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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第21章 古墳の眠る山



真夏の太陽が容赦なく照りつける。


蝉の鳴き声が山中に響き渡り、熱せられたアスファルトからは陽炎が揺れていた。


灯真と美琴は、甘木山へ続く急坂を、ヨタヨタになりながら必死に自転車で登っていた。


「はぁ……はぁ……。」


「灯真……もう無理。」


美琴がハンドルにもたれ掛かる。


灯真も肩で息をしながら答えた。


「俺も……ダメだ。」


「こげんキツかとは思わんやった……。」


二人はほぼ同時に自転車を降りる。


そのまま押して歩き始めた。


神崎神社を出発した時は、希望とやる気に満ちあふれていた。


「古墳ば見に行こう!」


そんな勢いで飛び出してきたのに。


今は二人とも汗だくになり、足は重く、口から出るのは弱音ばかりだった。


美琴が汗を拭いながら灯真を睨む。


「灯真。」


「ん?」


「何で甘木山やったと?」


「資料に載っとった壁画なら、萩ノ尾古墳で良かったんじゃなかと?」


灯真は息を切らしながら苦笑する。


「萩ノ尾古墳は写真で見たやん。」


「それよか、他の古墳ば見た方が何か分かるかもしれんと思って。」


美琴はふらつきながら大きくため息をついた。


「でも……。」


「夏に、この坂は地獄ばい……。」


灯真も額の汗をぬぐう。


「あと少したい。」


「頑張れ。」


「その『あと少し』が信用ならんとよ……。」


美琴が恨めしそうに呟く。


道の先に大きな岩が見えた。


美琴が、遠くを指差した。


「灯真、あれじゃなか?」


灯真は視線を向ける。


木々の隙間から、大きな岩がいくつも転がっている場所があった。


近付くにつれ、それがただの岩ではないことに気付く。


人の手で積まれた巨大な石。


崩れかけた入口。


半ば土に埋もれた石室。


「間違いなか。」


灯真は小さく頷いた。


「この前見た資料に、甘木山の頂上付近には石室がいくつもあるって書いてあった。」


「自転車ば置いて見て回ろう。」


美琴は驚いたように辺りを見回す。


「同じ所に、そげんいっぱいあると?」


「俺も初めて来たけん分からんばってん。」


「せっかく来たけん、全部見てみよう。」


二人は木陰へ自転車を止めると、古墳群の中へ足を踏み入れた。


思っていた以上に広い。


草木に覆われた石室が、あちこちに点在している。


入口だけ残っているもの。


天井が崩れてしまったもの。


原形すら分からないもの。


何百年、何千年という時の流れを、そのまま閉じ込めたような場所だった。


灯真は一つずつ中を覗いていく。


しかし——。


「あぁぁ……。」


思わずため息が漏れる。


「こっちもか……。」


壁は崩れ落ち、資料で見たような壁画はどこにも残っていない。


別の石室へ向かう。


そこも同じだった。


さらに奥へ。


やはり何もない。


灯真は苦笑いを浮かべた。


「美琴、ごめん。」


「全部朽ちてしまっとる。」


「壁画どころじゃなかった。」


美琴は首を横に振る。


「灯真、気にせんでよかよ。」


「うちも初めて来たばってん……。」


そう言って振り返る。


「見晴らしの、よかとこやね。」


二人は石室の横から景色を見渡した。


大牟田の街並みが眼下に広がっている。


その向こうには、有明海。


夏の日差しを受けて、海が銀色に輝いていた。


