第15章:日常の光、決意の朝
「どげんしたと、急に?」
木刀を持ったまま、美琴が目を丸くした。
朝の境内には、まだ夏の強い日差しは届いていない。
木々の間を抜ける風だけが、昨夜の悪夢が嘘だったかのように静かに吹いていた。
灯真は少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「昨日は……何もできんやったけん」
その言葉に、美琴の表情がわずかに曇る。
三川坑の斜坑。
あの闇。
あの圧倒的な何か。
二人とも、忘れようとしても忘れられない。
「だけんて、急に強くはならんよ」
「そら分かっとる!」
灯真は少しだけ声を大きくした。
「ばってん、何もしきらんよりましたい」
その目には、昨夜までにはなかった強い決意が宿っていた。
美琴はしばらく灯真の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……分かった。ばってん、怪我したら知らんけんね」
そう言って、境内の隅に立てかけてあった木刀を一本、灯真に差し出した。
◇
ブン!
ブン!
ブン!
朝の静かな境内に、木刀の風切り音が響き渡る。
しかし。
「違う!」
突然、鋭い声が飛んだ。
灯真は思わず体を強張らせた。
振り返ると、そこにはいつの間にか美琴の祖母が立っていた。
普段の穏やかな笑顔は消えている。
神主としてでも、祖母としてでもない。
長い年月を積み重ねてきた、ひとりの修行者の顔だった。
「力で叩きつけるんじゃなか!」
その声は、朝の空気を切り裂くほど鋭かった。
「力はいらんとよ」
祖母は灯真の腕を軽く押さえた。
「肘を締める」
次に、肩を叩く。
「木刀は体に沿わせる」
そして、一歩前に出た。
「腕で斬るんじゃなか」
静かに、一歩。
「足で斬ると」
その動きは、驚くほど滑らかだった。
まるで木刀そのものが、意思を持って動いているように見えた。
「木刀は意識せんでよか! それより足の運びに注意せんね!」
「は、はい!」
灯真は慌てて構え直した。
再び。
ブン!
ブン!
今度はさっきよりもゆっくり。
ぎこちないながらも、少しだけ形になっている。
しばらく見ていた祖母は、ふっと口元を緩めた。
「初めてにしては、灯真君は筋がよかよ」
「えっ、本当ですか!?」
灯真の顔が一気に明るくなる。
祖母はうんうんと頷いた。
「美琴ちゃんなんか、初めの頃は、ただブンブン振り回しよるだけやったけん」
灯真は汗だくの顔のまま、勝ち誇ったように美琴を見た。
美琴は一瞬ぽかんとしたあと、
「ぶっ……!」
堪えきれずに吹き出した。
「おばあちゃん! それ、私が五歳の時の話やん!」
「事実たい」
「五歳と高校生を比べんでよ!」
境内に、久しぶりの笑い声が響いた。
昨夜の恐怖が、ほんの少しだけ遠くなる。
その時だった。
「灯真君」
祖母がふと真面目な顔になった。
「今日は何か用事があっとね?」
「え? いえ、今日は何もなかですけど」
「なら、ちょっと手伝わんね」
灯真は首を傾げた。
「何ばですか?」
祖母はにっこりと笑った。
「朝と昼ご飯は出すよ」
その瞬間。
「何からしましょうか!」
灯真は即答した。
美琴が、また吹き出した。
「ほんと灯真は……」
呆れたような顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。
「朝ご飯食べてから、本殿の片付けば手伝ってね」
「はい! 大丈夫です! 任せてください!」
