第42章:悪意の影
「いや――!」
美琴の声が境内に響いた。
その瞬間――。
黒い影が、弾け飛んだ。
「……?」
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
ただ、目の前にいた黒い影が、まるで何かに弾き飛ばされたように横へ吹き飛んでいる。
そして、その向こうに――。
刀の鞘を肩に担いだ男が立っていた。
「親父!」
俺は思わず声を上げた。
親父だった。
いつもの服装。
いつもの無精ひげ。
見慣れた顔。
なのに――。
今の親父は、いつもとまるで違って見えた。
「婆さん、くたばるには、まだ早かばい」
「来っとが遅かったい……!」
おばあさんが叫ぶ。
親父は苦笑した。
「悪かったな」
そう言って、おばあさんへ目を向ける。
「婆さん、まだ元気かやんね?」
おばあさんは胸を押さえながら、苦しそうに顔を上げた。
「……なんとかね」
「母さん!」
親父の声が鋭くなる。
「忍さんば、灯真たちの所に!」
「分かった」
おばあさんは、まだ刀を握ったままだった。
「でも……」
「よかけん!」
親父が一喝する。
「ここは俺がやる。刀ば貸してくれ」
おばあさんは一瞬、親父の顔を見つめた。
何かを言おうとした。
けれど――。
結局、何も言わなかった。
ゆっくりと、手にしていた刀を差し出す。
「……頼んだよ」
親父は黙って刀を受け取った。
その刀を見て、親父は小さく息を吐く。
「なんね……光世じゃなかやんね」
その声には、少しだけ呆れたような響きがあった。
「光世なら、もっと楽に片付いたろうに」
おばあさんは、何も答えない。
親父は受け取った刀を握り直した。
「まぁ、俺はこれで十分ばってん」
「……そうね」
おばあさんは、それ以上何も言わなかった。
そして、ゆっくりと社務所へ向かって歩き始める。
俺は窓越しに、その姿を見つめていた。
「おばあちゃん……」
美琴が呟く。
俺は何も言えなかった。
親父が、境内の中央に立つ。
その背中は大きかった。
いつも見慣れているはずなのに――。
今は、まるで別人に見える。
親父は肩に担いでいた鞘を下ろした。
そして、受け取った刀を静かに納める。
カチン――。
小さな音が響いた。
親父の手が、鞘に添えられる。
その姿を見ていると、不思議な感覚に襲われた。
剣を構えているわけじゃない。
ただ立っているだけなのに。
境内の空気が変わった。
さっきまで俺たちを包んでいた恐怖とは、少し違う。
もっと静かで――。
冷たい。
「……さて」
親父が呟いた。
残った黒い影が、ゆっくりと起き上がる。
さっきまで、おばあさんを追い詰めていた影だ。
三体。
黒い身体。
輪郭だけが人の形をしている。
顔もない。
目もない。
それなのに――。
俺には、そいつらがこちらを睨んでいるように感じた。
「よくもやってくれたな」
親父の声が低くなる。
影が、一斉に動いた。
ザッ!
その瞬間――。
親父の身体が沈んだ。
「……?」
俺には、それだけに見えた。
でも、次の瞬間。
「――来い」
静かな声が境内に響いた。
黒い影が一斉に飛びかかる。
速い。
さっきまで、おばあさんを追い詰めていた動きとは比べ物にならない。
けれど――。
親父は動かなかった。
いや。
動いた。
ほんの一瞬。
足が滑るように地面を進んだ。
身体が沈み、肩がわずかに回る。
それだけだった。
「……え?」
次の瞬間。
親父の姿が、影の向こう側にあった。
黒い影が、ぐらりと揺れる。
一体。
二体。
三体。
まるで何が起きたのか分からないまま、動きを止めた。
そして――。
ズル……。
力を失ったように、地面へ崩れていく。
黒い霧が、影の身体から立ち上った。
「何をしたんだ、親父?」
俺の声に、親父は振り返らない。
刀を構えたまま、周囲を見渡している。
「弱すぎるな」
ぽつりと呟いた。
「……弱すぎる?」
俺には何のことか分からない。
親父は、倒れた影を見る。
「術者が未熟なのか?」
その言葉に、古谷さんが眉をひそめた。
「術者……?」
親父は答えない。
ただ、消えかけている黒い霧をじっと見つめていた。
「婆さん、こげん弱か相手に苦戦しよったとね?」
