第3話『保健委員・和原なごみさんによる窃盗③』
「ねえねえ透太。アンタ昨日、検尿忘れて再提出の呼び出しくらったんだって? 相変わらずドジよね~。笑っちゃうわ~」
検尿窃盗事件の翌朝。
僕は自宅の隣に住んでいる同級生の女子――小宮山佐智さんと並んで通学していた。
彼女は僕を揶揄うようにケラケラと笑い、竹を割ったように快活な口調で話しかけてくる。
「さすがに少し恥ずかしかったよ。今度からは気を付けなきゃ」
「どうだか。どうせ三日もすれば忘れちゃうんでしょ。アンタってば本っ当に昔からいい加減なんだから。いっつもそう」
「うん。ちゃんとしようと心がけてはいるんだけど」
「ま、教科書とか忘れたら言いなさいよ。100円で貸してあげるから。お隣さんのよしみで」
小宮山さんは僕の背中を気安くばしばしと叩いてくる。
それに「お金取るんだね」と苦笑で応じる僕。
さて。ぱっと見れば、これは気心の知れた長年の友人同士のじゃれあいのように映るだろう。
だが、一つだけ念を押しておきたい。
確かに僕と小宮山さんは確かに互いの自宅が隣接している『お隣さん』である。
しかし――僕がこの街に引っ越してきたのは遡ること二か月前。高校入学直前の春休みなのだ。
つまり、僕と小宮山さんの『お隣さん』歴もたった二か月に過ぎない。
だというのにこの距離感。何なら引っ越し翌日にはこれだった。
僕のことを『透太』と下の名前で呼んでくる女子は彼女くらいなものである。
とはいえ現状、ただ距離感がバグっているだけの子という可能性も否めない。
違和感はあるものの明確に異常とまではいえないので、ひとまず静観している形だ。
「あ、そうだ。なんか昨日アンタが放課後に女子とキスしてたって噂を聞いたんだけどマジ?」
「ぶっ!」
さすがに僕は噎せ返った。なんだその突拍子もない噂は。
「してないよ……いったいどこで聞いた噂?」
「普通に友達から。昨日の放課後、昇降口でアンタと小柄で可愛い女の子がキスしてるっぽい感じで密着してたって」
おそらく、和原さんがドス黒い眼差しで僕に圧をかけてきたときだろう。
鼻息が感じられるほど詰め寄られていたから、遠目にはキスと見られても仕方ない。
「違うよ。うちのクラスの保健委員の子で――僕が検尿を忘れたことについてちょっと話をしてたんだ」
「ふぅん。注意されたとか?」
「まあ、だいたいそんな感じ」
「熱心な子なんだねえ」
僕は曖昧に頷く。実際、熱心といえば熱心だった。
執拗に「犯人は誰だと思う?」と聞いてくる彼女に対し、最終的に僕は「今日はこの後ちょっと用事があるからごめん」と一時撤退するしかなかった。
生半可なスルーでやり過ごせる相手ではない。
「変な噂が広まったら相手にも失礼だから、誤解だって伝えておいて」
「なぁーんだ。結局、アンタに春が来たわけじゃないんだ。残念だったねえ」
腕組みをしながらしたり顔で頷く小宮山さん。
そして彼女は冗談めかした笑みを浮かべる。
「クヨクヨするな少年。もしお互いに30歳まで独身だったら、妥協でアタシが引き取ってあげようとも」
「ははは。遠慮しておくよ」
「お? なんだとコイツぅ」
脇腹にぺしっと肘鉄砲が浴びせられる。
思った以上の威力に僕がたまらず身を捩った、そのとき。
「おはよう坂木くん」
背後。ジットリとした湿っぽい声に振り返ると、そこには笑顔の和原なごみさんが立っていた。
「偶然だね。たまたま通学路で会っちゃうなんて。本当に偶然」
「……そうだね、おはよう」
おそらく偶然ではない。昨日の放課後に校門前で別れたとき、和原さんは僕と反対方向に帰っていった。校門よりずいぶん手前のこの位置で出くわす偶然があるとは思えない。
和原さんが待ち伏せでもしていない限りは。
と、そこで和原さんの視線が小宮山さんの方にじろりと向く。
「ところで坂木くん。そっちの女の子は――?」
「おっとぉ!」
みなまで言うな、とばかりに小宮山さんが掌を前に突き出した。
「心配ご無用。アタシはただのお隣さんの腐れ縁だから」
「……腐れ縁?」
「そ。もう家族同然というか? いわば姉と弟みたいな感じ?」
絶対にそんな間柄ではない。たった二か月やそこらで縁というものは腐れるほど熟成されない。
大仰な仕草で小宮山さんはくるりと身を翻す。
「ってなわけで透太。アタシは先に学校行っててあげるから、二人でゆっくり登校しておいで」
「いや、別にそういうのじゃ」
「いいからいいから」
小宮山さんが僕の口に掌を被せ、反論を塞いでくる。
それから――小声で呟く。ほんの少しだけ切なげな表情となって。
「アタシに遠慮なんて……しなくていいから」
そして小宮山さんは逃げるようにその場から去っていった。
とりあえず彼女の警戒レベルを一段階上げておくことにする。
「なんだか誤解させちゃったみたいでごめんね」
すぐさまポジションを詰めるように和原さんが駆け寄って来て、学校への道を並んで歩き始める。
「でも、少しだけ助かっちゃった。だって他の人がいたら、事件の話ができないもんね?」
