第9話『転校生・織川律さんによる監禁④』
織川さんの侵攻は静かに始まった。
まず初手が打たれたのは、一限目の授業が終了した直後のこと。
「坂木さん。教科書の氏名欄を記入し忘れていますよ?」
閉じた教科書の背表紙を指差して彼女は言った。
確かに僕のズボラゆえ、所属クラスと氏名を記入する欄は真っ白なままだった。
「ああうん。こういうの放っておきがちで」
「お節介かもしれませんが、失くしたときに困ってしまいますよ? 代わりに私が書いておきますね」
織川さんは僕の教科書を引き寄せ、手にしたボールペンでスラスラと記した。
――『1年2組 織川透太』
僕が織川さんに婿入りしたらそうなるであろう名前だった。
軽率に攻めのチャンスを与えてしまったことを少し悔やんだが、僕はすぐに体勢を立て直す。
「織川さん。うっかりミスで名前が混ざってるよ」
「あっ、ごめんなさい。なんだかつい自然に手が動いてしまいまして」
「名前は手癖で書くものだからね。よくあるよくある」
僕はペンケースから修正液を取り出して速やかに訂正した。ここで迂闊に放置しようものなら、おそらく僕の私物は『織川透太』というマーキングで埋め尽くされる。
次の矢が放たれたのは二限目の授業中。
織川さんは自身のノートの片隅にまたしても『織川透太』と書き、なぜか画数を数えて姓名判断らしき行為を始めた。
そして『この上ないほどの運気』『生涯にわたって何一つ不自由しない』『最高の衣食住が常に保証される』『一途な伴侶がすべてを与えてくれる』――などと、姓名判断という建前のもとにこちらへのメッセージを送ってきた。
僕は彼女のノートを横目で窺うのをやめ、正面の黒板に集中することで乗り切った。
「そういえば、連絡先をまだ交換していませんでしたね」
そう言いながら織川さんがスマホを差し出してきたのが三限目の授業後。
彼女のメッセージアプリのアイコンは、かつて僕に嵌めたものと思しき犬の首輪の写真だった。
「……ふう」
そして四限が終わって今に至る。
織川さんが他の生徒たちから「お昼一緒に食べよう!」と群がられている間に、僕はそっと教室から避難したのだ。
この多目的棟の旧『1-8』教室に。
閉め切られた教室のように見えて、鍵の事情さえ知っていれば出入り自由。奇しくも今の僕にとっては絶好の隠れ家だった。
教室の後方隅で身を低くしていれば、廊下を通る者がいてもまず見つかることはない。
せめて昼休みくらいは心穏やかに過ごそう。
そう思ってスティックパンと牛乳をもしゃもしゃと味わっていたら、
「――やっぱりここにいたんだ、坂木くん」
危うく牛乳を噴き出しそうになった。
そうだ。この教室の鍵事情を知っているのはもう一人いた。この教室を舞台とした検尿窃盗事件の真犯人・和原なごみさんである。僕としたことが何たる不覚。
「ご飯、私もここで食べていいかな?」
和原さんはピンク色のランチクロスに包まれた弁当箱をひょいと胸前に掲げる。
断れる正当な理由もないので僕は「うん」とだけ頷く。
「見つかったら怒られちゃうから、ちゃんと隅に隠れるね」
そして彼女はずいっと僕の真横に座ってきた。
ほとんど完全に密着した状態。なんなら寄り掛かられているような体勢だ。
「ちょっと詰めすぎじゃない?」
「ううん。しっかり用心しないと。もし先生に見つかったりしたら、私たちがこの教室の鍵を壊したなんて誤解されちゃうかもしれないよ?」
まあ、それは誤解ではなく事実だけども。
「それはそうと坂木くん。パンと牛乳だけなんて身体によくないよ? もちろん牛乳は栄養豊富だけど、それだけで全部賄えるわけじゃないから」
そう言って和原さんは弁当箱を開くと、ミニトマトを箸でつまんで僕の前に差し出してきた。
