雪原に鷽の羽音の立ちしより
シーツの端を両手で掴む。ふ、と息を吐き一気に宙へ煽った。バサッと小気味よい音を立てながら布が弧を描いて、一発で物干し竿にかかる。すぐさま洗濯ばさみを手に取り、端を留めた。
「よし、終わり」
風に煽られて、視界が白い布地で埋めつくされた。洗いたての匂いを吸いこんだ瞬間、靭が息をのんだ気配が胸の奥へすとんと落ちていく。
口元が思わず緩んだ。覚悟しろ。
視覚を直結したらこんなもんじゃねえぞ。
「樫君は、気持ちいいくらいによく食べるね。見ているこちらまでお腹が空いてくるよ」
食堂の席で、眞継がこちらを眺めながら頬杖をついていた。
「別に普通だろ」
靭が俺の体の中に潜りこんでから、感覚が少し変になった。今だって口に運ぶたび、米の熱やおかずを噛む音、喉を通り過ぎる瞬間が、やけにくっきり内側に響く。だが飯は進む。俺にとっては、これが新しい普通になりつつあった。
「お前は相変わらず変な食い方してるな」
「これが僕の朝食の最適解なのさ」
眞継は、手に持ったパックご飯を誇らしげに掲げて丼物だと言い張った。白米の上には練りまくった納豆。中央の窪みに生卵。ここまではいい。
あいつはその上に、鶏ガラ醤油味の麺をバキバキに砕いた生のカケラを、パックから溢れんばかりにぶちまけていた。仕上げに申し訳程度に沸かしたスープを上から回しかけている。
「バカじゃねーの。なんで生なんだよ。茹でろよ、てか分けて食えよ」
「ザクザクとネバネバが手を取りあった瞬間に、楽園が完成するのさ」
言うが早いか、眞継は箸で全体を豪快にかき混ぜ、大きく一口放り込んだ。
「……うっま」
恍惚としてやがる。本当こいつ残念だな。半ば呆れながら眞継を眺めてたのに、何故かごくりと喉が鳴る音が自分の身体から聞こえた。
「清澄君、一口食べてみるかい?」
「おい、靭に変なもん布教すんな」
激しく葛藤した末、丼にスプーンを突き刺して頬張ると、内臓を直接かき乱される。どうやら、のたうち回るほど美味いらしい。食堂の空気が完全に鶏ガラ醤油の香りに支配される。寄生なんて仰々しいモンは、とっくにただの日常に変わっていた。
「ヤバい見た目してんのに旨いな」
「 だろう?朝からこれをキメると、世界が輝いて見えるんだ……さて、今日も君は白を探しに行くのかい?」
「まあな。俺の汚ねぇもんばっか吸ってたらあいつが腹壊すからな」
「君、少し変わったね」
「そうか?大して変わんねぇよ」
冬の山は音が少ない。ざくざくと自分の足が雪を踏みしめる音だけが、冷えた空気の底へ沈んでいく。
これだけたくさん積もれば地面を覆い隠して、汚ねえもんも真っさらになる。お前が歩く道を、全部これで埋めてやるよ。
俺が歩いて色を見れば、そのまま靭の栄養になる。立ち止まり、大きく息を吐き出した。自分の口から出たもやをぼんやり眺めた後、林の奥へ足を進める。
遠くで鳥が鳴いた。以前、俺が点字を間違えた時に、靭が話したことを思い出した。
『うそって鳥がいるんだよ』
姿を確かめたところで何になるわけでもないのに、気づけば俺は、園の裏山へ足を踏み入れていた。あいつの言葉が、脳みそに刺さったままだったからだ。
しばらく歩くと頭上の梢で、かすかに気配がする。ぱさりと乾いた雪が落ちた。見上げると、枝の隙間に小さな鳥の腹が覗いている。目をこらして姿をじっと眺めた。
「……全然白くねぇ」
靭の言葉から想像していたものとは、ずいぶん違っていた。思っていたよりずっと羽毛がくすんでいる。灰色に近い。雪が降りそうな日の冬の雲みたいだ。
鳥が短く鳴いた。冴えた声に記憶の底から音が重なる。
――フィー、フィー。
靭の口笛だと思った。でもなんか違う。本物は、あいつの吹く音と微妙に違っていた。
「案外、適当だな」
真似してみようかと思った。口を尖らせ息を吐き出す。肺から押し出された空気は、間抜けな音を立て冬の空気に漏れた。
もう一回。今度は掠れた音が鳴った。
枝の上のうそが首を傾げている。靭みてぇなきょとんとしたツラして、こっち見てんじゃねえよ。思わず笑えてきた。
「ヘタクソ」
足元の雪を軽く蹴る。雪の塊が粉になって勢いよく跳ね、顔にもかかった。
「冷たいか?ざまあねえな」
