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黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


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第19章 : 受け継がれるもの



その日の夜。


灯真は、なかなか寝つくことができなかった。


図書館の資料室で聞いた、あの声。


――『真実を知りたければ、会いに来い。』


――『お前たちに残された時間は、もう多くはない。』


目を閉じても、その言葉だけが頭の中を何度も何度も巡り続ける。


あれは幻だったのか。


夢だったのか。


それとも、本当に何かと話をしたのか。


答えは分からない。


ただ一つだけ言えることがあった。


あの声には、不思議と嘘がないように感じられた。


時計を見る。


まだ夜中の三時過ぎ。


「……寝られんな。」


灯真は小さくため息をつき、布団の上で寝返りを打った。


窓の外では、虫の鳴き声だけが静かに響いている。


結局、そのまま眠ることはできなかった。



朝。


顔を洗い、動きやすい服に着替える。


今日はいつもより早く神崎神社へ行こう。


そう思い玄関の扉を開けると、


「おう。」


目の前には父親が立っていた。


ジャージにTシャツ姿。


首にはタオルを掛け、今からランニングにでも出掛けるような格好をしている。


灯真は首をかしげた。


「なんね、その格好。」


父親は少し照れくさそうに笑い、お腹をぽんと叩いた。


「最近、腹の出てきたけん、走りよっと。」


「はぁ?」


灯真は呆れたように父親を見る。


「めずらしかね。」


「まぁな。」


父親は笑いながら靴ひもを締めた。


「今日は、お前と一緒に神崎神社まで行こうと思って。」


「なんしに?」


「お前、剣の練習しよるとやろ。」


「ちょっと見てみようかなと思って。」


灯真は苦笑いを浮かべる。


「親父が見たって、どげんなるもんじゃなか。」


少し小馬鹿にしたような口調だった。


父親は肩をすくめる。


「そげん言うなよ、灯真。」


「はいはい。」


二人は並んで歩き始めた。


朝の住宅街はまだ静かだった。


蝉だけが元気よく鳴いている。


昨日まで胸を締め付けていた恐怖が、朝日を浴びると少しだけ遠ざかる気がした。


けれど、完全には消えていない。


『真実を知りたければ、会いに来い。』


その言葉だけは、まだ胸の奥に重く残っていた。



神崎神社へ着くと、美琴はすでに木刀を手にして境内へ立っていた。


朝日に照らされ、静かに目を閉じている。


灯真たちに気づくと、にこりと笑った。


「おはよう。」


その横で父親が手を上げる。


「おはよう、みこっちゃん。毎日えらかね。」


「おはようございます。」


美琴はぺこりと頭を下げた。


「今日は……おばあちゃんに御用ですか?」


「いや。」


父親は境内を見回した。


「今日は灯真の練習ば見学させてもらおうと思って。」


そして何気なく口にした。


「婆さんもおっとね?」


その瞬間だった。


ビュンッ――!


「え?」


バキッ!