吹き抜ける風が、汗ばんだ体を優しく冷やしてくれる。


「気持ちよかー!」


美琴は両手を大きく広げ、背伸びをした。


その笑顔を見て、灯真も自然と笑った。


「坂は地獄やったばってん……。」


「来て良かったな。」


「うん。」


美琴も笑顔で頷く。


その時だった。


サァァ……。


風とは違う音が聞こえた。


灯真の表情が変わる。


「……今。」


「何か聞こえんやった?」


美琴も首を傾げる。


「えっ?」


「何も——」


言い終わる前だった。


ガサッ。


近くの茂みが揺れた。


続いて。


ガサガサガサッ。


別の茂み。


さらに反対側。


四方八方の草むらが、一斉にざわめき始める。


「……灯真。」


美琴の声が震えた。


地面を見た灯真は、息をのむ。


黒いものが這っていた。


影。


いや。


影のような何か。


それが草の間から音もなく現れ、地面を這うようにこちらへ近付いてくる。


一本。


二本。


十。


二十。


数え切れない。


無数の黒い靄が、生き物のように蠢きながら二人を取り囲み始めていた。


灯真は美琴の前へ立つ。


「……下がれ。」


美琴も息をのみ、一歩だけ後ろへ下がる。


黒い影はなおも距離を縮めてくる。


その動きはゆっくりなのに、不気味なほど確実だった。


そして——。


灯真の頭の奥で、誰かの声が響いた。


――巫女を守れ。


――その枝を取れ。


「……え?」


灯真は思わず辺りを見回した。


誰もいない。


聞こえたはずの声は、頭の中から響いていた。


――巫女を守れ。


――その枝を取れ。


次の瞬間だった。


考えるより先に、体が動いた。


灯真は素早く身をかがめ、足元へ落ちていた一本の枝を拾い上げる。


「灯真?」


美琴が戸惑った声を上げる。


しかし灯真は答えられなかった。


(何で……。)


(何で体が勝手に……。)


自分でも分からない。


だが、その動きに迷いはなかった。


黒い影が足元へ這い寄ってくる。


灯真は枝を横薙ぎに振るった。


バシッ!


枝が黒い影を払う。


影は煙のように揺らぎ、後ろへ弾き飛ばされた。


だが、次の瞬間には別の影が地面から這い出してくる。


その数は増えるばかりだった。


すると再び、声が響く。


――前へ。


灯真は迷わず一歩踏み出した。


――そこは危ない。


反射的に足を止める。


目の前の草の下には、小さな穴が口を開けていた。


あと一歩進めば足を取られていた。


灯真は思わず息をのむ。


(見えとらんやった……。)


声は続けて囁く。


――右へ。


言われるまま右へ身をかわす。


――そこは滑る。


苔の生えた岩を避けるように足が動く。


まるで何十年もこの山を歩いてきた人間のように。


灯真は、自分の足が信じられなかった。


(俺じゃなか……。)


(誰かが俺ば動かしよる……。)


それでも、不思議と恐怖はなかった。


頭の奥に、あの日の感覚がよみがえる。


炭坑日記に触れた瞬間。


ひとりでにめくられていくページ。


そして――


ひいじいちゃんの記憶が、自分の中へ流れ込んできた、あの瞬間。


(ひいじいちゃん……。)


灯真は、自分の足を見つめた。


「これが……ひいじいちゃんが俺にくれたもの」


一度、息を呑む。


「……記憶、なのか」


その瞬間だった。


黒い影が、美琴の足元へ迫る。


「美琴!」


灯真は反射的に枝を振るった。


――バシッ!


