第19章 : 受け継がれるもの
その日の夜。
灯真は、なかなか寝つくことができなかった。
図書館の資料室で聞いた、あの声。
――『真実を知りたければ、会いに来い。』
――『お前たちに残された時間は、もう多くはない。』
目を閉じても、その言葉だけが頭の中を何度も何度も巡り続ける。
あれは幻だったのか。
夢だったのか。
それとも、本当に何かと話をしたのか。
答えは分からない。
ただ一つだけ言えることがあった。
あの声には、不思議と嘘がないように感じられた。
時計を見る。
まだ夜中の三時過ぎ。
「……寝られんな。」
灯真は小さくため息をつき、布団の上で寝返りを打った。
窓の外では、虫の鳴き声だけが静かに響いている。
結局、そのまま眠ることはできなかった。
◇
朝。
顔を洗い、動きやすい服に着替える。
今日はいつもより早く神崎神社へ行こう。
そう思い玄関の扉を開けると、
「おう。」
目の前には父親が立っていた。
ジャージにTシャツ姿。
首にはタオルを掛け、今からランニングにでも出掛けるような格好をしている。
灯真は首をかしげた。
「なんね、その格好。」
父親は少し照れくさそうに笑い、お腹をぽんと叩いた。
「最近、腹の出てきたけん、走りよっと。」
「はぁ?」
灯真は呆れたように父親を見る。
「めずらしかね。」
「まぁな。」
父親は笑いながら靴ひもを締めた。
「今日は、お前と一緒に神崎神社まで行こうと思って。」
「なんしに?」
「お前、剣の練習しよるとやろ。」
「ちょっと見てみようかなと思って。」
灯真は苦笑いを浮かべる。
「親父が見たって、どげんなるもんじゃなか。」
少し小馬鹿にしたような口調だった。
父親は肩をすくめる。
「そげん言うなよ、灯真。」
「はいはい。」
二人は並んで歩き始めた。
朝の住宅街はまだ静かだった。
蝉だけが元気よく鳴いている。
昨日まで胸を締め付けていた恐怖が、朝日を浴びると少しだけ遠ざかる気がした。
けれど、完全には消えていない。
『真実を知りたければ、会いに来い。』
その言葉だけは、まだ胸の奥に重く残っていた。
◇
神崎神社へ着くと、美琴はすでに木刀を手にして境内へ立っていた。
朝日に照らされ、静かに目を閉じている。
灯真たちに気づくと、にこりと笑った。
「おはよう。」
その横で父親が手を上げる。
「おはよう、みこっちゃん。毎日えらかね。」
「おはようございます。」
美琴はぺこりと頭を下げた。
「今日は……おばあちゃんに御用ですか?」
「いや。」
父親は境内を見回した。
「今日は灯真の練習ば見学させてもらおうと思って。」
そして何気なく口にした。
「婆さんもおっとね?」
その瞬間だった。
ビュンッ――!
「え?」
バキッ!
「あいたっ!」
何かが勢いよく飛んできて、父親の頭に見事に命中した。
父親は頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。
「げっ……下駄?」
足元には木製の下駄が転がっていた。
「婆さん! 危なかろうが! 怪我したらどげんすっと!」
すると拝殿の方から、ゆっくりと一人の人影が歩いてくる。
鬼のような形相をした、美琴の祖母だった。
「誰が婆さんだって!」
朝の境内に、よく通る声が響く。
「お前に婆さん呼ばわりされる歳じゃなか!」
父親は苦笑いを浮かべながら頭をさする。
「相変わらず手加減なかねぇ……。」
祖母は鼻を鳴らした。
「まだ足りんやったか?」
そう言うと、もう片方の下駄に手を伸ばす。
父親は慌てて両手を前へ出した。
「待て待て待て! ほんなこつ危なか!」
その様子を見ていた灯真は目を丸くする。
「親父……知り合いやったと?」
美琴も驚いたように祖母を見る。
「うちも初めて見た……。」
祖母は二人の様子を見ると、ふっと表情を緩めた。
「昔からの腐れ縁たい。」
父親も照れくさそうに笑う。
「まぁ、色々あってね。」
灯真はますます訳が分からなくなった。