その目が細くなる。
「この程度の影なら、婆さんが苦戦するはずがなかろうもん」
「うるさかね……」
おばあさんが社務所の入口から睨む。
「光世ば使わんけんたい」
「……まだ言うか」
「そりゃ言うたい」
おばあさんは胸を押さえながら、苦笑した。
そのやり取りだけを聞けば、いつもの二人だった。
けれど――。
俺は妙に引っかかった。
光世。
親父が口にした、あの名前。
おばあさんが持つ、特別な刀。
「光世なら……」
親父が呟く。
「こんな連中、もっと楽に片付いたとに」
おばあさんは、何も言わない。
ただ、少しだけ美琴を見る。
その視線に気づいたのか、美琴が顔を上げた。
「……おばあちゃん?」
そのときだった。
「まだ終わっとらんぞ!」
おばあさんが叫んだ。
「え?」
俺は、境内へ目を戻した。
ザザッ……。
ザザッ……。
境内の外。
茂みが揺れている。
俺の背筋に、冷たいものが走った。
「……何だ?」
葉の間から――。
一体の黒い影が姿を現した。
さっきまでの影とは違う。
身体の輪郭が、明らかに違っていた。
人の形、しかも大きい。
そして、その手には――。
「……剣?」
黒い影が、刀のようなものを握っている。
親父は、それをじっと見つめた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「今度は、一体に集中したか」
「集中……?」
古谷さんが聞き返す。
だが、親父は答えない。
突然――。
「オーイ!」
親父が声を張った。
「出てこい!」
黒い影は動かない。
「隠れとっても、分かるぞ」
親父が一歩踏み出す。
「お前じゃ、俺には勝てんよ」
黒い影が――。
わずかに揺れた。
次の瞬間。
ダッ!
一気に距離を詰めてきた。
速い。
さっきの影とは明らかに違う。
親父も動く。
ガキィン!
刀と黒い刃がぶつかった。
火花が散る。
「――!」
俺は息を呑んだ。
今度は、互角だった。
黒い影が刀を振る。
右。
左。
上。
下。
親父は、それを受け流していく。
真正面から力で受けない。
刃を滑らせる。
半歩だけ身体をずらす。
そして、相手の力を利用する。
「……これ」
その動きを見て、俺は気づいた。
親父が俺に教えていた動きと同じだ。
大石神影流。
ただ、俺が真似しても、こんな動きにはならない。
親父は――。
まるで身体そのものが空気のように、流れるように動いていた。
黒い影が大きく踏み込む。
その瞬間。
親父の身体が沈んだ。
「そこだ」
キンッ!
刃が交差する。
黒い影の身体が一瞬だけ伸び上がる。
その隙を――。
親父は逃さなかった。
刀が走る。
黒い影の首が、宙へ舞った。
「……!」
影の身体が崩れる。
黒い霧のようなものが地面へ落ち――。
やがて、跡形もなく消えた。
親父は、倒れた影には目もくれない。
その視線は、境内の外へ向いていた。
「……そこか」
親父が足元の石を拾う。
「え?」
ヒュッ!
石が茂みへ飛んでいく。
「……ぐっ!」
茂みの奥から、確かに声がした。
人の声だった。
バサッ!
葉が大きく揺れる。
ザッ、ザザザザ……。
何かが走り去っていく。
「待て!」
俺は思わず叫んだ。
親父は――。
追わなかった。
ただ、茂みの奥を睨んでいる。
「逃げ足だけは速かね」
その声には、怒りよりも確信があった。
まるで――。
最初から、黒い影だけを相手にしていたわけではないような。
古谷さんが境内の親父に近づいていく。
「今のは……何だったんですか?」
親父が苦笑いを浮かべる。
「それに、逃げたのは……人ですか?」
しばらく黙ったあと。
親父は茂みの奥を見たまま答えた。
「あぁぁ、多分……人でしょうね」
「多分……?」
「ただ――」
親父が刀を鞘へ納める。
カチン。
静かな音が響いた。
「人間だけで、あんなもんを操れるとは思えん」
「……え?」
古谷さんの顔から、笑みが消えた。
親父は答えなかった。
俺も、何も言えなかった。
境内には、もう黒い影はいない。
なのに――。
さっきより、ずっと怖かった。
敵は、消えたんじゃない。
ただ――。
俺たちの見えない場所へ、逃げただけなのかもしれない。
(第42章、終わり)




