表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒坑日記 ― 三池大迷宮譚 ―  作者: 8時20分のたれまゆ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/21

第15章:日常の光、決意の朝



「どげんしたと、急に?」


木刀を持ったまま、美琴が目を丸くした。


朝の境内には、まだ夏の強い日差しは届いていない。


木々の間を抜ける風だけが、昨夜の悪夢が嘘だったかのように静かに吹いていた。


灯真は少しだけ照れくさそうに頭をかいた。


「昨日は……何もできんやったけん」


その言葉に、美琴の表情がわずかに曇る。


三川坑の斜坑。


あの闇。


あの圧倒的な何か。


二人とも、忘れようとしても忘れられない。


「だけんて、急に強くはならんよ」


「そら分かっとる!」


灯真は少しだけ声を大きくした。


「ばってん、何もしきらんよりましたい」


その目には、昨夜までにはなかった強い決意が宿っていた。


美琴はしばらく灯真の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。


「……分かった。ばってん、怪我したら知らんけんね」


そう言って、境内の隅に立てかけてあった木刀を一本、灯真に差し出した。



ブン!


ブン!


ブン!


朝の静かな境内に、木刀の風切り音が響き渡る。


しかし。


「違う!」


突然、鋭い声が飛んだ。


灯真は思わず体を強張らせた。


振り返ると、そこにはいつの間にか美琴の祖母が立っていた。


普段の穏やかな笑顔は消えている。


神主としてでも、祖母としてでもない。


長い年月を積み重ねてきた、ひとりの修行者の顔だった。


「力で叩きつけるんじゃなか!」


その声は、朝の空気を切り裂くほど鋭かった。


「力はいらんとよ」


祖母は灯真の腕を軽く押さえた。


「肘を締める」


次に、肩を叩く。


「木刀は体に沿わせる」


そして、一歩前に出た。


「腕で斬るんじゃなか」


静かに、一歩。


「足で斬ると」


その動きは、驚くほど滑らかだった。


まるで木刀そのものが、意思を持って動いているように見えた。


「木刀は意識せんでよか! それより足の運びに注意せんね!」


「は、はい!」


灯真は慌てて構え直した。

再び。


ブン!


ブン!


