


「……分かった」


俺は立ち上がった。


「行ってくる」


「頼む」


境内には、まだ黒い影がいる。


だが、建物の中には入ってこられない。


俺は裏口の方へ向かった。


表は影で埋まっている。


裏口を少しだけ開けた。


「今なら抜けられる」


「親父たちは?」


「ここで待っとる」


俺は頷いた。


そして、外へ飛び出した。


背後で扉が閉まる。


振り返ると、神社の境内には無数の黒い影が蠢いていた。


――ザ……。


また、あの音が聞こえた。


俺は足を止めず、家へ向かって走り出した。


息を切らせながら家へ戻ると、俺はそのまま蔵へ駆け込んだ。


薄暗い蔵の中を、手当たり次第に探す。


「どこだ……!」


壁際、棚の陰、積み上げられた箱の隙間。


そして――あった。


布でぐるぐる巻きにされた、長細い杖のようなものが立てかけられている。


俺はそれを取り出した。


巻かれた布には、見たことのない文字がびっしりと書かれていた。


「なんだこれ……封印か?」


いや、そんな場合じゃない。


俺は布を剥がそうとした。


だが、布は貼り付いたようにびくともしない。


「くそっ……!」


何度試しても、剥がれる気配はなかった。


仕方がない。


俺はそのまま、長細いものを抱えて蔵を出ようとした。


その瞬間、ふと後ろを振り返る。


蔵の隅に、安全灯が置かれていた。


「……これも、持っていくか」


俺は安全灯を手に取り、神社へ向かって駆け出した。


神社の石段を駆け上がっていると、境内の方から激しい物音が聞こえてきた。


何かがぶつかる音。


怒鳴り声。


そして、黒い影が蠢く音。


「親父たちも戦ってるのか……!」


俺は慌てて境内へ飛び込んだ。


「親父!」


親父がこちらを振り返る。


「おお、灯真! やっと来たか!」


俺は安全灯を掲げた。


その瞬間、強い光を放って安全灯が輝き始めた。


目の前にいた黒い影――蛇のように細長い、小さな影が、一瞬で消えた。


「お前はみこっちゃんのところに行け!」


「分かった!」


美琴は社務所の入口で、黒い影たちと戦っていた。


俺は家から持ってきた安全灯を掲げ、もう片方の手で長細い棒を握りしめる。


光を放ちながら、棒を振るう。


近づいてきた影が、次々と弾き飛ばされていく。


だが――


「……っ!」


次の瞬間、横から別の影が飛び込んできた。


俺はとっさに身を引いた。


黒い影が目の前をかすめ、地面に叩きつけられる。


――ザンッ!


石畳が砕けた。


「なんだよ……こいつら……!」


周囲を見渡す。


影が、次から次へと湧いてくる。


光を向ければ退く。


だが、退いた影の後ろから、また別の影が現れる。


「灯真!」


美琴の声が飛んできた。


振り向くと、美琴の前にも三体の影が迫っていた。


「美琴!」


俺は走った。


一体が美琴へ飛びかかる。


美琴が槍を横に薙ぐ。


――バンッ!


影が弾き飛ばされた。


だが、その隙を狙うように、別の影が背後から迫っていた。


「後ろ!」


俺は安全灯を向けた。


強い光が走る。


影が悲鳴のような音を立てて消えた。


「灯真……!」


「大丈夫か!」


「うん!」


美琴が槍を握り直す。


その瞬間――


境内の奥で、何かが動いた。


俺はそちらを見る。


無数の影の向こう。


さっき窓から見えた、人のような形をした影が立っていた。


今度は、はっきりとこちらを向いている。


「……あいつ……」


そいつは、ゆっくりと一歩踏み出した。


周囲の黒い影が、道を開けるように左右へ退いていく。


美琴も、それに気づいた。


「……灯真」


「ああ」


俺は長細いものを強く握った。


布に包まれたままのそれが、妙に手に馴染むような感じがした。


人のような影が、また一歩近づいてくる。


――ザ……。


その足音が、境内に響いた。



(第50章、終わり)






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