EP 13
親友の最後の一押し
「……セリア。ユリウス様は、もうお帰りになったかしら?」
執務室の分厚いマホガニーのデスクの下に身を潜めながら、私は小声で尋ねた。
「はいはい。先ほど、国境の砦へと戻られましたよ。……まったく、何をしているんですか貴女は」
呆れ果てたセリアの声を聞き、私はホッと息を吐き出してデスクの下から這い出した。
王太子と実家が『マグローザ漁船』へとドナドナされてから、辺境領には完全な平和が訪れていた。
ゴルド商会との取引は順調そのもので、ポポロ村との交易による税収も右肩上がり。まさに私が思い描いていた「残業ゼロ、不条理ゼロの超ホワイトなブルーオーシャン」が完成しつつある。
だが、私にはたった一つ、どうにも処理しきれない『重大な案件』が残されていた。
それが、氷の辺境伯・ユリウス様からの、甘すぎる猛アプローチである。
『今日も君は美しいな』
『君が淹れてくれたお茶なら、泥水でも甘露のように感じるだろう』
『無理はしないでくれ。君が倒れたら、私は生きていけない』
最近の彼は、視察に来るたびに息をするように甘い言葉を囁き、私の手を取っては蕩けるような笑顔を向けてくる。
前世で「恋人=仕事の邪魔」と切り捨て、恋愛偏差値が中学生レベルのまま過労死した私にとって、帝国最強のイケメン騎士からのストレートな愛情表現は、致死量を超えた猛毒だった。
顔を合わせるたびに心臓が爆発しそうになり、まともに仕事の話ができなくなってしまうため、最近の私は彼が館に来る気配を察知するや否や、こうしてデスクの下や資料室に隠れてやり過ごすという、領主にあるまじき逃亡生活を送っていたのだ。
「あー……よかった。ユリウス様のあの顔を見ると、頭の中の計算式が全部吹き飛んじゃうのよね。さて、逃げた分の仕事を取り戻さなきゃ!」
私がタローマン製のボールペンを手に取ろうとした、その時。
バシッ!
「痛っ!?」
セリアが容赦なく私の手をはたき、デスクの上にあった書類の山と、エンジェルすまーとふぉん、そしてタローマン製電卓をすべて自分のエプロンの中に回収してしまった。
「ちょ、ちょっとセリア!? 何するのよ、今日中にこの流通計画書を……」
「いい加減にしなさい、この仕事バカ!」
セリアの黄金色の瞳が、ピシャリと私を射抜いた。
普段は私を甘やかしてくれる彼女だが、今日ばかりは本気の説教モードらしい。
「悪徳徴税官を経済で追い詰め、死蟲機の大群を前にしても一歩も引かず、王太子のクーデターすら完全論破した『無敵の悪役令嬢』が……イケメンからお花や甘い言葉を贈られたくらいで、机の下に隠れてるなんて滑稽すぎるわよ!」
「うっ……そ、それは……管轄外というか……」
「リゼ。貴女、自分がどれだけユリウス様に愛されているか、本当に分かってないの?」
セリアはため息をつき、私の両肩をガシッと掴んだ。
「あの氷の辺境伯様はね、リゼのことしか見てないわ。貴女が泥だらけになっても、徹夜で目を腫らしていても、世界で一番尊い宝石を見るような目で貴女を見つめているの。……貴女も、彼のことが嫌いじゃないんでしょう?」
「き、嫌いなわけないじゃない! むしろ……」
好きだ。
不器用で、義務感の塊だった彼が、私のために感情を爆発させてくれたこと。
絶対的な武力で、私の背中を守ってくれること。
そして何より、私の『有能さ』や『努力』を、誰よりも理解し、敬意を払ってくれること。
前世からずっと報われなかった私の働きを、一番嬉しい形で認めてくれた彼を、好きにならないわけがない。
「だったら、逃げ回ってないでちゃんと向き合いなさい! 貴女がウジウジしている間に、私が食べちゃうわよ?(冗談だけど)」
「ダメぇっ!! ユリウス様は私のパートナーだもん!!」
「ほら、言えるじゃない」
セリアはニヤリと笑うと、私の体を軽々と抱え上げた。神狼の筋力の前には、私の抵抗など無意味だ。
「さ、強制連行よ。仕事着なんか脱いで、今日くらい女の子らしい服を着なさい。最高の舞台は、私がセッティングしてあげたから」
「え? 舞台? ちょっと待ってセリア、心の準備が……!」
セリアに引きずられるようにして連れてこられたのは、館の裏庭にある、最近新設されたばかりの美しいテラスだった。
