名前なんて返してくれなくてよかった
「おめでとう。お前は今日から、最高の家畜だ」
検査官の瞳に宿っていたのは、嫉妬だった。死にゆく俺に向けられた、本物の羨望。
「三二八号、ラインから除外。――こいつは特級適合だ」
すぐ隣のラインでは、俺と同じ番号持ちの奴らがベルトコンベアに流されていく。薬で意識を飛ばされた連中の目はどれも濁ってて、自分が今から死ぬことすら理解していない。この場所で唯一与えられた情けだ。
グチャッという、湿った音が響く。
俺が自分の終わりの場所だと信じて疑わなかった、安らかな無への音。一山いくらの合成肥料として処理される俺の未来が、目の前にあった。
なのに、俺だけがその列から弾き出された。
「いいよな、お前は。……これから先、死ぬまでここよりマシな生だ。俺なんか、あと何十年ここで生ゴミを数えりゃ済むのかも分からねえのに」
検査官が、俺を出荷用ケースに押し込みながら、独り言のように吐き捨てる。同じ囚人服を着ているそいつの手は、俺の身体をただの腐りやすい生モノとして扱っていた。
全身を包む防腐剤の冷たさで、感覚が麻痺していく。意識が遠のくなか、耳の奥でずっと機械が動く音が響いてた。
――どのくらい揺られただろう。
気がついたときには、商品として次の場所へ運ばれてる最中だった。ようやく移送車の重い扉が開いたとき、肺に流れ込んできたのは、場違いなほど澄んだ空気だ。風に乗って草の匂いがする。
「ここが……」
目の前に広がっていたのは、昔の自分なら「天国かよ」って笑っただろうな、と思えるくらい立派な建物。門柱には双葉台高等養育園と刻まれていた。
俺はこれから、この施設で贅沢な餌として飼われることになるらしい。案内された部屋は、呆れるほど広かった。大きな窓の向こうに美しい山々が見える。
「今さら逃げたりしねぇよ」
誰に言うでもなく自分に言い聞かせる。
言い訳をするチャンスなんて、とっくの昔に捨ててきた。
ベッドに深く腰を下ろす。肥料らしくその辺の土に雑に転がされるのかと思ったら、普通のマットレスだ。体を押さえつけるベルトも見当たらない。ただ、隙間にデカい荷物でも置くみたいに横幅だけ妙に広い。
――なんだ、この中途半端な場所。
施設の三段ベッドとも、雑居房とも違う。鼻先に迫る低い天井や、薄っぺらい布団の感触を遠い過去の記憶のように塗りつぶしていく。俺の知ってる寝床のどれにも当てはまらない。
どうにも落ち着かなかった。俺の戸惑いさえ、養分として歓迎されているみたいで。
ドアが軽くノックされ、一人の職員が静かに入室してきた。
「お寛ぎのところ失礼いたします。今後の生活について、いくつか確認を」
声にさっきまでのモノ扱いが消えたことが逆に違和感に変わる。職員はタブレットに何かを書きこみながら、俺の胸元に視線を落とした。
「タグは三二八号ですね。こちらで回収させていただきます。もう必要ありませんので」
差し出された手のひらに、俺はタグを渡した。
――三二八号
合成肥料の原材料。それが俺のすべてだった。だが、職員は端末を操作し終わると、柔らかな微笑みを浮かべて俺の目を見た。
「ようこそ。改めて歓迎しますよ、樫 深蔭君」
一瞬、誰のことを呼ばれたのか分からなかった。あまりに不釣り合いな響きすぎて。
クソみたいな底辺。他人の都合で人生を塗りつぶされ、名前もプライドも全部剥ぎ取られて番号に成り下がった。必死で封じ込めてきたはずの「俺」という人間が、たった一言で無理やり引きずり出される。
「え……今、なんて」
「お名前ですよ。今からあなたは、元の名前で、一人の生徒としてここで過ごしていただきます。何かご不満でも?」
不満なんて、そんな立派なものじゃない。
名前が戻るということは、今着させられている清潔な服も、じきにくるだろう俺が死ぬ瞬間も、全部三二八号じゃなく俺の出来事になるってことだ。
脳死で「おかげさま」と言わされたあの頃みたいに、俺という中身をこいつらの都合のいい物語に書き換えられるのか。
