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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第44章:山伏


弁当を食べ終える頃には、社務所の中にもすっかり穏やかな空気が戻っていた。


空になった弁当の容器を片付けながら、俺はふと境内のほうを見る。


さっきまで、あそこに黒い影がいた。


剣を持った影。


そして、茂みに隠れていた誰か。


あの人間は、親父が投げた石を受けると、そのまま逃げていった。


俺は、少し迷ってから口を開いた。


「……親父」


「ん?」


「さっきの奴らのこと、もう少し教えてくれん?」


親父の手が止まった。


美琴も顔を上げる。


古谷さんも、静かにこちらを見る。


「黒い影のことか?」


「うん」


親父はしばらく黙っていた。


それから、おばあさんを見る。


おばあさんも何も言わずに頷いた。


「……そろそろ話してもよかろうね」


「何を知っとると?」


親父が椅子に座り直した。


「昔、この辺りには山伏がおった」


「山伏……?」


美琴が聞き返す。


「ああ」


親父は頷いた。


「三池山は、昔から山そのものを神さんとして拝んできた山たい」


古谷さんが静かに口を挟む。


「修験道ですね」


「ええ」


親父は続けた。


「山に入って修行して、祈祷をしたり、病気を治したり、雨を願ったり……そういうことをしよった」


「三池山にも、修験道の行場があったんですよね?」


古谷さんが尋ねる。


「いくつもあったと聞いとる」


おばあさんが答えた。


「岩の上で修行したり、滝に打たれたり」


俺は三池山を思い出した。


美琴を探しに登った山。


大蛇。


光世。


そして、あの黒い影。


全部が同じ山に繋がっている。


「そういえば……」


美琴が言った。


「三池山の頂上近くにある岩にも、変な文字が刻まれてるって聞いたことある」


「文字?」


古谷さんが反応した。


「ああ」


親父が頷く。


「岩に、何か刻まれとる」


「何が書いてあるんですか?」


「それが分からんとたい」


「分からない?」


「どこの文字とも違うらしい」


おばあさんが言った。


「昔からあるっちゅう話ばってん、誰が何のために刻んだもんか、よう分からん」


古谷さんが少し身を乗り出した。


「それは、どんな文字なんですか?」


「俺も詳しくは知らん」


親父が答える。


「ただ、普通の漢字でもなか。仮名でもなか。昔の記号とも違うらしい」


「解読されていないんですか?」


「今のところはな」


古谷さんは黙り込んだ。


俺も、その岩のことを考えていた。


三池山には、昔からいろんな伝承が残っている。


大蛇。


山伏。


修験道。


そして、誰にも読めない文字。


ただの昔話。


そう思えば、それで終わる。


でも――。


今の俺には、そう簡単には思えなかった。


「じゃあ……」


美琴が言った。


「さっきの黒い影も、山伏と関係があるの?」


親父の表情が変わった。


「それがな」


声が少し低くなる。


「普通の山伏の話なら、そこまで怖がる必要はなか」


「普通の……?」


俺が聞き返す。


親父は、しばらく黙っていた。


「昔、この辺りに流れ着いた一団がおったらしい」


「流れ着いた?」


「ああ」


「どこから来たんですか?」


古谷さんが尋ねる。


「それが、分からん」


親父は首を振った。


「どこから来たのか、何者だったのか。古い記録にも、はっきりとは残っとらん」


おばあさんが続けた。


「ただ、その一団は普通の修験者とは、ちょっと違っとったらしい」


「どう違ったんですか?」


古谷さんが尋ねる。


「……霊力が強すぎた」


おばあさんの言葉に、古谷さんの表情が変わった。


「強すぎた?」


「ああ」


親父が頷く。


「普通の人間が何年も修行して、ようやく身につけるような力を、そいつらは最初から持っとったとも言われとる」


「最初から……?」


俺の背中に、冷たいものが走った。


「じゃあ、修験道の修行で力を得たんじゃない?」


「そこが、分からんところたい」


親父は首を振った。


「そいつらが修験道を学んで、黒い影を操る術を身につけたとも言われとる」


「でも……」


おばあさんが静かに続けた。


「もともと、そういう術を知っとった者が修験道の中に入り込んだんじゃないか、という話もある」


社務所の中が静かになった。


古谷さんが眉を寄せる。


「つまり……」


少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。


「修験道によって力を得たのか。それとも、もともと力を持っていた者たちが修験道の中に入ったのか。そこまでは分からないということですね」


「そうたい」


親父が答えた。


「それに……」


一度、言葉を切る。


「修験道がなくなったあとも、そいつらは消えんかった」


「……明治の頃でしたね」


古谷さんが親父を見る。


「ああ、国から廃止令が出されたげな」


親父が頷く。


「山伏として生きられんようになってからは、普通の人間として暮らし始めた」


「普通の人間……」


美琴が呟く。


「そう」


おばあさんが答える。


「町に住み、仕事をして、家族を作って……何代も何代も、この土地に残っとる」


俺は言葉を失った。


じゃあ――。


今日、茂みに隠れていたあの人間も。


その一人だったのか?


