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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第22章 : それぞれが受け継ぐもの



甘木山を下り終えた頃には、西へ傾き始めた陽射しが町を橙色に染め始めていた。


二人は神崎神社の裏の坂道を自転車を押しながら登る。


さっきまで見ていた巨木も、光の雨も、黒い影も。


まるで夢だったかのように、境内にはいつもの静かな時間が流れていた。


だが、鳥居をくぐった瞬間だった。


「あっ!」


美琴が声を上げる。


拝殿の前には、美琴のおばあさんと灯真の父親が並んで立っていた。


二人とも落ち着いた表情をしているように見えるが、実はどこかそわそわと落ち着かない様子だった。


灯真は自転車を止めながら首をかしげる。


「どげんしたと?」


親父は、俺たち二人の姿を見ると、張り詰めていた表情をふっと緩めた。


「よかった……。」


小さく息を吐き、安心したように笑う。


「昼間、天に昇る光の柱が突然現れたけん。」


「ちょっと心配になってな。」


「大丈夫ならよかたい。」


灯真と美琴は少し驚いた。


「光の柱?」


おばあさんも胸に手を当てながら微笑んだ。


「ほんと心配したとよ。」


そう言って隣にいる親父を見る。


「この人なんか、仕事ば早う切り上げて慌てて家に飛んで来たばい。」


親父は照れくさそうに頭をかいた。


「そげん言わんでよかろうが。」


おばあさんはクスクスと笑う。


「珍しかけん、つい。」


そのやり取りを見て、灯真も思わず笑ってしまった。


「なんや、そんな心配しとったと。」


親父は少し真面目な顔になる。


「光の柱ば見た瞬間、嫌な予感がしたったい。」


「何もなかったなら、それでよか。」


おばあさんも頷く。


「でも……。」


「何かあったとやろ?」


その言葉に、灯真と美琴は顔を見合わせた。


「うん。」


灯真がゆっくり頷く。


「実は……。」


二人は甘木山で起こった出来事を、一つひとつ話し始めた。


古墳群のこと。


黒い影。


頭の中に響いた声。


勝手に動いた体。


白い影。


空から降った光。


そして、大牟田の空に現れた巨大な木。


二人は、一言も口を挟まず静かに聞いていた。


話し終えたあと、しばらくしておばあさんが不思議そうに言った。


「私たちには、光の柱が、地面から空に向かって伸びてるように見えた」


「……あれは、巨木様やったとやね」


蝉の声だけが境内へ響いていた。


やがて美琴が、身を乗り出すように口を開いた。


「でもね!」


さっきまでの緊張が嘘のように、目を輝かせている。


「灯真、すごかったとよ!」


灯真は照れくさそうに笑う。


「いや……。」


しかし美琴は止まらない。


「最初はぎこちなかったばってん。」


「途中から、おじさんみたいに右へ左へ、シュッシュッ!って!」


両手を動かしながら必死に説明する。


「枝で影ば払って。」


「草ば払って。」


「石ば避けて。」


「うちの前ば、ずっと守ってくれたと!」


灯真は耳まで赤くなっていた。


「そげん大げさな……。」


「ほんとたい!」


美琴は何度も頷く。


「灯真がおらんやったら、うち絶対動けんやった。」


その言葉に、灯真は少し照れながら頭をかいた。


「まぁ……。」


「親父に教わったこと、そのままやっただけたい。」


親父は黙ったまま、不思議そうに灯真を見つめた。


すると美琴が、急に首をかしげる。


「でもねぇ……。」


「ん?」


「何か、灯真の動き……。」


美琴は腕を組み、一生懸命思い出そうとする。


「えっと……。」


「何かに似とるっちゃけど……。」


