第20章 守る者の型
朝の神崎神社。
境内いっぱいに、蝉の声が響いていた。
朝日に照らされた石畳はまだ少しだけ湿り気を帯び、木々の葉を揺らす風が心地よい。
父親は灯真と美琴を見渡すと、小さく頷いた。
「よし。」
「始めるか。」
すると、おばあさんが笑いながら前へ出る。
「美琴ちゃんは、私が教えようかね。」
そして父親の方を向いた。
「灯真君ば、あんたが教えてくれんね。」
父親は少し残念そうに肩を落とした。
「しょんなかたい。」
「ほら、灯真。先ずは構えろ。」
「えっ?」
灯真は枝を持ったまま立ち尽くした。
「構えって言われても……。」
父親は額に手を当て、大きくため息をつく。
「あぁぁ……。」
「そっからたいね。」
「先ずは四つん這いになれ。」
「……は?」
灯真は目を丸くした。
「四つん這い?」
「剣術の稽古やんね?」
「黙って言う通りにせんか。」
父親の声は低かった。
灯真は納得できないまま、不貞腐れた顔で地面へ手をつく。
「これでよか?」
「まだ高か。」
「もっと目線ば落とせ。」
言われるまま姿勢を低くする。
父親は静かに頷いた。
「そうたい。」
「その目線の高さば覚えろ。」
そして境内の端に置かれていた提灯を手渡した。
「左手で提灯ば持て。」
「親父……。」
灯真は顔をしかめる。
「この体勢、めちゃくちゃきつか。」
父親は真顔のまま答えた。
「提灯の明かりは、お前のためじゃなか。」
「巫女の足元ば照らすためにある。」
「……え?」
灯真は思わず美琴を見る。
父親は続けた。
「巫女が安心して次の一歩ば踏み出せるようにする。」
「それが、お前の役目たい。」
灯真は何も言えなかった。
父親はさらに言葉を重ねる。
「そして、目ば閉じろ。」
「また?」
「いいけん、閉じろ。」
灯真は渋々目を閉じた。
視界が闇に包まれる。
「地面ば感じろ。」
父親の声だけが聞こえる。
「でこぼこ。」
「石。」
「砂。」
「足ば取られる場所。」
「全部感じろ。」
「目で見るんじゃなか。」
「右手。」
「足の裏。」
「そこに神経ば全部集めろ。」
灯真はゆっくり息を整えた。
土の冷たさ。
小石の硬さ。
木の根の盛り上がり。
目を閉じるほど、不思議と地面の様子が伝わってくる。
しばらくして灯真が口を開いた。
「親父。」
「なんね。」
「これ……剣術じゃなかろ?」
父親は静かに笑った。
「前に話したろうが。」
「うちの家系は、代々巫女ば守る役目たい。」
「暗闇で。」
「巫女が安心して次の一歩ば踏み出せるようにする。」
「それが、お前の戦い方たい。」
灯真は右手の枝を見つめた。
「じゃあ……。」
「この枝は?」
父親は枝を指差した。
「その枝で、巫女の前の障害物ば取り除く。」
「蛇かもしれん。」
「石かもしれん。」
「穴かもしれん。」
「何があるか分からん。」
「先に枝で確かめる。」
「巫女は、その後ろを進む。」
灯真は静かに枝を握り直した。
父親は一歩近づき、真剣な眼差しで言う。
「灯真。」
「お前が前に出ろ。」
「常に巫女の前の状況ば何とかして、その命ば守れ。」
「それが、お前たち二人の戦い方たい。」
「今までの練習で、巫女の戦う時の足の運びは見てきたやろ。」
「常に、その一歩先ば読め。」
灯真は何か納得がいかなかった。
「こげん低っか体勢じゃなくてん良かっじゃなかと?」
父親は鼻で笑った。
「巫女の動きの邪魔にならんごとたい。」
「頭ば槍で突かれたってよかなら、頭ば上げたってよかぞ。」
灯真は思わず美琴へ視線を向けた。
その瞬間だった。
シュッ――。
シュシュッ。
シュッ!