「あいたっ!」


何かが勢いよく飛んできて、父親の頭に見事に命中した。


父親は頭を押さえ、その場にしゃがみ込む。


「げっ……下駄?」


足元には木製の下駄が転がっていた。


「婆さん! 危なかろうが! 怪我したらどげんすっと!」


すると拝殿の方から、ゆっくりと一人の人影が歩いてくる。


鬼のような形相をした、美琴の祖母だった。


「誰が婆さんだって!」


朝の境内に、よく通る声が響く。


「お前に婆さん呼ばわりされる歳じゃなか!」


父親は苦笑いを浮かべながら頭をさする。


「相変わらず手加減なかねぇ……。」


祖母は鼻を鳴らした。


「まだ足りんやったか?」


そう言うと、もう片方の下駄に手を伸ばす。


父親は慌てて両手を前へ出した。


「待て待て待て! ほんなこつ危なか!」


その様子を見ていた灯真は目を丸くする。


「親父……知り合いやったと?」


美琴も驚いたように祖母を見る。


「うちも初めて見た……。」


祖母は二人の様子を見ると、ふっと表情を緩めた。


「昔からの腐れ縁たい。」


父親も照れくさそうに笑う。


「まぁ、色々あってね。」


灯真はますます訳が分からなくなった。


この二人には、自分たちの知らない昔がある。


そんな気がしてならなかった。


祖母はゆっくりと二人の前へ歩み出ると、さっきまでの険しい表情を消し、いつもの厳しくも優しい顔に戻った。


「ほら、二人とも。」


パンッ、と一度手を叩く。


「始めるけん、構えんね!」


「はい!」


灯真と美琴は同時に返事をすると、それぞれ木刀を構えた。


朝の神崎神社。


境内には蝉の鳴き声が響き、木々の隙間から差し込む朝日が二人を照らしている。


祖母が静かに頷いた。


「始め。」


二人はゆっくりと型を始める。


一歩。


また一歩。


木刀が静かに風を切る。


父親は少し離れた場所で腕を組み、一言も発することなく、その様子を真剣な表情で見つめていた。


灯真は昨日までとは違っていた。


木刀を振ることだけを意識していた動きではない。


足の運び。


重心。


呼吸。


一つひとつを確かめるように体が動いていく。


祖母の目が少しずつ大きくなった。


「……。」


最後まで見届けると、思わず口を開いた。


「灯真君。」


灯真は木刀を下ろした。


「はい。」


「昨日までとは……動きがようなっとる!」


「えっ?」


灯真自身が一番驚いた。


言われてみれば、不思議なくらい自然に体が動いていた。


無理に力を入れなくても、昨日より木刀が軽く感じる。


美琴も驚いた顔で灯真を見ている。


「ほんとたい……。」


「昨日とは全然違う。」


祖母は二人を交互に見つめた。


「何かあったとね?」


灯真は美琴と顔を見合わせる。


少しだけ迷ったが、小さく頷いた。


「……話します。」


境内の空気が静かになる。


灯真は図書館で起きた出来事を、一つも隠さず話し始めた。


郷土資料を調べていたこと。


突然、周りの景色が闇へ変わったこと。


聞こえてきた、あの重々しい声。


そして。


『闇の中に現れた炎』


『大蛇と大きな木、それと、燃える石。』


最後に告げられた言葉。


『真実を知りたければ、会いに来い。』


『お前たちに残された時間は、もう多くはない。』


そこまで話し終えると、誰も口を開かなかった。


境内には風が吹き抜ける。


木々が静かに揺れた。


父親は腕を組んだまま空を見上げていた。


何かを考えているようだった。


やがて、小さく息を吐く。


「……あぁ。」


その一言だけだった。


灯真が首をかしげる。


「親父?」


父親は苦笑いを浮かべた。


「呼ばれたか。」


「……え?」


「何で灯真と、みこっちゃんやろかね。」


灯真も美琴も固まる。


「親父……。」


灯真がゆっくり近づく。


「知っとると?」


父親は少しだけ考え、首を横に振った。


「全部じゃなか。」


「ばってん、全く知らん話でもなか。」


美琴も思わず身を乗り出す。


「どういう意味ですか?」


父親は答えなかった。


ただ遠くの山並みを見つめている。


その横で祖母が静かに頷いた。


「……しょんなかね。」


祖母は父親を見る。


父親も静かに頷き返した。


「ちゃんとした剣術ば教えるか。」


その言葉に灯真は目を丸くした。


「え?」


「ちゃんとした……剣術?」


父親が灯真の前まで歩いてくる。


その目は、さっきまで冗談を言っていた人とはまるで違っていた。


真っ直ぐで、鋭い。


「灯真。」


「……はい。」


「今日からは、俺が教える。」


「……は?」


思わず間の抜けた声が漏れる。


「親父が?」


父親は静かに頷いた。


「そうたい。」


その一言だけで、空気が変わった。


灯真は父親を見つめたまま動けない。