「でも、それなら……」


俺は口を開いた。


「今まで、どうして誰にも知られなかったんだ?」


親父は俺を見る。


「知られんかったわけじゃなか」


「え?」


「ただ、誰も確かめることができんかっただけたい」


「……」


「古い記録には、妙な話が残っとる」


親父の声が低くなる。


「人の姿をしとるのに、人にはできんことをする者がおったとか」


俺は息を呑んだ。


「黒い影を呼び出したり……」


おばあさんが言った。


「人の気配を消したり」


親父が続ける。


「山の中で、普通じゃ考えられんようなものを見たっちゅう話もある」


古谷さんは黙って聞いている。


「では……」


しばらくして、古谷さんが口を開いた。


「その一団は、今もこの土地にいる可能性があるんですね?」


「ああ」


親父は短く答えた。


「おるかもしれん」


「……人間なんですか?」


その言葉に、親父はすぐには答えなかった。


おばあさんも黙っている。


やがて親父が、ゆっくりと口を開いた。


「それが分からんとたい」


「分からない?」


「人間として生まれて、人間として暮らしとるようには見える」


親父は、境内のほうへ目を向けた。


「ばってん……」


その声が、少しだけ低くなる。


「今日のあれを見たあとじゃ、俺には人間の業には思えん」


誰も口を開かなかった。


俺は、さっき見た黒い影を思い出していた。


人の形をしていた。


剣まで持っていた。


けれど――。


あれは、本当に人間だったのだろうか。


「もしかしたら……」


古谷さんが小さく呟いた。


「別の何かが、人間の姿を借りている……という可能性も?」


親父は答えなかった。


ただ、窓の外に広がる空を見つめていた。


「……分からん」


それだけだった。


分からない。


だからこそ、怖かった。


敵が人間なら、まだ理解できる。


どこかに隠れ、何かを企み、


黒い影を操っている。


ならば、探せばいい。


だが――。


もし、そうではなかったら。


もし、ずっと昔からこの土地にいるものが、人間の中に紛れ込んでいるのだとしたら。


俺たちは、いったい何を相手にしているんだろう。


俺は、さっき聞いた話を思い出した。


三池山の頂上付近にある、誰にも読めない文字。


誰が刻んだのかも分からない。


何のために刻まれたのかも分からない。


そして――。


どこの言葉なのかすら、分からない。


「……その岩の文字」


俺は口を開いた。


「親父、見たことあると?」


「俺はない」


「おばあさんは?」


「昔、一度だけ見たことがある」


「何て書いてあった?」


「分からんやった」


おばあさんは首を振った。


「読めんかった」


「古谷さんは?」


俺が尋ねると、古谷さんは少し考えた。


「写真でも残っていれば、調べてみたいですね」


「写真?」


「はい。文字そのものが分からなくても、形や配置から何か分かる可能性があります」


俺は三池山を見た。


頂上付近にあるという、謎の文字。


山伏。


修験道。


黒い影。


そして、今もこの土地に残っているかもしれない、正体の分からない一団。


全部が繋がっているのか。


それとも、俺たちが勝手に繋げようとしているだけなのか。


まだ分からない。


「ただな」


親父が言った。


「まだ、全部を信じる必要はなか」


俺は親父を見る。


「古い話には、間違いも混じっとる」


「じゃあ、何を信じればいい?」


親父は少しだけ笑った。


「自分で見たもんたい」


その言葉を聞いて、俺は黙った。


自分で見たもの。


自分で感じたもの。


そして、自分で考えること。


安全灯の声に頼るだけじゃなく、自分自身で危険を感じ取るようになってきたように。


俺は、親父を見た。


まだ、何も分からない。


ただ一つだけ。


あの黒い影の向こうには――。


俺たちがまだ知らない何かがいる。


そんな気がしていた。



(第44章、終わり)




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