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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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【第二部への序章】 第28章:三池山


俺は、三池山に向かって自転車を走らせていた。


夜の田舎道には、ほとんど人の気配がない。


街灯も少なく、自転車のライトが照らす先だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。


「……美琴」


ペダルを踏みながら、何度もその名前を呟いた。


――俺が、そばにおるけん。


あの時、そう言った。


なのに。


「……一人にしてしまった」


胸の奥が痛んだ。


もっと早く気づいていれば。


もっと強く引き止めていれば。


そんな後悔が、何度も頭の中を巡る。


俺は自転車を止めた。


ポケットから携帯電話を取り出し、ナビを確認する。


画面には、三池山までの道が表示されていた。


「この先を左か……」


携帯をしまい、再びペダルを踏み込む。


「絶対見つけるから……待っとけよ、美琴」


自分に言い聞かせるように呟いた。


山に近づくにつれ、坂道がきつくなっていく。


立ち漕ぎになりながら、必死にペダルを踏んだ。


次第に民家が減っていく。


街灯もなくなった。


聞こえるのは、虫の声と自転車のチェーンが回る音。


そして――。


「……」


ふとペダルを止めた。


静かすぎる。


さっきまで聞こえていた虫の声が、いつの間にか消えていた。


「……なんや?」


周囲を見回す。


何もない。


ただ、山の木々が夜風に揺れている。


「……気のせいか」


再び走り始めた。


やがて、坂道の先に階段が見えてきた。


「……あれか」


お寺の入口だった。


自転車から降りると、寺の入口には、古い石碑が立っていた。


その先には――。


延々と暗闇へ続く、長い石の階段。


「……」


俺は階段を見上げた。


上のほうは木々に遮られ、どこまで続いているのか分からない。


階段の脇には、小さな川が流れていた。


さらさらと流れる水の音が、夜の静けさの中で妙に大きく響いている。


腰に下げた安全灯に、そっと触れた。


冷たい金属の感触。


「……頼むぞ」


安全灯は光らない。


「……ダメか」


携帯電話を取り出し、ライトをつける。


白い光が、目の前の階段を照らした。


「……行くか」


最初の一段へ足をかける。


一歩。


また一歩。


暗闇の中へ、ゆっくりと上っていく。


腰に下げた安全灯が、歩くたびに揺れた。


カツン。


金属が身体に当たる。


カツン。


また小さな音が響く。


「……」


その音が、妙に大きく聞こえる。


俺は何度か後ろを振り返った。


誰もいない。


見えるのは、今まで上ってきた階段と、その先に広がる暗闇だけ。


「……誰もおらんよな」


そう呟いて、前を向く。


一段。


また一段。


足を上げるたびに、息が少しずつ荒くなっていく。


川の音だけが、ずっと横から聞こえていた。


カツン……。


また、安全灯が小さく鳴った。


再び足を止めた。


「……」


耳を澄ます。


川の音。


木々のざわめき。


それ以外には、何も聞こえない。


なのに――。


背中が落ち着かない。


誰かに見られているような気がする。


俺は首を振った。


「……怖がっとる場合じゃない」


美琴を探す。


そのために、ここまで来た。


息を整え、再び階段を上り始めた。


やがて――。


最後の一段を上った。


「……はぁ……」


大きく息を吐く。


目の前に、普光寺の境内が広がっていた。


「……やっと着いた」


境内へ入る。


静かだった。


あまりにも静かすぎる。


昼間なら聞こえるはずの音も、今は何も聞こえない。


携帯電話のライトを頼りに、境内を見回した。


「登山道……」


案内板を探す。


しばらくして、古びた案内板を見つけた。


「……あった」


そこには、三池山へ続く登山道の案内が記されていた。


その方向へ歩いていく。


やがて――。


木々の間に、細い道が現れた。


「ここか……」


登山道の入口。


俺は足を止めた。


携帯電話のライトを向ける。


白い光が、木々の間へ伸びていく。


けれど、その先はすぐに闇へ飲み込まれていた。


道は細い。


草が伸び、ところどころ地面すら見えない。


「……」


一歩、踏み出そうとした。


その瞬間――。


ぞくっ。


背中を冷たいものが走った。


足が止まる。


「……」


何かがおかしい。


境内にいた時とは、明らかに空気が違っていた。


冷たい。


いや。


冷たいというより――重い。


