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君の欠けた部分の丸ごと欲しい

 樫くんの記憶の回廊を進むごとに、彼の背は少しずつ大きくなり、いつの間にか僕の背と並ぶ。景色は真っ黒に塗りつぶされたクレヨンから、閉まったシャッターへだんだん変わっていった。


 開けてはいけない部屋が続いている。どこもかしこも釘でも打ったかのようにガチガチで動かない。アルバムらしきものを開くと、写真は顔が全部削れて、名前も黒くぬりつぶされていた。


「深蔭くん。今日は特別室に聖母がいらっしゃるわ。あの子が話をすれば、きっとまた大きな光恩がこの園に降り注ぐはずよ」


「はい。照らしていただき、おかげさまです」


 白い修道服を纏った老婦人と並んで歩く少年は、人形のように言葉を返す。その瞳には光がない。


「お茶をいれてくるから、おばあちゃんといっしょにいい子に待ってろよ。できるか?」


「はあい」


「腹がすいたらおばあさんが見てないとこでこれを食え」


 赤い部屋の前で足が止まった。縫いつけられたように一歩も動けない。喉の奥から、ようやく声を絞り出した。


「やめろ。見るな」


「……深蔭くん」


「行くなっ!」


 思わず俺は叫んだ。本当は逆だ。行きたくない。あの日から一度も。


 赤い。全部赤い。

 最初に浮かんだ感想は、それだけだった。

 床も。ソファも。テーブルクロスも。


 足元で食器が割れる音がした。

 身体がびくりと縮こまる。


 部屋の中心に転がっていた小さな身体を見た瞬間、頭の奥がぐらりと揺れた。


 ――だめだ、見ちゃいけない。

 そう思ったのに視線が剥がれない。


 鉄みたいな匂いの中で、深蔭くんだけが立っている。刺されているのに。


 僕は動けなかった。

 根が一本も伸ばせない。


 部屋の奥から、かすかに甘い匂いがした。

 ポケットへ押し込んだ小さな菓子の包み。


『おれがくるまで、つまみ食いするなよ』


 喉がひゅうひゅう鳴る。

 だめだ、思い出すな。

 あれはチビでいい、そうじゃないと。

 白い根が俺の裾を掴む。


「この子、まだ待ってるよ」


 違う、俺が記憶の奥底に置いていった。

 見ないふりをした。

 もう思い出さないように、チビにした。


 視線の先。赤い床の上に小さな身体がある。俺がずっと、チビと呼んでいたやつ。

袖が見えた。昨日、おれが縫ったほつれ。

あいつは手を洗ったあとに服で拭こうとするから裾がベチャベチャになる。


「……海斗」


 俺のなかで、閉じきっていたシャッターが無理やり開く音がした。床へ膝をつく。


 触ったら、本当に死んでることを突きつけられてしまう。ようやく覚悟して、小さな身体を抱き上げる。とっくに冷たかった。


「ごめんな、海斗」


「この子、海斗くんっていうんだね」


 答えられず、腕の中の重みを必死に抱える。こんなに軽いのに、どうして抱き上げるだけで苦しいんだろう。海斗の髪へ触れる。はね癖が少し湿っていた。


 ――ガンッ!!


 勢いよく扉が開いて、怒鳴り声と共に重たい靴音が響く。知らない制服の男たちが、部屋へ雪崩れこんできた。


「動くな!」


 反射的に海斗を抱き込んだ。

 喉がうまく動かない。

 言わなきゃ。こいつの呼吸がもう――


 視界の端で誰かが動いた。理事長の息子が焦点の合わない目で笑いながら、壁にもたれている。ときどき施設にやってきては、虚ろな目でチビたちを眺めていた男。助けを呼ぼうとしたその時、腹に焼けるみたいな痛みが走った。


「が、……っ」


 息が潰れる。何が起きたのかわからない。

ぐらりと身体が傾く。腕の中から、海斗の身体が滑り落ちそうになる。嫌だ、離れるな。

やっと抱きしめられたのに。


「こいつか!」


 髪を乱暴に掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。視界が歪んでいる。いつの間にか俺の腹にはナイフが刺さっていた。


「こいつだな、聖母を殺したガキは」


 言わなきゃいけないのに、口を開くたび血の味しかしない。床へ押しつけられて、頬が赤い床へ擦れる。視界の端で海斗の小さな手が見えた。

 

 視界が暗転する。また、届かない。


 ページをめくる音だけが、暗い部屋に小さく響いていた。深蔭くんは何も喋らない。


 薄い毛布へ背を預けたまま、僕を抱き寄せる腕だけは離さずに、本を読んでいる。石川啄木。本の端が何度も読まれたみたいに柔らかく傷んでいた。


 呼吸が近い。喉が動く気配がする。

 ところどころめくる動きがとまる。


 死ぬことを持薬を飲むがごとくにも

 我はおもへり心いためば


 彼が眺めているのは、どれも悲しい歌だ。僕はどうしたらいいのかわからなくて、ただ深蔭くんの頭を見ていた。全部剃られた頭。

照明の光で、小さなほくろが浮いている。


 一つ、二つ……。


 三つ目を見つけたところで、ページをめくる手が止まる。視線がこちらに落ちてきた。


 彼の眼差しは静かだった。虚無を吸い込んだような黒い目なのに、どうしようもなく優しい。


「またウソついたね。詩や歌なんて、よくわからねぇって言ってたくせに」


 深蔭くんがくしゃりと詩集を揺らす。


「本当に、いくら読んでも意味が全然わかんねぇんだよ」


 妙に真面目な調子で言うのが、たまらなく愛おしくなった。深蔭くんの胸へ額を押しつける。嘘が下手くそで、肝心なことは隠して、優しくされると固まって。書に没頭するくせに意味はわからないと言う。