秋の柔らかな日差しが差し込み、色づいた木々の葉が風に舞っている。
そして、そのテラスのテーブルには、芳醇な香りを漂わせる『ポポロ・コーヒー』のセットと、焼き立てのクッキー。
さらに、向かいの席には――。
「……リゼロッテ。来てくれたんだな」
軍服ではなく、仕立ての良いノーブルな私服に身を包んだユリウス様が、私を見て立ち上がった。
鎧や剣を身につけていない彼は、普段の威圧感が鳴りを潜め、大人の男性としての静かな色気を放っていて、直視するだけで頭がクラクラする。
「え、あ……ユ、ユリウス様!? さっきお帰りになったのでは……!?」
「セリア嬢に、『裏庭で待機していろ。リゼの逃げ道を塞いで連れて行く』と言われてね」
背後を振り返ると、セリアは「じゃ、あとは若いお二人で」とウィンクを残し、パタパタと尻尾を揺らしながら館の中へ消えてしまった。
完全に退路を断たれた。
私は顔から火が出そうなのを必死に堪え、ガチガチに緊張したロボットのような歩みで、彼の向かいの席に腰を下ろした。
「あ、あの! ほ、本日はお日柄もよく! ポポロ村からのコーヒーの納品も順調でして、今月の利益率は前月比の百二十パーセントを……!」
沈黙に耐えきれず、つい仕事の話に逃げようとした私。
だが、ユリウス様はふっと優しく微笑むと、テーブルの上でギュッと握りしめられていた私の手に、彼自身の大きな手をそっと重ねた。
「っ……!」
「今日は、仕事の話はなしだ。ただ、君と穏やかな時間を過ごしたくて……待ち伏せのような真似をしてすまなかった」
彼のひんやりとした大きな手から、確かな熱が伝わってくる。
その落ち着いた声と優しい瞳に、私の心臓の警鐘が鳴り止まない。
「君はいつも、領民や私の部下たちのために走り回っている。誰よりも有能で、誰よりも優しい。……だが、たまには立ち止まって、誰かに甘やかされてもいいはずだ」
ユリウス様は流れるような所作でコーヒーポットを手に取り、私のカップに香り高いポポロ・コーヒーを注いでくれた。
「ブラック企業」で働いていた頃は、私が上司のコーヒーを淹れるのが当たり前だった。帝国最強の騎士であり、高位の貴族である彼が、私のためにお茶を淹れてくれている。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます」
私は観念して、小さく呟き、コーヒーのカップに口をつけた。
ポポロ・コーヒーのビターな味わいと、彼の優しさが、ガチガチに強張っていた私の社畜メンタルを少しずつ解きほぐしていく。
「美味しい。……ユリウス様は、どうして私にこんなに優しくしてくれるんですか?」
ぽつりと、自分の口からこぼれた無防備な問いかけ。
ユリウス様はコーヒーカップを置き、真っ直ぐに私の目を見た。
「君が、私の世界を根底から変えてくれたからだ」
その声は、甘く、けれど何よりも真剣な響きを持っていた。
「君の圧倒的な知性。困難を笑って乗り越える不屈の精神。そして、泥にまみれることを厭わない深き慈愛。……君のすべてが、私の凍てついた心を溶かし、生きる喜びを教えてくれた」
彼は、私をただの「庇護すべきか弱い令嬢」として見ているわけではない。
私が前世から必死に培ってきた『仕事の手腕』や『生き方』そのものを、一人の人間として、女性として、心の底から尊敬し、愛してくれているのだ。
(ああ……私、本当にこの人が好きなんだ)
逃げ回っていたのが嘘のように、私の中にストンと腑に落ちる感情があった。
ビジネススキルはカンストしているのに、恋愛に関しては中学生以下。そんなポンコツな私を、彼は急かすことなく、ずっとこうして温かい眼差しで待ち続けてくれていたのだ。
「リゼロッテ」
ユリウス様が、重なり合った私の手を、さらにきつく握りしめる。
彼の中に渦巻く、隠しきれないほどの巨大な熱と、抑えきれない愛情。
それが臨界点に達しようとしているのを悟り、私は今度こそ目を逸らさず、真っ赤な顔のまま、しっかりと彼を見つめ返した。
読んでいただきありがとうございます。
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