第14章 : 闇の底から
僕たちは、一歩も動けなかった。
三川坑の斜坑の奥。
吹き上がってくる凍えるような風の向こう側に、何かがいる。
いや――「いる」という言葉さえ、正確ではないかもしれない。
存在している、という感覚でもない。
ただ、そこに「ある」。
巨大な、圧倒的な「何か」が。
「……灯真」
美琴の声が、激しく震えていた。
「見える?」
「……見えてる」
見えている。
でも、何が見えているのか、うまく言葉にできなかった。
闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる輪郭。
長い。
とにかく、異様に長い何か。
その先がどこまで続いているのか、光が届く範囲では到底分からない。
(……大きい)
脳内の安全灯センサーが、珍しく沈黙していた。
いつもなら視界の端にうるさいほど表示される数値も、警告文も、今は何も出てこない。
処理しきれないほどの「未知」を前にして、システムそのものが完全に固まっているかのようだった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
あれは、生きている。
確実に、生きている。
呼吸している。
鼓動している。
そして――こちらを認識している。
ゴォォォ……。
地の底から吹き上がる風が、斜坑の奥から這い出てきた。
骨まで凍りつかせるような、冷たい空気。
それなのに、どこか腐葉土のような、有機的で生々しい匂いが混じっていた。
「……臭う」
美琴が小さく呟いた。
「石炭の匂いじゃない。もっと……古い、匂い」
そうだ。
もっとずっと昔から、この街の地の底に溜まり続けてきた、何かの匂いだ。
闇の奥で、何かが動いた。
ゆっくりと。
ほんの少しだけ。
それだけで、斜坑全体の空気が一変した。
圧迫感が増す。
息が詰まる。
巨大な何かが、こちらに意識を向けた瞬間のような、圧倒的な「視られている」感覚が押し寄せてくる。
その瞬間。
美琴の左手首の紋様が、音もなく赤黒く浮かび上がった。
「っ……熱か……!」
「美琴!」
美琴は、紋様を押さえたまま、信じられないものを見るように闇の奥を見つめていた。
「もう一人おる」
坑口近くに、白い影が浮かびあがる。
そして。
震える唇が、ゆっくりと動いた。
「……大蛇の……化身……」
「え……?」
僕は思わず、美琴を見た。
けれど彼女自身も、自分が何を言ったのか分からないという顔をしていた。
「なんで……」
「なんで、私……分かったと……?」
その瞬間。
僕の脳裏に、あの祭りの日の光景がフラッシュバックした。
大蛇山。
炎。
太鼓。
人々の熱狂。
そして。
あの女。
暗闇の中で、こちらを見て笑っていた。
耳元まで裂けた口。
人間とは思えない、あの笑み。
「あ……」
全身の血が凍りつく。
「あれは……あの時の……!」
間違いない。
あの祭りの日に見た、あの存在。
その時だった。
ぽつ。
僕の頬に、冷たい雫が落ちた。
ぽつ。
ぽつ。
そして。
ザアアアアアアア――ッ!!
一瞬にして、世界が激しい雨の壁に飲み込まれた。
「うわっ!」
視界が真っ白になる。
真夏の夕立なんて生易しいものじゃない。
まるで空そのものが崩れ落ちてきたかのような豪雨。
風が狂ったように吹き荒れる。
大粒の雨が地面を叩きつける。
バリィィィィン――ッ!!
鼓膜を突き破るような轟音。
落雷が、すぐ近くの鉄骨に落ちた。
地面が、大きく揺れる。
反射的に、僕は美琴の腕を掴んだ。
「美琴!」
「灯真!」
二人同時に、もう一度斜坑の方を振り返る。
雨。
雨。
激しい雨。
一メートル先すら見えない。
耳鳴りと雨音だけが世界を埋め尽くしていた。
そして――。
あんなに激しかった雨が、嘘のように止んだ。
そこには。
灰色の、無機質なコンクリートの壁だけがあった。
安全のために、完全に封鎖された、いつもの三川坑の入り口。
さっきまで確かに感じていた、あの圧倒的な存在感も。
底なしの闇も。
凍えるような冷気も。
まるで最初から存在していなかったかのように、綺麗に消え去っていた。
「……消えた、のか?」
呆然と呟きながら、僕は掴んでいた美琴の腕をゆっくりと放した。
雨雲が流れていく。
雲の切れ間から、真夏の太陽が顔を覗かせた。
濡れたアスファルトから、白い湯気が立ち上っている。
遠くでは、蝉が鳴き始めていた。
「……灯真」
「なん」
「同じもの、見たっちゃろ」
僕は黙って頷いた。
夢じゃない。
幻覚でもない。
僕たちは、同じものを見た。
それが、何より恐ろしかった。
◇
帰りのバスの中。
僕たちは、ほとんど言葉を交わさなかった。
窓の外を、大牟田の街が流れていく。
コンビニ。
スーパー。
住宅街。
交差点。
どこにでもある、夏の日常。
けれど。
僕たちがさっきまで見ていたものは、そのどこにも存在していなかった。
美琴は窓際の席で、自分の左手首を見つめていた。
紋様は、元の薄さに戻っている。
でも。
彼女の瞳に宿った恐怖だけは、消えていなかった。
「……灯真」
「なん」
「アレ……何やったと」
「わからん」
「昔から、大牟田におったとやろか」
「わからん」
「私たちが……何とかせんなんとやろか」
「……わからん」
結局。
僕は、その言葉しか返せなかった。
分からない。
本当に、何も分からない。
だけど。
あれがいたことだけは、確かだった。
「……帰ろう」
バスを降りる時。
それが、僕たちが交わした最後の言葉だった。
◇
その夜。
僕は一睡もできなかった。
目を閉じるたびに、あの闇が現れる。
あの巨大な何かが。
あの、僕たちを見つめていた存在が。
そして。
美琴の言った言葉。
――大蛇の化身。
なぜ、美琴は知っていたのか。
なぜ、僕たちだったのか。
答えは、どこにもなかった。
◇
翌朝。
まだ太陽が山の向こうから顔を出したばかりの時間。
僕は、一人で神崎神社の石段を登っていた。
朝露に濡れた木々の匂い。
涼しい風。
蝉の声も、まだ少ない。
気づけば、ここに来ていた。
境内に入った瞬間。
ヒュッ。
空気を切り裂く音が聞こえた。
ヒュッ。
ヒュッ。
拝殿の前。
朝日に照らされた白い砂の上で、美琴が木刀を振っていた。
白い稽古着姿。
長い黒髪を後ろで束ね、真剣な表情で舞うように木刀を操っている。
その姿は、美しいというより。
どこか、神聖だった。
まるで。
誰かに教えられた動きではなく。
ずっと昔から、その身体が覚えていた動きを思い出しているかのように。
ヒュッ――。
最後の一振りが終わる。
美琴は息を吐き、ようやく僕の存在に気づいた。
「……灯真?」
驚いたように目を丸くする。
「どげんしたと。こんな朝早く」
僕は少しだけ迷った。
だけど。
昨夜から、ずっと胸の中にあった言葉を、そのまま口にした。
「……なあ、美琴」
「なん?」
僕は、彼女の握っている木刀を見た。
そして。
「俺にも、教えてくれん?」
朝の神社に。
まだ誰も知らない、一つの決意だけが静かに響いていた。
(第14章 終わり)




