第16話 激闘の屋敷
床に倒れたマルスはもう動く様子はなかった。
広がっていく赤は絵の具をぶちまけてしまったそれだ。ルストは何も言わず、アマーレの首元に剣を這わす。
「なんてことを」
レーベンはアマーレを睨む。
だが、それを嘲笑うかのようにアマーレは自分の口元を拭う。
「どうせマルスも処分されるかもしれないんだろ? だったらいいじゃないか」
「よくないだろ。助かったかもしれないのに」
「私を置いて? それにマルスは楽しそうにやっていたように私には見えたけどね」
レーベンはマルスに近寄り、見下ろす。手が不自然に手の中に入っている。何か持っている。いや、持とうとしていたのか?
黒いノートだった。長年、愛用された形跡がある。
「あかん。もうだめや」
ルストの声に顔をあげるとアマーレの足元から黒い炎が広がる。
アマーレを拘束していたシーツが簡単に引きちぎれた。
「はははは! やった、枯渇だ! これで誰も私を裁けない! ざまあみろ!」
獣鬼になりたくなかったことから始まった行為。アマーレは自分で終わらせた。両腕を広げて、笑うアマーレはスポットライトを浴びた演者のようだった。
「ああ、最高の人生だった。だが、心残りはレーベン、君だ。来た時から狙っていた最高のデザートを食べ損ねた。最後に食べたのがクソまずい脂の抜けた肉だなんて……ああ、残念だ」
ゆらり、と立ち上がったアマーレはマルスを踏んで近寄って来た。
「でも、今からでも間に合うかな?」
「間に合うわけないやろ。あほか! レーベン、逃げるで」
ルストに腕を引かれたがアマーレにも腕を引かれてしまう。
「行かせないよ。私の最後のデザートなのだから」
手首の骨がミシミシと木の枝を握り締めるような声をあげる。
まずい、折られる!
痛みで顔を歪ませると急に軽くなった。アマーレの手が床に転がり落ちる。
「触んなや。んで、はよ獣鬼になれや。そしたら気兼ねなくやれんねん」
「この、平民がぁ! どこまで私の邪魔をっ」
手を失った手首を掴み、膝をついたアマーレは恨みがましくルストを睨む。黒い炎が燃え上がっていく。
「自分、今、焼かれとるの分かっとる? あの童話に出てくる悪い奴の最後と一緒や。良かったなぁ。よく読んだかいがあったやん」
鼻で笑って言い放ったルストの言葉に、アマーレのこめかみに血管が浮き出る。
「ルストォオオオ!!」
黒い炎がぶわり、と広がりアマーレを包み込む。
「行くで、レーベン!」
扉が閉まる瞬間、貴族の服の隙間から毛がぶわり、と生えたのが見えた。
アモルの時と一緒だ。息が上手く吸えない。ヒュッ、と音を何度も立てる。足はもつれるのに腕を引かれて走るしかない。
裏側の屋敷を走るが誰とも会わなかった。
こんなに会わないことなんてあるのだろうか。
獣鬼と変貌を遂げるアマーレは無差別に人間をこれから襲うはずだ。
「メ、メイド達はっ」
「マルスがとっくに逃がしとる! レーベン迎えに行く前にあいつ、言っとったわ。もう今頃、街に着いとるんやない? それより、しっかり走れや」
そうだ。あれはアモルじゃない。
しっかり呼吸しろ。
ルストの腕を振り払い、足を止める。ヒクつく肺の中から全てを出すように吐いて、息を吸う。それを何度か繰り返すと呼吸が元に戻っていった。
「もう大丈夫なら逃げんと。このめんどい裏っ側の屋敷からとりあえず出んとやりにくいで」
ルストの耳がピクリと動く。
背後で壁が大きな音を立てて弾け飛ぶ。振り返ると煙の中から現れたのはアマーレ———獣鬼だった。
小さな三角耳に長い尻尾は残っているが、ギョロリと動く瞳に鋭利な牙、大きな体。マルスの遺体を咥えてきたのか、こちらに見せつけるように音を立てて食べ始める。
レーベンは思わず顔を背けた。水音と何かが引きちぎられる音が耳に入って来てしまう。
「獣鬼になっても、きっしょいわ」
「ガアアアア!」
ルストの声に反応するかのように大きな声が聞こえてきた。
「おーおー、遂に人の言葉も喋れんくなっとるやん」
ルストが剣を抜く。レーベンも同じように距離を開けて剣を抜き、獣鬼を視界に捉える。