 そのちぐはぐさ全部が、生きてきた形そのものなんだと気づく。君の全部がなくなる前に、僕の中へしまってしまいたい。


 深蔭くんの指先が、僕の髪をゆっくり撫でた。その温度だけを抱えたまま、また景色が滲む。


 俺が出所するのを園長は警戒したらしい。合成肥料行きが命じられていた。適合者を一人引き渡すごとに多額の助成金を受け取っているらしい。


「樫。本当のことを言え」


 面会室で人権派だという弁護士が、マイク越しに、時折アクリル板を叩きながら俺に詰め寄る。横にいる監視役の教官も、苦しそうな目でこっちを見ている。


「そもそもお前が犯した罪が本当だとしても、刑務内容の辻褄が合わない」


 この場所には、まだ人間が奇跡みたいに目の前にいた。だが、俺は口を開けなかった。

 本当のことを言えば、施設の土台がひっくり返る。残された他のチビたちはどうなる? 余計なことを言えば、あいつらが次の身代わりにされる。


「このままじゃ君は、プラント送りだぞ。そこがどんな場所か分かっているのか。一度入れば、二度と」


「わかっています。それでも、肥料になれば全部溶けてなくなりますよね。……救いがある気がします」


「樫! 目を覚ませ! お前はまだ子供なんだぞ!」


 叫ぶ弁護士の声を背に、席を立った。


 教誨室に連れて行かれた。部屋を出ればプラントへ搬送される。俺は人間じゃなくてもう肥料だからだ。焚かれた香の匂いがする。死ぬことを前提とした場所だからか、空気が透き通っている。


 実質死刑みたいなもんだ。肥料化すれば肉体すら残らない。俺を溶かしてしまえば、真相は永遠に闇の中だ。教誨師は何も問わなかった。ただ静かに祈り、俺の最期を見守る役目を果たそうとしている。


「失くしていただき、おかげさまです」


 消えることへの感謝を込めて。すでに背中に合成肥料の烙印が押されている。刻まれた瞬間の焼けつく皮膚の匂いは、このクソみたいな世界に中指を立てた証だ。どこかの畑にまかれてただの土になれたら、俺は初めて自由になれる。


 皮肉にも園長の利害と一致しちまった。


 茶菓子が置かれていた。これから仏になるから食べていいらしい。だが、手をつけなかった。温かいものに触れると、あの園長の愛を思い出してしまう。


 目をそらすように辺りを見渡すと、机の端に置かれた本へ目が止まった。


 ―― 一握の砂


何で俺が置いていったはずの本があるんだ。


「目の前の菓子皿などをかりかりと噛みてみたくなりぬもどかしきかな」


「おい、勝手に代弁するな」


 ポリポリと菓子を頬張る音が響く。いつの間にか俺の隣にいた真っ白なヤツが、呑気に歌を詠みながら茶菓子を食ってやがる。


「遺言はありますか?」


 教誨師に尋ねられる。机の上には便箋。


 高きより飛びおりるごとき心もて

 この一生を終るすべなきか


 ――いや、何か違うな。

 隣にいる白い根の感触を思い出した。 


「出るぞ、靭」


 遺書に二重線をひいて捨て、俺は扉を開けた。




 目が覚めた。カーテンの向こう側はまだ暗く、朝前の光がぼんやり滲んでいる。

俺は、しばらく天井を眺めていた。


 静かだ。ゆっくり身体を起こす。

 机へ向かう途中で、てのひらを見る。

 身体の中が凪だ。

 あいつはまだ夢のなかにいるらしい。


 「朝弱いもんな、お前」


 思いついたように、備えつけの便箋を取り出してペンを握る。少し迷ってから、文字を書いた。



 やはらかに積れる雪に――



 最後の一文字を書いたところで手が止まった。しばらく二行を見つめる。全部消して新しく書き直した。


 『お借りしていた本をお返しします』


 便箋を折り、返却する詩集と一緒に封筒へ入れる。隙間へ小さな写真を一枚滑り込ませた。




 数日後。弁護士は、返送された詩集を静かに開いた。封筒のなかには便箋が一枚と、雪の日の梢に立つ鷽の写真。


『まだ生きています』


 あの少年らしい短い文を読んだあと、弁護士はしばらく動かなかった。それから引き出しを開け、一年近く前に教誨室から受け取った便箋を取り出した。二枚を机の上に並べる。


 一枚目は消した跡だけが残っている。もう一枚も、同じように消された形跡があったが、光へ透かすと消しゴ厶に沈んだ文字がうっすら浮かび上がる。どうやら、啄木の一首を引用したらしい。



 頬を埋づむるごとき――



 そこまで読んだところで、弁護士は目を閉じた。あれほど何も望まなかった少年が、たった一つ書き残そうとしたものを知ってしまったからだ。

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