「はい、少し分けてあげるね」
「あ、うん」
僕は掌を皿のように広げてミニトマトを受け取る意志を示したが、和原さんはこれを無視して僕の口元へと箸を寄せる。どうやら俗にいう「あーん」をしたいようだ。
僕は抵抗を諦め、ぱくっと無造作にミニトマトを口に取る。
「どう?」
「美味しいよ。ありがとう」
他意なく素直にお礼を言うと、和原さんは嬉しそうににこりと微笑んだ。
「私ね、ミニトマトが結構好きで。家で栽培してみたりもしてるの」
「へえ、そうなんだ」
「知ってる? ミニトマトって土壌の塩分に強いんだよ。なんなら少し塩分があった方が甘く美味しく実ったりするんだって」
唐突な農業豆知識の披露と同時、その場に軽い緊張が走った。
塩分。よりにもよってこの教室でその話をされると、頭に浮かぶのは例のブツしかない。
「たとえば。たとえばだよ? 『とても大事だけど、長期保管すると品質の劣化懸念がある塩分を含んだ液体』がある場合……ミニトマトの糧にして、美味しくいただくのも選択肢の一つだと思うの」
「思い出の南国ビーチで汲んだ海水とかかな?」
「秘密」
和原さんは人差し指を唇に当てて、妖艶に小首を傾げてみせた。
「ちなみに、まだ収穫の時期じゃないから今日のはお店で買ってきたミニトマト。自家製のが獲れたらまた一緒に食べようね」
「楽しみにしておくよ」
まあ、この程度の話ならそこまで動じる僕ではない。過去に食してきた呪詛的なお菓子なんかに比べたら遥かにマイルドといえる。
というより、むしろ意外だった。
正直、和原さんくらいのレベルだったらミニトマトなんてワンクッションを挟まずダイレクトに――……なんて危惧を少しばかり抱いていた。我ながらなんと失礼な発想か。そこまで想像上の和原さんをクレイジーに貶めていたことを反省したい。
「卵焼きも分けてあげる、はい」
反省に俯いていると、再び和原さんが箸を伸ばしてきた。今度は美味しそうな厚焼き玉子である。もはや恥ずかしがる方が恥ずかしいので、吹っ切れて普通に食べる。
「どう?」
「出汁が効いてて美味しいよ。個人的に好きな味かも――あ、そうだ」
そこで僕はスティックパンの袋を和原さんに向けた。
「もらってばかりじゃ悪いから、和原さんもパンを一本くらいどうかな? チョコチップ入りだから食後のおやつにもなるよ」
「いいの? ありがと。でも私はそこまでたくさん食べられないから……」
和原さんは床に置いていた僕の牛乳パックを指差した。
「代わりに、そっちの牛乳を一口だけもらってもいい?」
飲みかけの牛乳をリクエストとは、なかなか珍しいシェア提案である。
とはいえドリンクごしの間接キスなら今朝でもう免疫が付いている。ここで躊躇っては隙を見せるだけ。
「はい、好きなだけ飲んでいいよ」
「ううん。一口だけで十分。坂木くんの貴重な栄養源だから」
和原さんはストローを深々と咥えた。
パックが全然凹まないから、たぶん牛乳は吸っていない。ストローだけを味わっている。
長い長いテイスティングタイムの後、和原さんは「ごちそうさま」と口を離す。
「知ってる? 牛乳って牛さんの血からできてるんだよ。だから栄養があるの」
そして再び和原さんが不穏な豆知識を語り始める。
「ああ、なんとなく聞いたことはあるかも」
「すごいよね。血がこんなに美味しくなるなんて。生命の神秘だよ」
和原さんは遠い目をして天井を眺め、ポエムを口ずさむようにこう続けた。
「もし坂木くんからお乳を搾れるとしたら、どんな味になるのかな……?」
前言撤回。
ちゃんとしっかりクレイジーだった。
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