そう言う和原さんは不敵な笑みを浮かべている。
やはり事件の風化を許してくれるほど甘くはなかった。きっと彼女は『真犯人』が暴かれるまでは、何度でも話題を蒸し返してくるつもりだ。
「どうかな坂木くん? 犯人について思い当たることはあった?」
「いろいろ考えてはみたけど、小説の名探偵みたいに上手くはいかなかったよ。残念ながらさっぱりで」
「そっかあ。坂木くんなら名探偵みたいに上手く推理してくれると思ったんだけどなあ」
和原さんは淡々とした口調で相槌を打ってくる。互いに本心が別のところにあるのは分かっている。いわば水面下の攻防だ。
「そうだ。坂木くんに渡したかったものがあるの。昨日のお詫びに、手作りの……」
和原さんはそう言うと、ふいに自分のカバンを漁り始めた。
そこから取り出されたのは、
「はい。特製ドリンク」
ラベルを剥いだペットボトルに詰められた薄黄色の飲料だった。
なりふり構わない大胆なアプローチに、僕はごくりと生唾を呑む。
「私のせいで貴重な坂木くんの汁を無駄にしちゃったから。失った分の汁を補填してあげたいと思ったの。保健委員の務めとして」
「保健委員ってそういうものかな?」
「そういうものだよ」
「あと関係ないけど和原さん、汁って呼び方はやめよう。響きがよくない」
ちゃぷんとボトルの中で液体が妖しく波打つ。
「飲んでくれるよね? 心配しないで。黄色いのは添加したビタミンB2剤の色だから。変なものなんてちっとも入ってないから。それとも信じられない? 私のことを疑わしく思ってる?」
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
和原さんが一気呵成に攻めてこようとしたが、僕はすぐにキャップを開けてドリンクを流し込んだ。
舌に広がるのはごく平凡なスポーツドリンクの味。いや、市販のものより甘さが控えめでむしろ美味しい。
「疑ったりしないよ。和原さんが僕に変なものを盛る理由なんてないからね」
僕は口元を袖で拭う。これについては経験の勝利だ。
ヤバい女子が僕に何かを盛ろうとしているときは、だいたい目の輝きを見れば分かる。それこそ小学生のときの本庄さんとか。
今の和原さんの瞳には『何としてでもこれを摂取させたい』という仄暗い情熱を感じなかった。だから、あくまで僕の動揺を誘うためのブラフだと読めたのだ。
「……坂木くんが思ってるほど、私はいい子じゃないかもよ?」
分かっている。
十分に理解った上で知らないフリをしている。
「もしかしたら。髄液とか……絶対に漏れちゃいけないタイプの汁にも興味津々なタイプかもしれないよ?」
「かも、ね。あくまで仮定の話ね」
「そう。仮定の話。でも本当だったらどうする?」
どうとも思わない。
これは嘘でも虚勢でもなく本心だ。たぶん、未だに僕の本質は「ぼんやりした子供」の頃から成長していないのだろう。
どんなに変わった癖の女子を前にしても、その行動の根底にあるのが「好意」と分かるのなら、途端になんだか毒気が抜けてしまう。
「あんまり突飛すぎて困るな。和原さんの真面目なイメージとかけ離れすぎてて、とても想像できないよ」
だが――僕はその本心から目を背ける。
確信がある。
ここで僕が和原さんが「そういう子」だと指摘してしまったら、きっと彼女は行くところまで行ってしまう。まだ体裁としてはギリギリ常識人を装っている彼女に、何もかも捨てて吹っ切れる一押しをしてしまう。
そうさせてはならない。かつての悲劇を繰り返してはならない。
「……大丈夫、僕には分かってるよ。どうして和原さんがここまで親身に事件のことを気にかけてくれるのか」
「本当?」
「現場は密室で、最後に鍵をかけたのは和原さんだ。あらゆる動機を無視して状況だけ見れば、和原さんに疑いの目が向くことだってあるかもしれない。だから真相をはっきりさせておきたいんだろう?」
空気に若干の緊張が走る。
互いの歩調が緩やかになり、やがて向かい合って立ち止まる。
「うん、そうだね。もしも私が犯人だったらすごく簡単に盗めるよね」
「もちろん和原さんが犯人だなんて思ってないけどね」
「どうして断言できるの?」
和原さんは深く深く首を傾げた。
「根拠もなく私情で判断するのはどうかと思うな。ニュースでよく見るでしょ? 犯罪で捕まった人の知り合いが『そんなことをする人には見えなかった』って取材に答えてるシーン。人を印象だけで判断しちゃいけないの。客観的かつ冷静に判断すべきなの。現場の密室から検尿を盗む機会があった最も疑わしい人物は誰なのか――」
「それなら、もう一度現場を確認してみない?」
和原さんの熱弁を遮って僕は提案に指を立てた。
「今から調べてみようよ。本当に現場は密室だったのか。もしその前提が崩れれば、和原さんを疑う理由はどこにもなくなるから」
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