長い尻尾が風を切ると勢いよくルストめがけて襲いかかってきた。
床に叩きつけられたルストは大きな穴を開けて下へ落ちていく。
「ルスト!」
ぐるるる、と鳴らされる唸り声。ギョロリと大きな瞳がこちらを向き、涎がボタボタと音を立てる。
瞬きをする。獣鬼は目の前にいた。
「しまっ———!?」
ギフトを起こす暇もなく、体を掴まれて投げられる。壁に背中を強打する。痛みを表現する前にまた捕まって投げられてしまう。
まるで玩具だ。
くそっ。早く体内にいるルストのギフトを起こせ。このままだと獣鬼になってしまったアマーレが街へ行き、大暴れしてしまう。止められるのは、自分とルストだけ。急げ。
瓦礫に埋もれた体は顔を鷲掴みにされ、獣鬼によって強引に出される。
口の中が鉄の味だ。体のあちこちも痛い。早くギフトを起こさないといけないのに、今は剣を握るので精一杯だ。
ふと、街で食べた白いパンは甘くて柔らかくて美味しかったことを思い出す。
「これが終わったら、また……食べたいな」
ギフトを起こし、レーベンは剣を振るう。もう一人のルストが動かない自分の体を支えてくれるようだった。
獣鬼はこちらの攻撃を避けて距離を空け、口端を上げてケタケタと笑い始めた。
感情はないはずなのに、まるで「無理だ」と言わんばかり。
レーベンは剣を構える。
「そうだな。先にお前を倒してからだよな」
木の床を強く蹴り、獣鬼の足を狙う。しかし、元々観察眼を持っているからか、予知でもしているような動き。簡単に避けられて蹴りを食らう。
屋敷の壁をぶち抜く音と同時に襲いかかる痛み。目を開けば昨日開けた部屋に倒れ込んでいた。
生きているのか死んでいるのか分からない虚な瞳の女の絵がこちらを見下ろしている。
その瞳の色は、横にある窓から見える景色と同じ。どこまでも深い黒い色。
剣を握りしめ、背後から勢いよく入ってきた獣鬼から転がって逃げる。そのまま攻撃を仕掛け、毛むくじゃらの胸元に一閃の剣筋を刻み込む。
「グオオ、グウウウウッ」
片膝をついた獣鬼は毛を汚していく赤を手のない片腕で拭い、レーベンに飛沫を投げてくる。両腕で遮れば、獣鬼に蹴られ転がりベッドの足場にぶつかった。
むせ込み、体勢を整えようとする暇なく鋭い爪が振り下ろされ、剣で受け止める。カチカチとぶつかる音。押しが強くて突き刺さってしまいそうだ。
それにギフトが弱まっている。使いすぎてしまったのかもしれない。
「くそっ」
このままギフトが切れてしまえば、負けてしまう。レーベンは、残ったギフトで爪を押し返しながら逃げ場を探す。
ギシリ、とベッドが軋む音が聞こえ、上から覗き込むようにルストの顔が現れる。
「俺が助けに来る度にレーベンは、そいつとイチャコラしとるなぁ。妬いてまうで?」
顔を上げた獣鬼がルストの蹴りを貰い、吹き飛んでいく。
「ボロボロやんけ」
「お前が来るの遅いからだろ!」
「ごめんてぇ。地下に色々あったから見入ってしまったんよ」
手を引かれて起き上がるが、体内のギフトが消失し膝が笑い始め、床に座り込んでしまった。
自分の体は限界を迎えていた。
「なんや、ギフトなくなってもうたん?」
「早く寄越せ」
「もっと可愛く言いやぁ」
片膝を付いたルストはレーベンの手を取り、その甲に口付けを落とす。
淡い緑の光が現れ、神経、筋肉に隙間があれば強引に入ってくるようなギフトが流し込まれていく。
「まるでお姫様に忠誠誓う騎士やな」
口を離したルストがニヤリと笑ってくるもんだから、手を振り払う。
「忠誠なんてお前にないだろ」
「分からんで? レーベンにならあげてもええで」
「いらない」
獣鬼がぶらり、と立ち上がる。
「ガアアアア!」
その叫びは、ルストとの間を引き裂くようだった。
「ほら、姫さん。はよ、ギフト使えや。来るで」
「分かってる。姫言うな、気持ち悪い」
新しく体に巡ったギフトを起こせば支えられたかのように体が軽くなり、立ち上がって剣を構える。
「次で終わらせるで」
「分かった」
レーベンとルストは同時に床を力強く蹴った。