灯真が勢いよく返事をすると、美琴が木刀を肩に担いだまま振り返った。
「灯真。その前に、そろそろラジオ体操の時間やけん」
「ラジオ体操?」
「うん」
美琴は、いたずらっぽく笑った。
「まずはこっちば手伝って」
その瞬間。
神社の境内の奥から、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。
「――おはようございまーす!」
夏休みの朝が、始まろうとしていた。
「あっ!」
一人の子が僕を指差す。
「昨日のお兄ちゃん!」
すると、あっという間に子供たちが僕の周りを囲んだ。
「お兄ちゃん来とる!」
「今日は体操すると!?」
「昨日すごかった!」
僕は苦笑した。
「灯真は人気者やね」
美琴が、どこか嬉そうに笑っている。
ラジオ体操の音楽が流れ始めた。
僕は大きく深呼吸する。
そして。
キレッキレのラジオ体操を披
露した。
腕を伸ばす。
身体を回す。
跳ぶ。
伸ばす。
子供たちも、つられるように元気いっぱい体を動かしていく。
昨日、死ぬほど怖い思いをしたなんて、嘘みたいだった。
「お兄ちゃん! また明日ねー!」
帰っていく子供たちが、大きく手を振った。
僕も手を振り返した。
◇
「灯真君、先ずは朝ごはんにしようか!」
振り返ると、おばあさんが手招きしてる。
居間に入った瞬間、思わず声が漏れた。
「……すご」
食卓の上には、今日もこれぞ日本の朝食の見本と言うべき料理が並んでいた。
炊き立ての白ご飯。
焼き魚。
卵焼き。
味噌汁。
漬物。
小鉢がいくつも並び、湯気と一緒に食欲をそそる香りが漂っている。
「美琴ちゃんたら」
おばあさんが、意地悪そうな顔で笑った。
「私はこげん食べきらんとに、今日も朝早うからいっぱい作っとったとよ」
「おばあちゃん!」
美琴が耳を真っ赤にした。
慌てて後ろを向き、お茶を注ぎ始める。
「よかやんね……おばあちゃん意地悪かぁ……」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いていた。
僕は思わず笑った。
昨日まで、世界が終わるかもしれないと思っていた。
でも今は。
炊き立てのご飯の匂いがして。
美琴が照れていて。
おばあさんが笑っている。
そんな当たり前の時間が、どうしようもなく幸せに思えた。
◇
朝ごはんを食べ終わると、おばあさんが本殿に案内してくれた。
「こればあっちに、あればこっちの棚に、その棚の資料ばあっちの部屋に運んで」
「おばあさん、容赦なか……」
美琴も後片付けを終えてやってきた。
「おばあちゃん、灯真はさぼっとらんね?」
「オイオイ美琴さん、見て分かろうもん」
汗だくの灯真が立っていた。
美琴が意地悪な顔で、
「重かとば運ぶなら、灯真が居る今のうちばい」
美琴が楽しそうにしてる。
何だろう?……それだけで僕も楽しい。
「灯真君、美琴ちゃん、こっちおいで」
奥からおばあさんの声がした。
おばあさんは、御神体が祀ってある御扉の前に居た。
「美琴ちゃんにもまだ見せたことなかったたいね、御神体」
美琴がびっくりした顔をして言った。
「人に見せたらでけんとじゃなかと?」
おばあさんは笑いながら、
「うんにゃ、時期があるとたい!……灯真君も一緒に拝んで行かんね」
おばあさんが扉に手をかける。
僕と美琴はドキドキしながら食い入るように覗き込む。
御神体は、薄らと青白い光に包まれてた。
石?
石炭?
木?
焦げてる?