まるで、この先だけ別の場所になっているような感覚。


無意識に、一歩後ろへ下がった。


胸の奥がざわつく。


理由は分からない。


けれど、身体が覚えている。


以前にも感じたことのある恐怖。


あの時と同じ――。


いや。


思い出したくない。


俺は目を閉じた。


「……」


ここから先へ行ってはいけない。


そんな感覚が、本能的に湧き上がってくる。


足が動かない。


「……怖い」


自分でも驚くほど、素直な言葉が口から漏れた。


しばらく、その場から動けなかった。


けれど――。


「美琴……」


俺は拳を握った。


美琴が、この先にいるかもしれない。


両親を探すために。


何より――。


自分が言った。


『俺が、そばにおるけん』


深く息を吸う。


「……行くぞ」


震えそうになる足に力を入れる。


そして――。


一歩。


登山道へ足を踏み入れた。


その瞬間だった。


カチッ。


腰に下げていた安全灯から、小さな音がした。


「……え?」


腰の安全灯を見る。


さっきまで、何の反応もなかった。


けれど――。


ぼんやりと。


本当にわずかな光が灯っていた。


「……光った?」


目を見開く。


淡い光。


それは以前、ひいじいちゃんの記憶で見たものとは少し違っていた。


明るく周囲を照らすわけではない。


ただ、安全灯の中に小さな光が浮かんでいる。


思わず息を吐いた。


「……よかった」


その小さな光を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ緩んだ。


「……一緒に来てくれるんやな」


小さく笑う。


すると――。


光が、ゆっくりと前方へ伸びた。


「……?」


まるで、


「こっちだ」


と示すように。


俺はしばらく、その光を見つめていた。


「……行けってことか?」


答える声はない。


それでも、なぜか分かった。


安全灯が示している。


この先へ行け、と。


「……分かった」


俺は歩き出した。


さっきまで感じていた恐怖が、完全に消えたわけではない。


それでも――。


今は、この小さな光がある。



道は思っていた以上に荒れていた。


伸び放題になった草。


むき出しになった木の根。


崩れかけた斜面。


足元には大きな石が転がっている。


「うわ……」


一歩進むたびに、靴底が地面を擦る。


それでも、不思議なことに――。


危険な場所が、なんとなく分かった。


「……ここはダメだ」


崩れかけた斜面を避ける。


「こっちも……」


木の根が絡み合った場所を迂回する。


以前なら気づかなかったはずの小さな違和感。


地面の沈み。


枝の折れ方。


足元の不自然な傾斜。


それらが、なぜか直感的に分かる。


「……」


歩きながら、自分自身に驚いていた。


以前なら、安全灯センサーの警告を待っていた。


何かがおかしいと思っても、その正体までは分からなかった。


けれど今は――。


「……俺が分かる」


安全灯は、ただ光っているだけだった。


危険を知らせる音もない。


何かを教えてくれる声もない。


それでも俺は進めた。


安全灯の光。


そして、自分自身の感覚。


その二つを頼りに。



山の中は暗かった。


虫の鳴き声だけが響いている。


「ジ……ジジ……」


「リー……リー……」


遠くで何かが鳴いた。


俺は足を止める。


安全灯を前方へ向ける。


木々の間に、何もない。


ただ、暗闇が広がっている。


「……美琴」


返事はない。


それでも歩き続けた。


一歩。


また一歩。


木々の間を抜ける。


淡い安全灯の光が、足元を照らしている。


しばらく進んだ、その時だった。


「……」


俺は、ふと足を止めた。


何かを感じた。


気配。


誰かがいるような――。


いや。


誰かに見られているような感覚。


周囲を見回す。


木々。


草むら。


暗闇。


何もない。


けれど、胸の奥に嫌な感覚が残っている。


登山道へ入った時に感じた、あの恐怖。


それが、再び蘇ってきた。


「……美琴」


その名前を呟いた。


その時だった。


――コン。


足が止まった。


「……」


聞き間違いではない。


耳を澄ます。


――コン。


今度は、はっきり聞こえた。


ゆっくり振り返る。


誰もいない。


川の音も聞こえない。


ただ、山の静けさだけが広がっている。


「……美琴?」


返事はない。


息を殺して、暗闇を見つめる。


すると――。


――コン。――コン。


今度は、さっきより近い。


その音は――。


まるで、誰かが俺を呼んでいるようだった。



(第28章、終わり)




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