灯真も首をかしげた。


「何?」


美琴は「あっ!」という顔になる。


「思い出した!」


勢いよく灯真を指差した。


「カニ!」


灯真の動きが止まる。


「……は?」


美琴は真剣な顔で大きく頷いた。


「カニ!」


「右にシュッ!」


「左にシュッ!」


「横にサササッて!」


「カニみたいやった!」


灯真は目を丸くしたまま固まる。


「……カニって!」


おばあさんは吹き出し、親父も思わず肩を震わせた。


美琴は悪気などまったくない。


むしろ、自分の例えがぴったりだと思っている。


そして嬉しそうに両手を胸の前へ出すと、


「チョキチョキ!」


カニのはさみを真似しながら笑った。


灯真は思わず額を押さえた。


「何で俺がカニなん……。」


境内には、久しぶりに四人の笑い声が響き渡った。


しばらくして、親父が真剣な顔で灯真に尋ねた。


「まだ、教えたばっかりなのに、なんで動けた?」


「俺にもわからん」


「ただ、ひいじいちゃんの声が聞こえた気がした」


「そしたら体が勝手に動いた」


「そうか」


親父が小さく呟いた。


その時だった。


*パチンッ!*


乾いた音が境内に響いた。


四人が一斉におばあさんの方を見る。


美琴が首をかしげる。


「おばあちゃん、どげんしたと?」


おばあさんは、手をひらひらと振って笑った。


「あ、ごめんごめん」


「蚊がおったけん」


そう言って縁側の方へ歩き出す。


「立ち話もなんやけん、上がってお茶でも飲んでいかんね。」


親父はすかさず笑って答えた。


「俺はビールがよか。」


おばあさんは振り返るなり呆れた顔をする。


「はぁ?」


「そげんかつはなかっ!」


親父は悪びれもせず肩をすくめた。


「酒なら、神社やけん日本酒ぐらいあるやろ。」


「神様に供える酒ば勝手に飲ますかっ!」


おばあさんが笑いながら突っ込む。


「相変わらず変わっとらんね。」


「まぁまぁ、一杯くらい……。」


「ダメたい。」


二人のやり取りを見ていた灯真と美琴は思わず吹き出した。


「仲のよかね。」


「喧嘩しよるようで、楽しそう。」


二人は顔を見合わせて笑う。


居間へ上がると、美琴がお盆に湯呑みを乗せて戻ってきた。


「はい、お茶。」


親父は湯呑みを受け取り、優しく微笑む。


「ありがとう。」


湯気の立つお茶を一口すすると、大きく息を吐いた。


「ふぅ……。」


その表情が少し真面目になる。


「ばってん、本当に心配した。」


灯真と美琴は自然と姿勢を正した。


親父は静かに話し始める。


「昼過ぎやった。」


「最初は目の錯覚かと思うた。」


「ばってん、町中の人間が空ば見上げとった。」


おばあさんも頷く。


「神社からも、はっきり見えたと。」


「そのあと二人と連絡もつかんし」


「どげんしたかと思って……。」


親父は苦笑いを浮かべた。


「仕事どころじゃなかったたい。」


「急いで会社ば早退して帰って来た。」


「そしたら、しのぶさんも心配して待っとった。」


おばあさんは照れくさそうに笑う。


「じっとしとられんやった。」


「二人とも、無事で本当によかった。」


灯真と美琴は、同時に頭を下げた。


「ごめんなさい。」


しばらく静かな時間が流れる。


その空気を変えたのは、美琴だった。


灯真と目が合うと、にっこり笑う。


そして両手を胸の前へ。


「チョキチョキ。」


またカニである。


灯真は思わず吹き出した。


(まだやるんかい。)


親父の話を聞いている最中なのに、美琴はこっそりとカニを続けている。


灯真は笑いをこらえながら視線をそらした。


しかし。


また目が合う。


美琴は嬉しそうに、


「チョキチョキ。」


灯真は肩を震わせた。


(絶対気に入っとる。)


