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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第41章:役目


俺たちは慌てて窓から境内を見た。


そこには――。


おばあさんを取り囲むように、長い黒い影が地面を這っていた。


一本。


また一本。


まるで生き物のように蠢きながら、おばあさんとの距離を少しずつ縮めている。


「……あれは!」


美琴の声が震えた。


「甘木山で襲ってきた奴らだ」


俺も息を呑む。


さっきまで何もなかった境内に、いつの間にかこれほどの影が集まっている。


影には、決まった形がない。


細長く伸びたかと思えば、地面に溶け込むように薄くなる。


それでも――。


確かに、こちらへ向かってきていた。


「俺たちも戦います!」


俺が社務所から飛び出そうとした、そのとき――。


「きなさんな!」


鋭い声が飛んできた。


足が止まる。


おばあさんは、こちらを振り返っていた。


その顔には、いつもの優しい笑顔が浮かんでいる。


「でも……!」


「これは、私の役目たい」


静かな声だった。


けれど、逆らえない強さがあった。


「大丈夫」


おばあさんは、ほんの少し笑った。


「心配しなさんな」


そう言うと、刀の柄に手を添える。


ゆっくりと息を吸った。


境内を吹き抜けていた風が、一瞬だけ止まったように感じた。


おばあさんの雰囲気が変わる。


さっきまでの優しい祖母の顔ではない。


長い年月を生きてきた人だけが持つような、静かな気迫があった。


黒い影が動く。


一体が、地面から跳ね上がった。


その瞬間――。


おばあさんの手が動いた。


「――!」


刀が鞘から抜き放たれる。


あまりにも速くて、俺には刀身が一瞬しか見えなかった。


影が、おばあさんの目の前で弾ける。


黒いものが霧のように散った。


おばあさんは、ほとんど動いていない。


ただ、抜き放った刀が一閃しただけだった。


「……すごい」


美琴が呟く。


俺も言葉が出なかった。


もう一本。


今度は横から影が飛びかかる。


おばあさんは、ほんのわずかに身体をずらした。


黒い影が目の前を通り過ぎる。


そのすれ違いざま――。


刀が走った。


影が地面へ落ち、黒い煙のように崩れていく。


「……」


おばあさんは、倒れた影を一度だけ見た。


そして――。


刀を鞘へ戻そうとはしなかった。


そのまま、境内の端へ放った。


カラン……。


乾いた音を立てて、鞘が石畳の上を転がる。


俺は思わず息を止めた。


おばあさんは、刀を両手で握った。


構えが変わる。


さっきまでの抜刀とは、まるで違った。


「美琴……」


「うん……」


美琴も気づいている。


あの構え。


あの足の運び。


それは――。


以前、神社で見せてもらった巫女の舞。


奉納のために舞っていた、あの動きだった。


おばあさんの足が静かに動く。


一歩。


さらに一歩。


身体が流れるように回る。


刀が、その動きに合わせて円を描いた。


黒い影が襲いかかる。


おばあさんは、それを避けるように身体をひねる。


そして――。


刀が返る。


一閃。


影が消える。


また一体。


今度は背後から迫ってきた影を、振り向くことなくかわす。


足が滑る。


身体が回る。


その動きは、まるで舞そのものだった。


「……舞ってる」


美琴が小さく呟いた。


「うん……」


俺も目を離せなかった。


昔、俺たちが見た巫女の舞。


あれは神に捧げるためのものだと思っていた。


けれど――。


もしかしたら。


あの舞には、別の意味もあったのかもしれない。


おばあさんが一歩踏み込む。


ザッ――。


身体が沈む。


次の瞬間には、もう影の懐に入り込んでいた。


「……速い」


思わず声が漏れた。


あの足さばき。


親父が俺に何度も教えていたものと、どこか似ている。


静かに立っているだけなのに、一度動けば一気に間合いを詰める。


俺たちの家にも、美琴の家にも受け継がれている剣術。


その動きが、おばあさんの身体の中にも染みついている。


影が次々と襲いかかる。


おばあさんは、それを舞うようにかわしていく。


刀が走る。


影が消える。


一体。


二体。


三体。


それでも、おばあさんの動きは止まらない。


だが――。


地面を這っていた黒い影が、突然動きを変えた。


ずるり。


ずるり。


まるで何かに引き寄せられるように、一か所へ集まり始める。


一本の影が、二本に。


二本が三本に。


黒いものが重なり合い、膨らんでいく。


やがて――。


人の形になった。


一体。


二体。


三体。


……十体。


黒い人影が、おばあさんを取り囲んでいた。


「おばあちゃん……」


美琴の声が震える。


おばあさんは刀を構え直した。


そして、静かに息を吐く。


黒い影の一体が動いた。


それに合わせるように、おばあさんも腰を落とす。


次の瞬間――。


ザッ……!


一歩。


いや、一瞬だった。


おばあさんの身体が前へ滑り込む。


刀が、黒い影の胸元へ突き込まれる。


影が大きく揺らいだ。


「何だ……?」


思わず声が漏れる。


一瞬で間合いを詰めている。


しかも、力任せではない。


身体ごと滑り込むような動きだった。


影は、灰のようなものを撒き散らしながら消えていく。


一体。


また、一体。


おばあさんは、次々と黒い影を斬り払っていく。


舞うような動きは途切れない。


気づけば――。


残っているのは、三体だけだった。


「あと三つ……」


美琴が呟いた。


おばあさんは、三体の影を見つめている。


三体もまた、動かない。


まるで――。


何かを待っているようだった。


そのときだった。


おばあさんの身体が、わずかに揺れた。


「……っ」


刀を握ったまま、胸元を押さえる。


「おばあちゃん?」


美琴が声を上げる。


おばあさんは答えない。


肩が小さく上下している。


「……こんな時に……」


苦しそうに息を吐く。


俺は、その姿を見て気づいた。


以前――。


おばあさんが倒れたときと同じだ。


胸を押さえ、呼吸が乱れている。


「おばあちゃん!」


美琴が叫ぶ。


三体の影が動いた。


さっきまで距離を取っていた黒い影が、ゆっくりとおばあさんを囲む。


まるで――。


おばあさんが動けなくなる瞬間を待っていたかのように。


「……まずい!」


俺は窓へ駆け寄った。


三体の影が、一斉に跳ね上がる。


「おばあちゃーん!」


美琴の叫び声が、境内に響き渡った。


黒い影と――。


おばあさんの姿が、重なった。


「だめ……!」


美琴が叫ぶ。


「いや――!」


その声が、境内に響いた。



(第41章、終わり)





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