第23章 : 語り継がれるもの
夜。
虫の声だけが静かに響いていた。
美琴は布団へ入り、天井をぼんやりと見つめる。
今日一日に起きた出来事が、頭の中を何度も巡っていた。
甘木山の巨木。
白い光。
黒い影。
そして、灯真の父が口にした言葉。
『ご先祖様はカニやった。』
天井に向かって片手を上げ、チョキチョキとしてみる。
「……カニ。」
思わず小さく笑ってしまう。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
(昔……。)
(おばあちゃんが話してくれたことがあった……。)
幼い頃。
夏祭りの前日。
神社の縁側で風鈴が鳴る夕暮れ。
おばあちゃんから聞いた、あの昔話――。
意識がゆっくりと眠りへ沈んでいく。
そして、美琴の記憶は、遠い夏の日へと溶け込んでいった。
◇
夕暮れの神崎神社。
蝉の声も少し遠のき、拝殿の縁側には、風鈴の澄んだ音が静かに響いていた。
幼い美琴は、おばあさんの膝に頭を預けながら、空を茜色に染める雲を眺めていた。
「おばあちゃん。大蛇山って、なんでお祭りで大蛇ば出すと?」
おばあさんは優しく笑い、美琴の髪をそっと撫でた。
「それはねぇ……ずっとずっと昔、この三池の始まりのお話たい。」
美琴は目を輝かせる。
「三池……?」
「そう。今じゃ形も変わっとるけど、この辺りには命の水が流れる川があったげな。」
「その川には玉姫いう、たいそう優しか姫様がおらしたそうな。」
おばあさんの声は、まるで遠い昔の景色を映し出すように静かだった。
「その水のおかげで田んぼは実り、人も獣も、みんな生きていけた。ところが、ある日、その川に恐ろしか大蛇が住みついた。」
「大蛇……。」
美琴は思わず身を寄せる。
「その大蛇は、川の主とも龍神とも言われとる。」
「でも、いつしか人を憎むようになってしもうてね。」
「毒を吐き、田畑を荒らし、『毎年、美しか娘を一人差し出せ』と村人たちを苦しめたそうたい。」
「ひどか……。」
「とうとう玉姫様まで、生け贄に選ばれてしもうた。」
美琴はぎゅっとおばあさんの着物を握りしめる。
「姫様、食べられたと?」
「……いや。」
おばあさんは少し微笑んだ。
「その時たい。川の底から、それはそれは大きなツガネが現れた。」
「ツガネ?」
「大きなカニたい。この辺じゃモクズガニのことをツガネって呼ぶとよ。」
美琴は驚いて目を丸くする。
「カニが大蛇と戦うと?」
「そうたい。」
おばあさんは静かにうなずいた。
「大蛇は長い身体で締め上げ、ツガネは大きなハサミで応戦した。川の水が真っ赤になるほど激しか戦いやったそうな。」
美琴は息を呑みながら聞き入っている。
「最後には、ツガネは大蛇の身体を三つに切り裂いて、玉姫様を助けた。」
「やったぁ!」
思わず声を上げた美琴だったが、おばあさんは少し寂しそうに首を振った。
「大蛇の切られた胴体が暴れて、地面に三つの大きな窪みができて、そこに川の水が溜まり池になった……それが三池の由来たい」
おばあさんは話を続ける。
「でもねぇ……ツガネも、大蛇の毒を浴びて命を落としてしもうた。」
美琴の笑顔が曇る。
「かわいそう……。」
「うん。どちらも、この土地を守る力を持った存在やったんよ。」
おばあさんは空を見上げた。
「村人たちは、命を懸けて姫様を守ってくれたツガネに感謝した。そして、大蛇ももともとは水を司る龍神じゃったけん、その魂ば鎮めんと、また災いが起きると考えたと。」
「だから、お祭り?」
「そうたい。」
おばあさんは優しく笑う。
「大蛇山は、悪いもんを追い払うだけのお祭りじゃなか。自然への感謝と、命を守ってくれた者たちへの感謝を忘れんためのお祭りでもあるとよ。」
美琴はしばらく黙って考え込み、やがてぽつりと尋ねた。
「おばあちゃん……大蛇って、本当に悪者やったと?」
その問いに、おばあさんはすぐには答えなかった。
夕風が神社の木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに流れる。