「おばあさん、これは?」
「先ずは手を合わせんね!」
おばあさんは険しい顔でそう言った。
「はい」
美琴と二人真剣に手を合わせる。
おばあさんは語り出した。
「むかしむかし、まだ大牟田と呼ばれてないずっと昔、そこには天に轟く巨木があった、」
「朝日が昇ると巨木の影が佐賀の多良岳や島原、夕日は熊本の阿蘇山まで覆った、」
「人々はその巨木に手を合わせ祈った、祈りに答えるようにその巨木は人々に恵みをもたらした」
沈黙の後。
「その巨木の欠片がこの御神体たい」
青白く光を放つ御神体は、生きてるようで、意思があるようで不思議に思えた。
でも、何故か光を放ってる事は当たり前のように感じた。
「美琴、御神体の真ん中!手首の紋様と一緒じゃなか?」
「あっ!」
美琴も驚きを隠せない。
おばあさんは、ゆっくりと御扉を閉めた。
そして、もう一度静かに御神体へ手を合わせる。
その姿は先ほどまでとは違い、どこか寂しげだった。
やがて振り返ると、僕たちを見つめながら、静かに語り始めた。
「この話には、まだ続きがあるとたい」
本殿の中に、蝉の声だけが遠く響いている。
「最初の頃、人々は巨木様に手を合わせとった。雨が降れば感謝し、実りがあれば感謝し、命が救われれば感謝しよった」
おばあさんは、一度言葉を切った。
「ばってん、人の心は少しずつ変わってしもうた」
その声は、とても静かだった。
「巨木様が与えてくれる恵みには限りがあると思うたとか、それとも自分たちだけのものにしたかったとか……理由はもう誰にも分からん」
おばあさんは、御扉をそっと見つめる。
「人は、その恵みを巡って争い始めたとよ」
「奪われるくらいなら奪う。守るために戦う。そうして争いは争いを呼び、いつしか誰も祈らんごとなった」
本殿の空気が、少しだけ重くなる。
「巨木様は、それでも人を信じ続けた」
「争いが終わる日を、ずっと待っとった」
「ばってん……」
おばあさんは、小さく目を伏せた。
「誰も争うことをやめんやった」
長い沈黙が流れる。
「悲しかったんやろうね」
「人の欲も、怒りも、憎しみも……全部その身に受け止め続けた巨木様は、少しずつ少しずつ、その体を黒く染めていった」
灯真は思わず御扉へ目を向ける。
あの青白い光を放つ御神体。
焦げたようにも見えた表面が、急に違う意味を持って見えた。
「あれは焼けた色じゃなか」
おばあさんは静かに言った。
「人の悲しみを背負うた色たい」
美琴も息を呑んだまま言葉が出ない。
「それでも人は争いをやめんやった」
「とうとう巨木様は、自ら決めた」
おばあさんはゆっくりと、有明海の方角へ目を向けた。
「もう、このままここに居れば、人は争い続けるだけや……そう思うたんやろう」
「そして巨木様は、自らの意志で、有明海の方へと倒れた」
その言葉が、本殿の静寂にゆっくりと溶けていく。
僕は胸の奥が締めつけられるような気持ちになった。
自分を守るためではない。
人を止めるために、自ら倒れることを選んだ存在。
そんなものが、本当にいたのだろうか。
おばあさんは静かに微笑んだ。
「それが、この神社に今も伝わる、巨木様の昔話たい」
おばあさんは、有明海の方角へ静かに目を向けたまま続けた。
「ばってん、この神話はここで終わりやなか」
少しの沈黙の後、おばあさんは静かに口を開いた。
「巨木様は、そのまま長い長い眠りにつかれた」
「幾百年、幾千年という時が流れ、その上には土が積もり、草が生え、森ができた」
「やがて人が集まり、村ができ、町ができる」
おばあさんは、ゆっくりと足元を見つめた。
「人々は気づかんまま、ずっと巨木様の上で暮らし始めたとたい」
僕は思わず息をのむ。
「それが……今の大牟田たい」
静かな声だった。
けれど、その言葉には不思議な重みがあった。
「巨木様は倒れてもなお、人々を見捨てんやった」
「その身を大地に変え、その恵みを地の底に残し、人々が生きていけるよう支え続けた」
おばあさんは御神体へもう一度目を向ける。
「今でも、その恵みは人々に与えられとる」
「炭となり、火となり、人の暮らしを照らし、日本を支えた」
「誰も気づかんでも、巨木様は今もこの土地を見守り続けとらす」
本殿は静まり返っていた。
僕も美琴も、言葉が出なかった。
炭鉱。
石炭。
大牟田。
そのすべてが、ただの歴史ではなく、一本の巨木の物語として胸の中につながっていく気がした。
(第15章 終わり)