この二人には、自分たちの知らない昔がある。
そんな気がしてならなかった。
祖母はゆっくりと二人の前へ歩み出ると、さっきまでの険しい表情を消し、いつもの厳しくも優しい顔に戻った。
「ほら、二人とも。」
パンッ、と一度手を叩く。
「始めるけん、構えんね!」
「はい!」
灯真と美琴は同時に返事をすると、それぞれ木刀を構えた。
朝の神崎神社。
境内には蝉の鳴き声が響き、木々の隙間から差し込む朝日が二人を照らしている。
祖母が静かに頷いた。
「始め。」
二人はゆっくりと型を始める。
一歩。
また一歩。
木刀が静かに風を切る。
父親は少し離れた場所で腕を組み、一言も発することなく、その様子を真剣な表情で見つめていた。
灯真は昨日までとは違っていた。
木刀を振ることだけを意識していた動きではない。
足の運び。
重心。
呼吸。
一つひとつを確かめるように体が動いていく。
祖母の目が少しずつ大きくなった。
「……。」
最後まで見届けると、思わず口を開いた。
「灯真君。」
灯真は木刀を下ろした。
「はい。」
「昨日までとは……動きがようなっとる!」
「えっ?」
灯真自身が一番驚いた。
言われてみれば、不思議なくらい自然に体が動いていた。
無理に力を入れなくても、昨日より木刀が軽く感じる。
美琴も驚いた顔で灯真を見ている。
「ほんとたい……。」
「昨日とは全然違う。」
祖母は二人を交互に見つめた。
「何かあったとね?」
灯真は美琴と顔を見合わせる。
少しだけ迷ったが、小さく頷いた。
「……話します。」
境内の空気が静かになる。
灯真は図書館で起きた出来事を、一つも隠さず話し始めた。
郷土資料を調べていたこと。
突然、周りの景色が闇へ変わったこと。
聞こえてきた、あの重々しい声。
そして。
『闇の中に現れた炎』
『大蛇と大きな木、それと、燃える石。』
最後に告げられた言葉。
『真実を知りたければ、会いに来い。』
『お前たちに残された時間は、もう多くはない。』
そこまで話し終えると、誰も口を開かなかった。
境内には風が吹き抜ける。
木々が静かに揺れた。
父親は腕を組んだまま空を見上げていた。
何かを考えているようだった。
やがて、小さく息を吐く。
「……あぁ。」
その一言だけだった。
灯真が首をかしげる。
「親父?」
父親は苦笑いを浮かべた。
「呼ばれたか。」
「……え?」
「何で灯真と、みこっちゃんやろかね。」
灯真も美琴も固まる。
「親父……。」
灯真がゆっくり近づく。
「知っとると?」
父親は少しだけ考え、首を横に振った。
「全部じゃなか。」
「ばってん、全く知らん話でもなか。」
美琴も思わず身を乗り出す。
「どういう意味ですか?」
父親は答えなかった。
ただ遠くの山並みを見つめている。
その横で祖母が静かに頷いた。
「……しょんなかね。」
祖母は父親を見る。
父親も静かに頷き返した。
「ちゃんとした剣術ば教えるか。」
その言葉に灯真は目を丸くした。
「え?」
「ちゃんとした……剣術?」
父親が灯真の前まで歩いてくる。
その目は、さっきまで冗談を言っていた人とはまるで違っていた。
真っ直ぐで、鋭い。
「灯真。」
「……はい。」
「今日からは、俺が教える。」
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「親父が?」
父親は静かに頷いた。
「そうたい。」
その一言だけで、空気が変わった。
灯真は父親を見つめたまま動けない。
今まで普通の父親だと思っていた。
少し頼りなくて、時々冗談ばかり言う父親。
そんな父親からは想像もできない空気をまとっていた。
美琴も黙ったまま、その様子を見つめている。
父親は二人を見渡し、小さく微笑んだ。
「さて。」
「ここからが本番たい。」
「みこっちゃん。」
「はい。」
「納屋に槍が置いてあったろ。」
「はい。」
「槍ば持ってきてくれ。」
美琴は目を丸くした。