今まで普通の父親だと思っていた。


少し頼りなくて、時々冗談ばかり言う父親。


そんな父親からは想像もできない空気をまとっていた。


美琴も黙ったまま、その様子を見つめている。


父親は二人を見渡し、小さく微笑んだ。


「さて。」


「ここからが本番たい。」


「みこっちゃん。」


「はい。」


「納屋に槍が置いてあったろ。」


「はい。」


「槍ば持ってきてくれ。」


美琴は目を丸くした。


「槍ですか?」


「使ったことありません。」


父親はニヤリと笑った。


「大丈夫たい。」


「持ってみんね。」


「持ったら分かるけん。」


美琴は不思議そうな顔をしながらも、小走りで納屋へ向かっていく。


その姿を見送りながら、灯真は父親に尋ねた。


「何で槍なん?」


父親は境内に置かれた木刀を一本手に取り、ゆっくり構えた。


「灯真。」


「みこっちゃんとお前が習いよる型ば思い出してみ。」


「型?」


「うん。」


父親は木刀を静かに前へ突き出した。


鋭く。


真っすぐに。


そして音もなく引き戻す。


「斬る動きより、片手で前に突き出す動きが多かろうが。」


灯真は頭の中で昨日までの稽古を思い返す。


「……あ。」


確かにそうだった。


木刀を振り下ろすよりも、前へ突き出す動き。


腰を落として踏み込む動き。


腕より足を使う動き。


そんな型ばかりだった。


父親は頷く。


「元々、この型は槍から来とる。」


「だけん、木刀でやっても、本当の意味は分かりにくか。」


「槍ば持った瞬間、『ああ、こういうことか』って体が理解する。」


その時だった。


「持ってきました!」


美琴が両手で一本の槍を抱えて戻ってきた。


思っていた以上に長い。


二メートルを超える木製の柄の先には、稽古用の穂先が付いている。


父親は大きく深呼吸をして美琴に言った。


「構えてみんね。」


「はい。」


少し緊張した様子で槍を握る。


その瞬間だった。


「……あ。」


美琴の表情が変わる。


驚いたように槍を見つめる。


「どうした?」


灯真が尋ねる。


「何か……。」


美琴は槍をゆっくり構えた。


その動きは、初めて持ったとは思えないほど自然だった。


「体が……勝手に動く。」


父親は静かに笑った。


「そうたい。」


「その型は、元々槍のための型やけんな。」


美琴は思わず感心した。


「ほんとや……。」


その横で、灯真が期待に満ちた顔で父親を見る。


「俺は!……俺はなんばすっとよか?」


父親は境内の隅を顎で指した。


「灯真、あれば持ってきて。」


灯真が見ると、そこには古びた提灯が一つ置かれていた。


「……提灯?」


「そうたい。」


「お前は、それば持て。」


「はぁぁ?」


灯真は思わず変な声を上げた。


「まさか提灯?」


「俺だけ装備がおかしかろうが!」


美琴は思わず吹き出す。


父親は笑いもせず続けた。


「それから。」


足元へ視線を落とす。


境内の木の下に落ちていた枝を一本拾い上げた。


四十センチほどの、どこにでもある木の枝。


「これも持っとけ。」


父親は灯真へ放り投げる。


「うわっ!」


慌てて受け止める灯真。


左手には提灯。


右手には木の枝。


しばらく固まったあと、父親を見る。


「……親父。」


「なん?」


「俺だけ遊ばれよらん?」


美琴は堪えきれず笑い出した。


「灯真、似合っとる。」


「笑うな!」


父親もようやく口元を緩めた。


「遊びじゃなか。」


その一言で空気が変わる。


父親は真っすぐ灯真を見つめる。


「その枝は剣になる。」


「提灯は命になる。」


「そして、その二つが、お前ら二人ば守る。」


灯真は笑おうとして、笑えなかった。


父親の目は、本気だった。


「……意味、分からん。」


「今は、それでよか。」


父親はそう言うと、美琴へ向き直る。


「みこっちゃん。」


「はい!」


「槍は相手を倒すためだけの武器じゃなか。」


「近づけんための武器でもある。」


そして灯真を見る。


「灯真。」


「お前は光を絶やすな。」


「どげん時でも、その灯だけは消すな。」


提灯を見つめる灯真。


昼間なのに、その古びた提灯だけが妙に存在感を放って見えた。


父親は二人の前へ歩み出る。


ゆっくり息を吸い込む。


「今日から教えるとは。」


一拍置く。


「人と戦うための剣術じゃなか。」


静かな声が境内に響く。


「闇と向き合うための術たい。」


夏の風が、三人の間を静かに吹き抜けた。


その言葉の意味を、この時の灯真と美琴は、まだ知る由もなかった。



(第19章 : 終わり)




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