今度はさっきよりもゆっくり。


ぎこちないながらも、少しだけ形になっている。


しばらく見ていた祖母は、ふっと口元を緩めた。


「初めてにしては、灯真君は筋がよかよ」


「えっ、本当ですか!?」


灯真の顔が一気に明るくなる。


祖母はうんうんと頷いた。


「美琴ちゃんなんか、初めの頃は、ただブンブン振り回しよるだけやったけん」


灯真は汗だくの顔のまま、勝ち誇ったように美琴を見た。


美琴は一瞬ぽかんとしたあと、


「ぶっ……!」


堪えきれずに吹き出した。


「おばあちゃん! それ、私が五歳の時の話やん!」


「事実たい」


「五歳と高校生を比べんでよ!」


境内に、久しぶりの笑い声が響いた。


昨夜の恐怖が、ほんの少しだけ遠くなる。


その時だった。


「灯真君」


祖母がふと真面目な顔になった。


「今日は何か用事があっとね?」


「え? いえ、今日は何もなかですけど」


「なら、ちょっと手伝わんね」


灯真は首を傾げた。


「何ばですか?」


祖母はにっこりと笑った。


「朝と昼ご飯は出すよ」


その瞬間。


「何からしましょうか!」


灯真は即答した。


美琴が、また吹き出した。


「ほんと灯真は……」


呆れたような顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。


「朝ご飯食べてから、本殿の片付けば手伝ってね」


「はい! 大丈夫です! 任せてください!」


灯真が勢いよく返事をすると、美琴が木刀を肩に担いだまま振り返った。


「灯真。その前に、そろそろラジオ体操の時間やけん」


「ラジオ体操?」


「うん」


美琴は、いたずらっぽく笑った。


「まずはこっちば手伝って」


その瞬間。


神社の境内の奥から、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。


「――おはようございまーす!」


夏休みの朝が、始まろうとしていた。


「あっ!」


一人の子が僕を指差す。


「昨日のお兄ちゃん!」


すると、あっという間に子供たちが僕の周りを囲んだ。


「お兄ちゃん来とる!」


「今日は体操すると!?」


「昨日すごかった!」


僕は苦笑した。


「灯真は人気者やね」


美琴が、どこか嬉そうに笑っている。


ラジオ体操の音楽が流れ始めた。


僕は大きく深呼吸する。


そして。


キレッキレのラジオ体操を披

露した。


腕を伸ばす。


身体を回す。


跳ぶ。


伸ばす。


子供たちも、つられるように元気いっぱい体を動かしていく。


昨日、死ぬほど怖い思いをしたなんて、嘘みたいだった。


「お兄ちゃん! また明日ねー!」


帰っていく子供たちが、大きく手を振った。


僕も手を振り返した。



「灯真君、先ずは朝ごはんにしようか!」


振り返ると、おばあさんが手招きしてる。


居間に入った瞬間、思わず声が漏れた。


「……すご」


食卓の上には、今日もこれぞ日本の朝食の見本と言うべき料理が並んでいた。


炊き立ての白ご飯。


焼き魚。


卵焼き。


味噌汁。


漬物。


小鉢がいくつも並び、湯気と一緒に食欲をそそる香りが漂っている。


「美琴ちゃんたら」


おばあさんが、意地悪そうな顔で笑った。


「私はこげん食べきらんとに、今日も朝早うからいっぱい作っとったとよ」


「おばあちゃん!」


美琴が耳を真っ赤にした。


慌てて後ろを向き、お茶を注ぎ始める。


「よかやんね……おばあちゃん意地悪かぁ……」


聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いていた。


僕は思わず笑った。


昨日まで、世界が終わるかもしれないと思っていた。


でも今は。


炊き立てのご飯の匂いがして。


美琴が照れていて。


おばあさんが笑っている。


そんな当たり前の時間が、どうしようもなく幸せに思えた。



朝ごはんを食べ終わると、おばあさんが本殿に案内してくれた。


「こればあっちに、あればこっちの棚に、その棚の資料ばあっちの部屋に運んで」


「おばあさん、容赦なか……」


美琴も後片付けを終えてやってきた。


「おばあちゃん、灯真はさぼっとらんね?」


「オイオイ美琴さん、見て分かろうもん」


汗だくの灯真が立っていた。


美琴が意地悪な顔で、


「重かとば運ぶなら、灯真が居る今のうちばい」


美琴が楽しそうにしてる。


何だろう?……それだけで僕も楽しい。


「灯真君、美琴ちゃん、こっちおいで」


奥からおばあさんの声がした。


おばあさんは、御神体が祀ってある御扉みとびらの前に居た。


「美琴ちゃんにもまだ見せたことなかったたいね、御神体」


美琴がびっくりした顔をして言った。


「人に見せたらでけんとじゃなかと?」


おばあさんは笑いながら、


「うんにゃ、時期があるとたい!……灯真君も一緒に拝んで行かんね」


おばあさんが扉に手をかける。


僕と美琴はドキドキしながら食い入るように覗き込む。


御神体は、薄らと青白い光に包まれてた。


石?


石炭?


木?


焦げてる?