黒い影が弾かれる。


灯真は美琴の前に立ちはだかった。


自分でも分からない。


なぜ、こんな動きができたのか。


ただ一つだけ、はっきりしていた。


この身体は、自分だけのものではない。


ひいじいちゃんから受け継いだ何かが――


今、自分を動かしている。


黒い影が美琴の足元へ迫る。


灯真は枝を振るい、影を払いのけた。


「こっちに来い!」


美琴は迷わず灯真の後ろへ回る。


「向こうへ行くぞ!」


灯真は枝で草を払いながら進み始めた。


父親の言葉が頭をよぎる。


『巫女の前ば、お前が何とかせろ。』


『巫女が安心して次の一歩ば踏み出せるようにするとが、お前の役目たい。』


あの時は意味が分からなかった。


だが今なら分かる。


灯真は美琴の半歩前を進み続けた。


枝で地面を叩く。


草を払う。


石を弾く。


穴を避ける。


黒い影を払いながら、安全な道だけを選んで進んでいく。


美琴も灯真を信じ、その背中だけを見てついて行く。


「灯真!」


「大丈夫。」


「俺について来い!」


その言葉に、美琴は大きく頷いた。


「うん!」


二人は黒い影の間を縫うように走る。


その時、また声が響いた。


――岩だ。


――あそこへ登れ。


灯真は顔を上げる。


少し先に、人の背丈ほどもある巨大な岩が見えた。


「あそこだ!」


「美琴!」


「岩へ登れ!」


二人は一気に駆け出した。


黒い影が追いすがる。


灯真は枝を振るい、道を切り開く。


先に岩へ飛び乗ると、美琴へ向かって右手を伸ばした。


「早く!」


美琴はその手をしっかりと掴む。


灯真は力いっぱい引き上げた。


二人が岩の上へ登った。


周りを見渡すと、無数の黒い影が岩の下を埋め尽くすように集まり始めた。


まるで獲物を逃がすまいとするように。


そして灯真は、その黒い影のさらに奥に、白く揺らめく巨大な影が立っていることに気付くのだった。


白い靄が、ゆっくりと形を成していく。


人のようにも見える。


獣のようにも見える。


いや――どちらでもない。


輪郭はぼやけ、巨大な白い影

だけが、そこに立っていた。


そして。


ゆっくりと口が開く。


不気味なほど大きな口。


まるで笑っているようだった。


灯真の全身に緊張が走る。


「あいつだ……。」


思わず声が漏れる。


三川坑で感じた、あの禍々しい気配。


忘れようとしても忘れられなかった存在。


間違いない。


「あいつだ!」


灯真は美琴の前へ立ち、低く身をかがめた。


枝を強く握り締める。


(襲ってきたら……。)


(飛びかかる。)


(美琴だけは、絶対に守る。)