「カタギ……ミカゲ」
自分の唇でなぞってみたその名前は、ひどく不味かった。吐き気がする。番号のままでいさせてくれれば、まだマシだったのに。
「ええ。本園において、個体名の保持は最優先事項です。自己同一性の喪失は、苗床としての定着率が下がり、栄養価が損われる原因になりますから」
職員の指先が流れるように端末を滑る。
「三二八号は、肥料としての管理番号です。ですが、君は特級として選ばれた。脳や神経が、自我を保ったまま枯れていくことでしか採取できない成分があるのです」
ここじゃ、ただの肉塊として死ぬことさえ許されないらしい。名前を返された瞬間、押し殺したはずの生への執着が一気に逆流してくる。
職員から質の良さそうなブレザーを手渡される。
「これを着ろって? これから俺、殺されるはずですよね」
「殺す? とんでもない。むしろ逆ですよ。君は、誰よりも長く健康に、美しく生きてもらわなければならない。そのための制服です。明日からは、養育園の生徒の一員として寄生種の方々とお過ごしいただきます」
「は? 教室?」
さっぱり想像がつかないが、平たく言えば化け物だろ。化け物と食い物が、机を並べる意味あるのかよ。
「ええ。彼らと同じ制服を着て、同じ知識を得る。寄宿舎の自室も共有です。寄生種と苗床が共鳴し一対の魂として完成した時、最高の収穫を迎えることができるのです」
数分後、鏡の中にはどこかの名門校に通っていてもおかしくない、小ぎれいでまともな少年が立っていた。三二八号として肥料になるのを待っていた自分は、もうどこにもいない。
肌あたりのいい生地。
パリッとしたシャツの白さ。
施設で見せ物にされる時に着せられた、余所行きの新品の服の匂いがした。
一瞬でもそれに見惚れてしまった自分を殺してやりたい。反射的にブレザーの裾を掴み、爪を食い込ませていた。
「お似合いですよ、樫君」
まるで品評会の牛を褒めるような響きだった。名前を返され服を与えられ、一人の人間として大切に扱われる。
たとえ収穫とやらの短い間までだと頭でわかってても、人間扱いに少しだけ喜んでしまう。差し出された温かさを振り払うには、俺はあまりに長く一人でいすぎた。
やり取りが終わり、職員が出ていった。天井の隅、スモークがかった半球の奥に居座ってるレンズに視線を合わせれば、警戒していることがバレる。
「……ふぅ」
わざとらしく、脱力した長い溜息を吐く。俺みたいなゴミ溜め育ちが真っ先に覚えるのは、見られている自分の演じ方だ。
俺はベッドの縁に腰掛け、脱いだばかりのブレザーを乱暴に、狙った位置に放り出した。サイドテーブルの脚との間に、カメラから絶対に見えない、十センチくらいの暗がりができる。
不自然にならない程度に時間をあけて、俺は盛大に咳き込む。
さっき事務室を通り抜けたときに、職員のデスクからくすねたカッターナイフがポケットにある。咳に紛れこませて、右手の指先だけでスライダーを弾く。
――カチッ。
乾いた金属音が、俺の喉の音に完全にかき消された。そのまま、前かがみになった俺の右手は、ブレザーの影で流れるように動く。折った刃の破片を、学習机に備えつけられていた分厚い本の、背表紙と中身の隙間に滑り込ませた。本体は、スラックスのベルトの内側へ。
モニターの向こうで俺を見ている奴らは、今ごろ、哀れな三二八号が環境の変化に戸惑っているとでも思うだろう。
無音の部屋で、自分の心臓の音だけが聴こえる。
――お前らの期待通り、しばらくは利口な家畜でいてやるよ。
翌日、俺はまだフワフワした現実感のないまま、職員の背中を追って園内の案内を受けることになった。職員の歩数は一定だ。廊下の角を曲がるときに、死角が三歩分ある。
中学一年で止まったままの俺の時計が、ここでは強制的に進められるらしい。だが必死に空っぽの脳みそに知識を詰め込んだところで、結局は寄生種とやらの胃袋に流し込まれるだけじゃないのか?