「……それはね、美琴。」
おばあさんは遠くの山を見つめながら、小さく微笑んだ。
「昔話には、悪者がおるように見えて、本当はそうじゃなかことも多か。大蛇にも、大蛇なりの理由があったのかもしれんね。」
幼い美琴は、その言葉の意味をまだ理解できなかった。
けれど、その日の夕暮れの空と、おばあさんの少し寂しそうな横顔だけは、不思議と心の奥に残り続けるのだった。
◇
ゆっくりと眠りについた美琴は、夢の中で大蛇と巨大なツガネが戦う姿を見ていた。
激しくぶつかり合う二つの力。
守る者。
奪う者。
そして、救いを待つ者。
やがて景色はゆっくりと崩れていく。
大蛇は黒い影へと姿を変え――。
巨大なツガネは、いつしか今日、自分の前に立っていた灯真の姿へと重なっていった。
その瞬間。
黒い影の奥から、かすかな声が響いた。
『……美琴……』
「お母さん!」
美琴は目を開いた。
暗い部屋。
ーーコン
ーーコン
ーーコン
どこからともなく、またあの音が響いていた。
◇
翌朝。
美琴は重い体を起こした。
あれから、ほとんど眠れなかった。
朝の支度をしながらも、昨夜の夢が頭から離れない。
『……美琴……』
あの声を思い出すたび、胸の奥が締めつけられた。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
両親が行方不明になったのは、中学一年の冬だった。
あの日、いったい二人に何があったのだろう。
何度も、おばあちゃんに尋ねた。
けれど、そのたびに祖母は悲しそうな顔で口を閉ざしてしまう。
あの表情を見るたび、美琴はそれ以上、何も聞けなくなってしまうのだった。
◇
訓練のため外へ出ると、おばあさんと灯真の父が、真剣な表情で何やら話し込んでいた。
「おはようございます。今日は早いですね」
美琴が声をかける。
「おはよう、みこっちゃん。」
灯真の父はいつものように笑おうとしたが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「灯真もそろそろ来るけん、先に始めようか。」
「はい。」
美琴は槍を手に取り、静かに型を始める。
しばらくして、眠そうな顔をした灯真が石段を上ってきた。
「おはようございます。」
「おっ、やっと来たか。急いで準備せろ!」
灯真も木刀を構える。
ザッ。
ザザッ。
静かな朝の境内に、二人の足さばきだけが響く。
(……何だろう。)
(何か、おかしい。)
灯真は足を動かしながら周囲へ視線を向けた。
美琴の動きに、いつもの切れがない。
おばあさんも腕を組んだまま、どこか遠くを見つめている。
親父も、俺たち二人を見ているようで、何か別のことを考えているようだった。
「美琴。」
返事がない。
「……美琴!」
「えっ?」
美琴ははっと我に返った。
「何か言った?」
「大丈夫か?」
灯真は木刀を下ろす。
「何かあったと?」
「……なんもなかよ。」
「いや、おばあさんも様子がおかしかやん。」
「喧嘩でもしたん?」
美琴は首を横に振る。
「おばあちゃんは、おじさんと朝から何か難しか話ばしよらした。」
「親父……また何かやらかしたんかな。」
「わからん。」
「こら、二人とも!」
父の鋭い声が飛ぶ。
「よそ見しよったら怪我すっぞ!」
(……絶対、なんかあったやん。)
灯真は心の中でそう叫んだ。
その時だった。
「おはようございます!」
朝のラジオ体操に参加する子どもたちが、元気な声を上げながら境内へ集まってきた。
「……助かった。」
灯真は小さく胸をなで下ろした。
おばあさんも、美琴も、親父も、子どもたちへ向けていつもの笑顔を見せる。
けれど、その笑顔はどこかぎこちない。
(……笑っとるのに、笑っとらん。)
(誰か、この空気どうにかしてくれ……。)
そのときだった。
石段を登ってくる足音が、静かな境内に響いた。
コツ……。
コツ……。
一人の男性が、まっすぐ神社へ向かって歩いてくる。
その姿を見たおばあさんと親父の顔から、笑みが消えた。
(……誰なんだ、あの人。)
(第23章 終わり)