「おばあさん、これは?」


「先ずは手を合わせんね!」


おばあさんは険しい顔でそう言った。


「はい」


美琴と二人真剣に手を合わせる。


おばあさんは語り出した。


「むかしむかし、まだ大牟田と呼ばれてないずっと昔、そこには天に轟く巨木があった、」


「朝日が昇ると巨木の影が佐賀の多良岳や島原、夕日は熊本の阿蘇山まで覆った、」


「人々はその巨木に手を合わせ祈った、祈りに答えるようにその巨木は人々に恵みをもたらした」


沈黙の後。


「その巨木の欠片がこの御神体たい」


青白く光を放つ御神体は、生きてるようで、意思があるようで不思議に思えた。


でも、何故か光を放ってる事は当たり前のように感じた。


「美琴、御神体の真ん中!手首の紋様と一緒じゃなか?」


「あっ!」


美琴も驚きを隠せない。


おばあさんは、ゆっくりと御扉を閉めた。


そして、もう一度静かに御神体へ手を合わせる。


その姿は先ほどまでとは違い、どこか寂しげだった。


やがて振り返ると、僕たちを見つめながら、静かに語り始めた。


「この話には、まだ続きがあるとたい」


本殿の中に、蝉の声だけが遠く響いている。


「最初の頃、人々は巨木様に手を合わせとった。雨が降れば感謝し、実りがあれば感謝し、命が救われれば感謝しよった」


おばあさんは、一度言葉を切った。


「ばってん、人の心は少しずつ変わってしもうた」


その声は、とても静かだった。


「巨木様が与えてくれる恵みには限りがあると思うたとか、それとも自分たちだけのものにしたかったとか……理由はもう誰にも分からん」


おばあさんは、御扉をそっと見つめる。


「人は、その恵みを巡って争い始めたとよ」


「奪われるくらいなら奪う。守るために戦う。そうして争いは争いを呼び、いつしか誰も祈らんごとなった」


本殿の空気が、少しだけ重くなる。


「巨木様は、それでも人を信じ続けた」


「争いが終わる日を、ずっと待っとった」


「ばってん……」


おばあさんは、小さく目を伏せた。


「誰も争うことをやめんやった」


長い沈黙が流れる。


「悲しかったんやろうね」


「人の欲も、怒りも、憎しみも……全部その身に受け止め続けた巨木様は、少しずつ少しずつ、その体を黒く染めていった」


灯真は思わず御扉へ目を向ける。


あの青白い光を放つ御神体。


焦げたようにも見えた表面が、急に違う意味を持って見えた。


「あれは焼けた色じゃなか」


おばあさんは静かに言った。


「人の悲しみを背負うた色たい」


美琴も息を呑んだまま言葉が出ない。


「それでも人は争いをやめんやった」


「とうとう巨木様は、自ら決めた」


おばあさんはゆっくりと、有明海の方角へ目を向けた。


「もう、このままここに居れば、人は争い続けるだけや……そう思うたんやろう」


「そして巨木様は、自らの意志で、有明海の方へと倒れた」


その言葉が、本殿の静寂にゆっくりと溶けていく。


僕は胸の奥が締めつけられるような気持ちになった。


自分を守るためではない。


人を止めるために、自ら倒れることを選んだ存在。


そんなものが、本当にいたのだろうか。


おばあさんは静かに微笑んだ。


「それが、この神社に今も伝わる、巨木様の昔話たい」


おばあさんは、有明海の方角へ静かに目を向けたまま続けた。


「ばってん、この神話はここで終わりやなか」


少しの沈黙の後、おばあさんは静かに口を開いた。


「巨木様は、そのまま長い長い眠りにつかれた」


「幾百年、幾千年という時が流れ、その上には土が積もり、草が生え、森ができた」


「やがて人が集まり、村ができ、町ができる」


おばあさんは、ゆっくりと足元を見つめた。


「人々は気づかんまま、ずっと巨木様の上で暮らし始めたとたい」


僕は思わず息をのむ。


「それが……今の大牟田たい」


静かな声だった。


けれど、その言葉には不思議な重みがあった。


「巨木様は倒れてもなお、人々を見捨てんやった」


「その身を大地に変え、その恵みを地の底に残し、人々が生きていけるよう支え続けた」


おばあさんは御神体へもう一度目を向ける。


「今でも、その恵みは人々に与えられとる」


「炭となり、火となり、人の暮らしを照らし、日本を支えた」


「誰も気づかんでも、巨木様は今もこの土地を見守り続けとらす」


本殿は静まり返っていた。


僕も美琴も、言葉が出なかった。


炭鉱。


石炭。


大牟田。


そのすべてが、ただの歴史ではなく、一本の巨木の物語として胸の中につながっていく気がした。



(第15章 終わり)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