その場にしゃがみこんで手袋を外し、素手で積もったばかりの雪をひとつかみした。
冷たさで麻痺する手の感覚に委ねていると、なぜか夏の蒸し暑い空気が蘇ってくる。暑い日に靭にかき氷を食わせた。何をするでもなく、機嫌よさそうに喉を鳴らしていたのを眺めていた。
てのひらの雪を少しだけ口に含んだ。
ただ冷たいだけだった。
「味がしねぇな」
宿舎に戻って、点字タイプライターを叩いた。部屋でカチャカチャ響かせながら、突起を増やしていく。
俺が間違える瞬間を楽しみにしてる、根っこの気配を感じた。間違えるかよ。『へ』は、点字だと聞こえた通りに『え』と打つ。
⠉⠺⠝⠣⠐⠡⠀⠩⠗⠐⠭⠋⠭⠃⠟⠀⠉⠺⠇⠳⠕
嘘つきが 口笛吹いて うそにした
⠬⠣⠎⠁⠳⠁⠞⠀⠥⠩⠳⠋⠣⠐⠱⠽
雪の足跡 白紙へきざむ
「嘘つきは冬の季語でいいだろ?お前は白いからな」
打ち終えてタイプライターのキーに感覚を委ねていると、靭が文字を返してきた。
⠻⠝⠐⠫⠴⠇⠀⠉⠺⠎⠥⠊⠞⠎⠀⠕⠗⠳⠜⠓
⠉⠺⠥⠞⠫⠐⠱⠙⠀⠮⠊⠁⠡⠣⠪⠃
嘘は融けざる頬赤き――
「うるせえよ」
あいつは胸底を波みたいに揺らしてくる。返された点字に唇が引き寄せられた。あいつの額に触れているみたいだ。
紙の匂いがした。光の粒を覆うように影が点をなぞっている。凹凸がなぜか前方にあって、触れている方角が眩しい。
ひとつ。またひとつ。
点が沈んでは浮かび上がる感触を追いかけていると、樫くんの吐息が聴こえる。
「真っ白な紙に打つと、本当に雪の足跡みたいだな」
すぐ横で服が擦れる音がした。
樫くんの声なのにいつもと違う。
僕の頭の中に直接響く。
「靭、雪が降ってるぞ。触るか?」
上から声が降ってくる。僕の大好きな声が。ひんやりした空気が根の先まで滑りこんできて、すっと冷たくなる。
「朝もやだな。寒くないか」
眩しくて前が見えない。うまく形を捉えられない。
「お前の点字盤を、白でパンパンになるまで埋めてやる」
樫くんが今までくれた言葉が雨みたいに舞い落ちては、足元に積もっていく。僕が驚く様子を面白がって、餌づけするみたいに色を次々運んでくるんだ。
「空に浮かんでる綿あめみたいなやつだ」
「膜が張るくらいが一番うめえんだよ」
吸器を伸ばすと、またいくつか粒が落ちて淡く溶けた。いつまでも降り注いで、僕の視界が彼の言葉で埋もれていく。
布団のシーツ、カルピス、ソフトクリーム、チョーク……。
「点字、教えてくれねぇか」
⠐⠣⠇⠉⠇⠉
ふふ、ぎにうにう。
樫くんが間違えた白の言葉。
折り紙みたいなうさぎが雪の上を跳ねている。いつの間にか耳が羽になって、ふわりと空へ飛んでいた。僕らはこのヘンテコないきものをうそと呼んだ。
僕が知らなった、たくさんの色の輪郭。
「ゴシゴシ滑らすだけで、書いた文字が真っさらになる」
「指につくとカサカサするな」
「そのうち真っ黒に使い潰されてくたびれる」
眩しいのに影がだんだん広がっていく。
「雪が溶けると濁った色してるな。汚ねえもんを吸うんだよ」
「お前も泥ばっか食ってると腹壊すぞ」
優しくて悲しい声がする。
「俺の記憶なんてただのゴミ溜めだ」
樫くんの音も温度も、匂いも知っているはずなのに、新しい繋がり方をした途端に処理しきれない何かが広がっていくのを感じる。
「もういいから目ぇ閉じろ。起きててもロクなことねぇぞ」
――カチリ。
照明を消す音がして、降り続いていた白が急に遠ざかった。雪の粒がいつの間にか闇へ溶けて沈んでいく。足元が、紙がふやけるみたいに柔らかくなった。僕も言葉の粒と一緒に沈んでいく。
樫くんを追いかけて、もっと深くへ潜り込む。途中で鼻が曲がるような腐った匂いがした。焼け焦げた匂いも。
彼の声が少しずつ幼くなっていく。
狭い。どこもかしこも塞がれていて進めない。そのなかでも、ある一角だけ異常に強い匂いを放っている。鉄の匂い。甘い匂い。
「開けるな」
今までに聞いたことがない、悲鳴みたいな樫くんの声。何もかもが閉まっている。
「こっちに来るな」
周囲がどんどん重く硬くなっていく。ざらざらした質感がどこまでも続いている。樫くんの奥側は硬い闇の擦れる跡で、隙間なく塗り潰されていた。
でも、完璧じゃない。
わずかな塗り残しを見つけてしまった。
――見るな