美琴の槍は鋭く空を切り裂き、それでいて美しく舞っていた。
灯真は思わず息をのむ。
「……速か。」
父親はその表情を見て、ニヤリと笑う。
「分かったや。」
灯真は悔しそうに、小さく頷いた。
「……うん。」
父親は腕時計へ目を落とした。
「あら。」
「もうこげな時間ね。」
「俺は帰るばい。」
灯真は慌てて父親を呼び止めた。
「親父!」
父親が振り返る。
「一回、見本ば見せて。」
「まだイメージしきらん。」
父親は露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒くさかねぇ……。」
そう言いながらも、灯真の手から提灯と枝を受け取る。
そして美琴へ声を掛けた。
「みこっちゃん。」
「はい。」
「俺のことは気にせんでよか。」
「目ば閉じて、槍の型ばしてみんね。」
美琴は少し驚いたが、静かに頷いた。
「はい。」
ゆっくりと目を閉じる。
槍を構える。
境内に静寂が訪れた。
父親も目を閉じる。
右手には枝。
左手には提灯。
誰も動かない。
風だけが木々を揺らしていた。
そして――。
ザザッ。
美琴が踏み込んだ。
その瞬間だった。
「えっ……!」
父親の姿が消えた。
いや、違う。
消えたのではない。
あまりにも低く、あまりにも速く、地面を滑るように動いたのだ。
灯真の目が、その動きを追えない――。
父親は美琴より半歩前。
いや、常に半歩前を保っている。
美琴が踏み出そうとする、その一瞬前には、もうそこにいた。
右手に持った枝が、小石を軽く弾く。
落ち葉を払う。
地面の窪みを探る。
草を静かにかき分ける。
まるで、見えない危険を一つずつ取り除いているようだった。
左手の提灯は、ほとんど揺れない。
あかりの灯っていない提灯なのに、美琴の足元を静かに照らしているように見えた。
美琴は目を閉じたまま槍を振る。
シュッ。
ザッ。
シュシュッ。
父親は、その動きを邪魔するどころか、美琴が次に足を運ぶ場所へ先回りしていた。
槍が振られる。
父親が動く。
槍が止まる。
父親も止まる。
二人の呼吸が、不思議なくらいぴたりと重なっていた。
灯真は息をすることも忘れて見入っていた。
(何だ……これ。)
剣術じゃない。
槍術でもない。
二人で戦うためだけに磨き上げられた、一つの型。
まるで神楽を見ているようだった。
風が吹く。
木漏れ日が二人を包む。
その姿は戦いというより、一つの舞に見えた。
やがて、美琴の槍が静かに止まる。
父親も同時に動きを止めた。
境内に静寂が戻る。
しばらく誰も口を開かなかった。
最初に声を出したのは、おばあさんだった。
「相変わらずやねぇ。」
父親は照れくさそうに頭をかく。
「昔ほど動けんばい。」
「何ば言いよると。」
おばあさんは笑った。
「まだまだ現役たい。」
灯真は呆然と父親を見つめていた。
「……親父。」
父親が振り向く。
「何ね。」
「今の……。」
「人間の動きじゃなか。」
父親は吹き出した。
「失礼か息子たい。」
「ちゃんと人間ばい。」
美琴も思わず笑う。
「でも、ほんとに凄かったです。」
父親は少しだけ真面目な顔になった。
「これは強か弱かの話じゃなか。」
「勝つための型でもなか。」
「守るための型たい。」
そう言って、提灯を持ち上げる。
「提灯の灯りは、自分ば照らすためじゃなか。」
「暗闇の中でも、巫女が安心して前へ進めるように照らすためにある。」
今度は枝を軽く振った。
「この枝も武器じゃなか。」
「危険ば探し、道ば作るためのもんたい。」
灯真は静かに父親の話を聞いていた。
「お前は戦う人間じゃなか。」
「巫女が全力で戦えるようにする人間たい。」
その言葉は、灯真の胸へゆっくりと染み込んでいった。
昨日まで考えていた戦い方とは、まるで違う。
敵を倒すことではない。
守ること。
支えること。
それが、自分の役目。
そう思うと、不思議と胸の奥が熱くなった。
灯真は提灯と枝を見つめる。
さっきまで頼りなく見えていたそれが、少しだけ違って見えた。
父親は満足そうに頷いた。
「今日はそこまで分かれば十分たい。」
「明日から毎朝やるぞ。」
灯真は思わず顔をしかめた。
「毎日?」
父親は笑う。
「毎日たい。」
「体で覚えろ。」
「考えて動くようじゃ遅か。」
灯真は小さくため息をついた。
「……分かった。」
その返事を聞いて、父親は満足そうに頷いた。
(……親父、何者なんだ。)
灯真は父親の背中を見つめた。
子どもの頃から一緒に暮らしてきた。
少しお調子者で、どこにでもいる普通の父親だと思っていた。
それなのに、さっき見せた動きは、どう考えても普通じゃない。
父親はそんな視線に気付いたのか、振り返ることなく片手をひらひらと上げた。
「じゃ、今のばよぉ覚えとけ。」
「明日からは毎朝特訓やけん。」
そう言い残すと、そのまま神崎神社の石段を軽い足取りで下りていった。
灯真はしばらく、その背中を見送ることしかできなかった。
その場に残った静けさを破るように、
パンッ!