「槍ですか?」
「使ったことありません。」
父親はニヤリと笑った。
「大丈夫たい。」
「持ってみんね。」
「持ったら分かるけん。」
美琴は不思議そうな顔をしながらも、小走りで納屋へ向かっていく。
その姿を見送りながら、灯真は父親に尋ねた。
「何で槍なん?」
父親は境内に置かれた木刀を一本手に取り、ゆっくり構えた。
「灯真。」
「みこっちゃんとお前が習いよる型ば思い出してみ。」
「型?」
「うん。」
父親は木刀を静かに前へ突き出した。
鋭く。
真っすぐに。
そして音もなく引き戻す。
「斬る動きより、片手で前に突き出す動きが多かろうが。」
灯真は頭の中で昨日までの稽古を思い返す。
「……あ。」
確かにそうだった。
木刀を振り下ろすよりも、前へ突き出す動き。
腰を落として踏み込む動き。
腕より足を使う動き。
そんな型ばかりだった。
父親は頷く。
「元々、この型は槍から来とる。」
「だけん、木刀でやっても、本当の意味は分かりにくか。」
「槍ば持った瞬間、『ああ、こういうことか』って体が理解する。」
その時だった。
「持ってきました!」
美琴が両手で一本の槍を抱えて戻ってきた。
思っていた以上に長い。
二メートルを超える木製の柄の先には、稽古用の穂先が付いている。
父親は大きく深呼吸をして美琴に言った。
「構えてみんね。」
「はい。」
少し緊張した様子で槍を握る。
その瞬間だった。
「……あ。」
美琴の表情が変わる。
驚いたように槍を見つめる。
「どうした?」
灯真が尋ねる。
「何か……。」
美琴は槍をゆっくり構えた。
その動きは、初めて持ったとは思えないほど自然だった。
「体が……勝手に動く。」
父親は静かに笑った。
「そうたい。」
「その型は、元々槍のための型やけんな。」
美琴は思わず感心した。
「ほんとや……。」
その横で、灯真が期待に満ちた顔で父親を見る。
「俺は!……俺はなんばすっとよか?」
父親は境内の隅を顎で指した。
「灯真、あれば持ってきて。」
灯真が見ると、そこには古びた提灯が一つ置かれていた。
「……提灯?」
「そうたい。」
「お前は、それば持て。」
「はぁぁ?」
灯真は思わず変な声を上げた。
「まさか提灯?」
「俺だけ装備がおかしかろうが!」
美琴は思わず吹き出す。
父親は笑いもせず続けた。
「それから。」
足元へ視線を落とす。
境内の木の下に落ちていた枝を一本拾い上げた。
四十センチほどの、どこにでもある木の枝。
「これも持っとけ。」
父親は灯真へ放り投げる。
「うわっ!」
慌てて受け止める灯真。
左手には提灯。
右手には木の枝。
しばらく固まったあと、父親を見る。
「……親父。」
「なん?」
「俺だけ遊ばれよらん?」
美琴は堪えきれず笑い出した。
「灯真、似合っとる。」
「笑うな!」
父親もようやく口元を緩めた。
「遊びじゃなか。」
その一言で空気が変わる。
父親は真っすぐ灯真を見つめる。
「その枝は剣になる。」
「提灯は命になる。」
「そして、その二つが、お前ら二人ば守る。」
灯真は笑おうとして、笑えなかった。
父親の目は、本気だった。
「……意味、分からん。」
「今は、それでよか。」
父親はそう言うと、美琴へ向き直る。
「みこっちゃん。」
「はい!」
「槍は相手を倒すためだけの武器じゃなか。」
「近づけんための武器でもある。」
そして灯真を見る。
「灯真。」
「お前は光を絶やすな。」
「どげん時でも、その灯だけは消すな。」
提灯を見つめる灯真。
昼間なのに、その古びた提灯だけが妙に存在感を放って見えた。
父親は二人の前へ歩み出る。
ゆっくり息を吸い込む。
「今日から教えるとは。」
一拍置く。
「人と戦うための剣術じゃなか。」
静かな声が境内に響く。
「闇と向き合うための術たい。」
夏の風が、三人の間を静かに吹き抜けた。
その言葉の意味を、この時の灯真と美琴は、まだ知る由もなかった。
(第19章 : 終わり)