「ここが図書室です。あちらにいるのは生徒会の役員ですね。ちょうどいい」
職員が足を止め、前方を指し示す。窓際で本を手に取っていた二人の生徒が、こちらに気づいて顔を上げた。
「紹介しましょう。彼らがこの園の生徒会長と副会長です」
生徒会長は沙倉と名乗っていた。春の光をそのまま形にしたような、まぶしい笑顔。その隣で、与謝野と名乗った副会長は、少し疲れた表情を浮かべながら、机に広げられた紙束を、淀みない手つきでファイルへ整理している。
「生徒会って何をするんだ。苗床と、その……寄生種が、一緒に」
喉まで出かかった「餌と飼い主が」という言葉を飲み込んで尋ねると、沙倉はどこか誇らしげに答えた。
「お互いが、お互いであるために必要なことを調整するんだ。やってることは、普通の学校の生徒会とあまり変わらないけど……ね、タモさん」
「園のルールを、どう校則に落とし込むか。その点では特殊かもしれませんね」
沙倉の思考をすべて先回りしているかのように、与謝野が淡々と応じる。
「接続中のソシャゲ禁止とか……いや、これは普通校と同じか。授業中に狩りに出かけちゃうのは、さすがにマナー違反ですから」
「で、タモさんがこうやって苦労を一人で抱え込んじゃうのを止めるのが、僕の仕事」
奴らの指先を見る。何かを盗もうとも、誰かを殴ろうともしない、ささくれ一つないキレイな指。
(こいつらには、影がないのか?)
今までに会ってきた奴らが当たり前のように持ってた、生きるための汚らしさが、一切落ちていない。きっと、食ってるもんも教わってきた理屈も、俺とは土台からして別モノだ。なんていうか、種族そのものが違う。
「ねぇ、樫君。僕とタモさん、どっちが寄生種に見える?」
「転入生相手に何、ふざけてるんですか。この人のこと相手にしなくていいですよ」
俺は沙倉を指差した。
「 隣の奴は、目の下のクマが酷い」
「ほらー。正解は彼の方。樫君と一緒で、僕は苗床側。だから君の仲間だよ。タモさんは変わってるんだ。ちゃんと僕から栄養を吸ってれば顔面国宝を保てるのに、自分から生徒たちのお気持ちに心を寄生されにいっちゃってるから」
仲間という言葉を、警戒しながら飲み込む。目の前の沙倉は肌ツヤも良くて、瞳は生命力に溢れてる。これが苗床だなんて、冗談にもほどがあった。つい数日前にベルトコンベアの上で肉塊になろうとしていた自分と、こいつとの共通点なんて、どこにも見当たらない。
「吸ってればって、減らないのか。あんたの中身」
「減るよ」
沙倉はあっさりと、まるでノートの余白が埋まっていくのを話すような気軽さで言った。
「でも、減った分だけタモさんが流し込んでくれるものもある。記憶も、熱も、全部。だから、空っぽになるのが怖くないんだ」
隣で与謝野が、眉を下げて溜息をつく。
「柊夜、色々端折りすぎて言い方が不適切です。混乱させてすみません。生徒会長は少し同化に慣れすぎてる。僕たちの関係は一方的な搾取ではないんです。少なくとも、僕はそうありたいと思っている」
与謝野が沙倉に向けた視線は、確かに寄生種のそれじゃなくて、隣に立つ相棒に向ける真っ当な敬意に満ちていた。
(まともそうに見えるのに、狂ってる)
眩暈がする。奪う側が自分を削って、奪われる側がそれを幸せだと感じる。強い者が弱い者を踏みにじる単純な地獄よりも、よほど逃げ場がない。
「そのうち、樫君にもわかるよ。君の中身を、宝石みたいに大切に扱ってくれる人が必ず現れるから」
沙倉が俺の肩にぽんと手を置く。
救いという名の死刑宣告に聞こえた。
この場所は、泥の中で拾った石ころを、わざわざ洗ってから砕く趣味があるらしい。自分の指先を見る。さっきまで汚らしいと思っていた自分の手が、高価な餌として意味を持ち始めていることに激しい嫌悪を抱きながら、俺は抗う術を持たなかった。