おばあさんが手を叩いた。
「今日はここまでにしようかね。」
厳しかった稽古の空気が、一気に和らぐ。
おばあさんは二人の顔を見比べると、悪戯っぽく笑った。
「今日はラジオ体操もなかし……。」
「二人、デートやろ。」
「ち、違います!」
美琴は耳まで真っ赤にしながら首を振った。
「そげんかっじゃなか!」
「もう、おばあちゃん!」
その慌てようがおかしくて、おばあさんは声を上げて笑う。
灯真も思わず吹き出した。
「……ははは。」
さっきまでの張り詰めた空気が嘘のようだった。
おばあさんは笑いながら社務所へ向かう。
「はよ手ば洗ってこんね。」
「朝ごはんにするばい。」
「はい!」
二人は声を揃えて返事をした。
◇
居間へ入ると、今日も食卓いっぱいに朝食が並んでいた。
炊き立ての白ご飯。
焼き魚。
味噌汁。
卵焼き。
小鉢に盛られた煮物と漬物。
湯気と一緒に、優しい香りが部屋中へ広がっている。
「いただきます。」
三人で手を合わせる。
灯真は箸を持つと、迷わず味噌汁を口へ運んだ。
「……うまっ。」
思わず声が漏れる。
続いて焼き魚。
炊き立てのご飯。
何を食べても美味しい。
(やっぱり……。)
(美琴の朝ごはんは神たい。)
その瞬間。
頭の奥で、小さな声が聞こえた気がした。
『安全灯センサー……ではなく。』
『食いしん坊センサー作動中。』
(誰が食いしん坊たい!)
灯真は思わず心の中でツッコミを入れる。
一人で少し笑ってしまった灯真を見て、美琴が首をかしげた。
「灯真?」
「ん?」
「何か良かことでもあった?」
「いや……何でもなか。」
「変なやつ。」
美琴はくすっと笑い、お茶を口に運ぶ。
その何気ないやり取りが、灯真には妙に心地よかった。
昨日、三川坑で見た闇。
図書館で聞いた、あの声。
父親から教えられた"守る者"の戦い方。
そんな重苦しい出来事が続いたあとだからこそ、この穏やかな朝が、かけがえのない時間に思えた。
食事を終えると、おばあさんがお茶を飲みながら言った。
「今日は行くっちゃろ?」
美琴が頷く。
「うん。」
「古墳ば見てくる。」
「資料に載っとった壁画。」
「手首の紋様と似とるか、自分の目で確かめたか。」
おばあさんは静かに二人を見つめた。
「気ぃつけて行ってこんね。」
「はい。」
灯真は一度家へ自転車を取りに戻り、再び神社へ向かった。
二人は自転車を押しながら神崎神社をあとにした。
朝の日差しが少しずつ強くなり始めている。
ペダルを踏み込むと、夏の風が頬を撫でた。
向かう先は、郷土資料に載っていた古墳。
そこには、美琴の手首の紋様によく似た壁画が残されているという。
偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
まだ誰にも分からない。
けれど二人は、もう立ち止まるつもりはなかった。
真実を知るために。
そして、あの闇の中で聞いた言葉の意味を確かめるために。
二台の自転車は、夏空の下を並んで走り出した。
その先に待つ運命など、まだ知る由もなかった。
(第20章 終わり)