もうからかっているわけではない。


純粋に面白いと思っているだけなのだ。


そう思うと、余計に笑いが込み上げてくる。


親父は真面目に話を続けている。


「……だから、お前たちには——」


ふと顔を上げると、灯真が必死に笑いをこらえている。


「……なん笑いよっと。」


灯真は慌てて首を振る。


「いや、なんも。」


すると横で美琴が、また小さく、


「チョキ。」


灯真はとうとう吹き出してしまった。


「ぶっ!」


親父は額に手を当てる。


「話ば聞け。」


「ご、ごめん……。」


笑いをこらえようとするほど、美琴もつられて笑い出す。


おばあさんはそんな二人を見て目を細めた。


「若かってよかねぇ。」


居間には、張り詰めていた空気がすっかり消え、穏やかな笑い声が広がっていた。


その様子を見ていた親父は、大きくため息をつく。


「……はぁ。」


呆れたように頭をかきながら、ぽつりと呟いた。


「ばってん。」


「みこっちゃんがカニって言うたとも、案外的ば射とるとよ。」


灯真が笑いを止めて顔を上げる。


「……え?」


親父はさらりと言った。


「うちの家系、ご先祖様はカニやったけん。」


一瞬、部屋の中が静まり返った。


灯真が目を丸くする。


「……はぁぁ?」


思わず立ち上がりそうになりながら父親を見る。


「何言いよっと親父!」


「ご先祖様がカニな訳なかやん!」


「何のカミングアウトやねん!」


隣では、美琴もぽかんと口を開けていた。


「……え?」


「カニ?」


おばあさんはその様子を見るなり、お腹を抱えて笑い出した。


「あっはっはっは!」


「もう、あんた!」


「そげん言い方したら、分からんめもん!」


笑いすぎて涙を拭きながら親父を見る。


親父は面倒くさそうに頭をかいた。


「説明するとは苦手ったい……。」


そう呟いて湯呑みを置く。


「大牟田の昔話に、姫ばカニが救って、大蛇ば退治した話があるやろ。」


灯真は頷きながら答える。


「うん、小さか頃聞いた」


親父は続けた。


「本当はな。」


「神崎神社の巫女をご先祖様が命がけで守った話たい。」


「その戦い方が、横へ素早く動きながら巫女の前ば守る姿やった。」


「それがいつしか、カニが姫ば助けた昔話になったと。」


灯真は今日の稽古を思い出す。


四つん這い。


低い姿勢。


枝で障害物を払い、巫女の半歩前に出て守る動き。


そして、美琴に言われた言葉。


『カニみたいやった。』


思わず苦笑いがこぼれた。


「……なるほどね。」


「だからカニか。」


親父は頷く。


「昔話になる頃には、本当の出来事も少しずつ形ば変える。」


「人は覚えやすかように話ば作り替えるけんな。」


灯真は不思議そうに尋ねる。


「でも、そげん大事な話なら何で今まで教えてくれんやったと?」


親父はきょとんとした顔で答えた。


「何でって。」


「聞かれんやったけん。」


灯真はしばらく固まる。


「……。」


そして大きくため息をついた。


「あのねぇ……。」


その瞬間、頭の中に母の姿が浮かぶ。


『もう、お父さん!』


『大事なことはちゃんと言わなんたい!』


昔、何度も聞いた母の声。


灯真は思わず笑ってしまった。


(あぁ、この人そういう人やった。)


(母さんによく同じことで怒られよったたい。)


親父は首をかしげる。


「何笑いよっと?」


「いや。」


灯真は苦笑いしながら首を振った。


「なんもなか。」


おばあさんはそんな二人を見て微笑み、話題を変えるように口を開いた。


「ばってん……。」


「気になるとは壁画たい。」


「津波みたいな絵があったって言いよったろ。」


美琴も真剣な表情になる。


「うん。」


「巨木の根元に、海と大きな波が描いてあった。」


おばあさんは少し考え込む。


「確か……江戸時代やったかな。」


「『島原大変肥後迷惑』ていう大津波があったげなばってん。」


「有明海沿岸も大きな被害ば受けたって伝わっとる。」


美琴は思わず吹き出した。


「おばあちゃん。」


「その名前、おかしくなか?」


おばあさんは真顔で頷く。


「本当の名前たい。」


「笑い事じゃなか。」


部屋の空気が少し引き締まる。


おばあさんはゆっくり続けた。


「古墳の壁画に描かれとるっちゅうことは……。」


「もしかしたら、私らが知らんだけで、繰り返し起こる出来事かもしれん。」


灯真も美琴も息をのむ。


おばあさんは神棚の方へ目を向けた。


「神崎神社の巫女が、有明海で舞ば奉納する理由も……。」


「海の魔物ば鎮め、封じるためやと伝えられとる。」


静かな沈黙が流れた。


その時、親父がぽつりと呟く。


「……本当に。」


「もう時間が無かとかもしれんな。」


その一言が、部屋の空気をさらに重くした。


親父は立ち上がる。


「帰って母さんにも話ばせなん。」


そして美琴を見る。


「みこっちゃんも。」


「今日見たことは、ちゃんと話し合わなんよ。」


美琴は真剣な表情で頷いた。


「はい。」


親父は灯真へ目を向ける。


「帰るばい。」


灯真も立ち上がる。


「今日は、お邪魔しました。」


美琴は少し寂しそうに笑う。


「また明日ね。」


「うん。」


二人は神社の石段を下り始めた。


おばあさんと美琴は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。


やがて、美琴がぽつりと呟く。


「おばあちゃん。」


「巨木様って……。」


言いかけて言葉を止める。


おばあさんは、その続きを聞かなくても分かっているように、小さく頷いた。


「世界中に巨木の神話が残っとるけんね。」


「もしかしたら。」


「根っこのずっと深か所で、世界中と繋がっとるとかもしれんね。」


美琴は静かに空を見上げた。


昼間見た、あの巨大な樹を思い出す。


あれが本当に世界へ繋がる樹なのだとしたら──。


まだ誰も知らない真実が、その根の先に眠っているのかもしれない。


おばあさんは立ち上がり、にっこり笑った。


「さぁ。」


「晩ご飯にしようか。」


「今日は、ばあちゃんが美味しか料理ば作ってあげるけん。」


「ゆっくりしとかんね。」


美琴も笑顔になる。


「ありがとう、おばあちゃん。」


おばあさんは得意げに胸を張った。


「ラーメンでよかね。」


美琴は思わず笑う。


「よかばってん……。」


「ラーメンは料理じゃなかよ。」


おばあさんは、すかさず言い返した。


「何言いよっと。」


「立派な料理たい。」


二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


その夜。


美琴とおばあさんは、遅くまで縁側で話し続けた。


一方、灯真も家へ戻り、父と母に今日見たすべてを語っていた。


古墳で見た巨木。


壁画。


黒い影。


白い影。


そして、自分の体を導いた不思議な声。


それぞれの家で交わされた会話は、やがて一つの確信へと変わっていく。


──この町には、まだ誰も知らない歴史が眠っている。


そして、その真実は少しずつ、灯真と美琴を中心に動き始めていた。



(第22章 終わり)


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