心臓は激しく脈打っていた。


怖い。


体が震える。


それでも、不思議だった。


三川坑で味わった、あの絶望的な恐怖はない。


逃げたいとは思わなかった。


父の言葉が胸に蘇る。


「巫女ば守れ。」


その一言だけが、灯真の心を支えていた。


美琴も灯真の背中を見つめていた。


恐怖はある。


それでも、今は一人じゃない。


二人でいる。


それだけで、不思議と勇気が湧いていた。


覚悟を決め、灯真が唾を飲んだ瞬間、時間が止まったように思えた。


空が光った。


「……え?」


灯真は思わず見上げる。


雲一つない青空。


そこから無数の光の粒が、静かに降り始めていた。


まるで雨のように。


いや。


雨よりも柔らかく。


雪よりも優しく。


無数の光が、空から舞い降りる。


「なんだ……。」


灯真は呆然と呟いた。


光は地面へ降り注ぎ、黒い影へ触れていく。


ジュッ……。


そんな音が聞こえた気がした。


黒い影は苦しむように揺らぎ、一つ、また一つと、煙のように消えていく。


「……払われていく。」


美琴が小さく呟いた。


さっきまで二人を囲んでいた黒い影は、光に包まれながら次々と姿を消していく。


白い影もまた、静かに後退していく。


二人はその姿から目を離せなかった。


灯真は思わず叫んだ。


「あれを見て!」


美琴も振り返る。


二人の視線の先。


大牟田の街の中心。


そこに――。


一本の巨大な木が立っていた。


「……。」


二人は言葉を失う。


あまりにも大きい。


街など比べものにならない。


その幹は山よりも太く、枝は空を支えるように四方へ広がっている。


そして。


巨木は、どこか透き通っていた。


現実に存在しているようで、幻のようでもある。


淡い青白い光を放ちながら、大地へ無数の根を張り巡らせている。


その根は、大牟田の街を包み込むように広がり、山へ、川へ、海へ、遥か彼方まで伸びていた。


「……これ。」


美琴は小さく息をのむ。


「神崎神社の御神体……。」


灯真も静かに頷く。


「あの時、おばあさんが話しよった。」


『昔、この地には天に届くほどの巨木があった。』


『その欠片が御神体たい。』


その言葉が頭の中で重なる。


「あれが……。」


「本当の姿……?」


誰に聞くでもなく、灯真は呟いた。


すると、風が吹いた。


巨木の枝が静かに揺れる。


同時に、その姿は少しずつ薄れていった。


まるで最初から存在しなかったかのように。


光の雨も止み、黒い影も、白い影も、すべて消えていた。


しばらく二人は動かなかった。


灯真が足元を見て、小さく息をのんだ。


「……美琴。」


「え?」


「これ……。」


さっきまで岩だと思っていた場所。


その下には、綺麗な石室の入口が現れていた。


「そんな……。」


二人は顔を見合わせる。


恐る恐る石室へ近付き、中を覗き込んだ。


「……写真と似てる。」


灯真が静かに呟く。


美琴もゆっくりと石室の中へ視線を向けた。


「私の紋様と似たものが……。」


石室の中央には、大きな一本の巨木が描かれていた。


その幹には、美琴の左手首に刻まれた紋様とよく似た印。


美琴は思わず自分の手首を見つめた。


「やっぱり……。」


「同じ……。」


二人は、さっき見た巨木の姿を思い出していた。


幻ではない。


昔の人も、確かに、この巨木を見ていた。


壁画には、巨木の下で舞う二人。


その周りで祈りを捧げる人々。


まるで神事の様子を描いたようだった。


灯真は思わず美琴の手を取る。


「向こうも見よう!」


二人は駆け出した。


別の石室。


そこにも中央には巨木。


さらに隣の石室。


やはり巨木。


「全部に描かれとる……。」


灯真は息をのむ。


しかし。


三つ目の石室で、二人は足を止めた。


「……えっ?」


巨木の根元。


そこに描かれていたものは、人ではなかった。


巨大な何か。


根の先には、大きく波打つ海。


「津波……?」


美琴が震える声で呟く。


さらに別の石室へ向かう。


そこにも巨木。


しかし……


海の中で暴れる巨大な影。


祈る人々。


空を覆う雲。


どの壁画も少しずつ違う。


まるで、一枚では語りきれない歴史を、いくつもの石室へ分けて描き残したようだった。


灯真と美琴は、言葉を失ったまま立ち尽くす。


風だけが静かに石室を吹き抜けていく。


やがて二人は、ゆっくりと外へ出た。


振り返ると、そこに残っていたのは、静かな古墳群と、どこまでも広がる夏の青空だけだった。


しばらく二人は言葉を発しなかった。


蝉の鳴き声だけが、山に響いている。


やがて美琴が静かに口を開く。


「……今の。」


「夢じゃなかよね。」


灯真はゆっくりと頷いた。


「ああ。」


「俺も見た。」


二人はもう一度、大牟田の街を見下ろす。


そこには、いつもの景色しかない。


巨木はどこにもなかった。


それでも二人には分かっていた。


確かに見た。


確かに、あそこに存在していた。


灯真は手に握った枝へ目を落とした。


そして、小さく呟く。


「……もっと知らんといかん。」


「この町に何があったのか。」


「ひいじいちゃんが残したものも。」


「御神体も。」


「白い影も。」


「全部。」


美琴も静かに頷く。


「うん。」


「もう、後戻りはできんね。」


二人は古墳をあとにし、ゆっくりと山を下り始めた。


真夏の蝉は、何事もなかったかのように鳴き続けている。


けれど二人だけは知っていた。


今日、自分たちは。


この町が隠し続けてきた"最初の真実"を見てしまったのだ。



(第21章 終わり)





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