第27話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布⑫』
織川さんもまた怪文書を表彰状のごとく構えた。第二波が来る。
「先に謝らせてください坂木さん。いつか私はあなたを押し倒してしまうでしょう。今はまだ乙女としての恥じらいにより踏みとどまっていますが、あなたへの恋情は日に日に高まっていくばかりです。この恋情が臨界点に達したとき、残念ながら私は己をセーブできる自信がありません。つきましては来るべき日に備え、この書面にて坂木さんへの補償内容を予め提示させていただきたく思います。まず大前提として、坂木さんの身柄はしっかりこちらで娶らせていただきます。責任は取ります。また、一生涯において衣食住には決して不自由させないと誓います。あらゆる面で最高品質のものを保証しましょう。もちろんお小遣いも言い値でお支払いいたします。労働に囚われることなく盛大に趣味や遊興をお楽しみください。ただし一点だけ、決して担保というわけではないのですが、坂木さんからこちらに預けていただきたいものがあります。それは――人間としての『尊厳』です。誤解なさらないでください。恒久的に尊厳を捨てろと言っているわけではありません。ただ、伴侶である私と二人きりでいるときだけは、一時的に尊厳を忘却の彼方に葬り去っていただきたいのです。ホモサピエンスという窮屈な軛から解放されて欲しいのです。浮世のしがらみも社会の常識もすべて忘れて。いかな縛めからも解放された純粋無垢なる存在として私に接して欲しいのです。それこそまさしく、どんな仮面も被らない真実の愛といえるのではないでしょうか。辱めたいわけではありません。もしあなたが望むなら私も喜んで尊厳を棚上げしましょう。互いに人間であることを忘れてしまいましょう。ああ――なんて甘美な。本当に坂木さんは罪深い方です。あなたと出会ってしまったせいで私はこんなに強欲になってしまったんですよ? ほどほどの愛で満足できる人生だってあったかもしれないのに。あの日のあなたが私の心を満たして満たして満たしてしまったから。それ以外なんてもう考えられなくなってしまったから。なので、たぶんいつか襲ってしまうと思いますがご了承ください。この書面は事後の補償の誓約書となっていますので、大事に大事に保管しておいてくださいね。幸せにします。そして私も幸せになります。誰よりも愛する坂木さんへ」
ツヤツヤした顔で織川さんが読み上げ終わった。
怪文書というより犯行予告だったかもしれない。今後は夜道によく気を付けておこう。
「――みんな、分かってくれたかな?」
一拍置いてから僕は改めてギャラリーに問いかけた。
返答はない。ほぼ全員が無言のまま引き攣った顔をしている。和原さんと織川さんが渾身の熱量で読み上げた怪文書は覿面に効果を発揮したようだ。
「信じがたいだろうけど、本当にいるんだ。僕を狙っているストーカーが」
誰も異論はないようだった。
僕を嗜めるため近くに歩み寄っていた嵯峨野も、迫真の表情で生唾を呑んでいる。
「違うもんっ! そんな怖い人がいるのかもしれないけど……わたしは……わたしは演技なんてしてないっ! そんなの関係ない!」
だが、一人だけこれだけでは絶対に納得しない少女がいた。
この騒動の発信源である小宮山佐智さんだ。
彼女にとって『坂木透太の幼馴染』というポジションは容易く手放せるものではない。どれだけ矛盾が生じようと、厳しい立場に立とうと、意地でも死守をしようとしてくる。
――ならば僕がなすべきは何か。
事実を並べての論破など論外。そんなものは何の解決にもなりはしない。ただ小宮山さんの破滅を招くだけだ。
「ねえ、小宮山さん」
「やめてよ透太。なんで変なことばっかり言うの? わたしたち……昔からずっと一緒だったよね?」
「ううん。僕らが出会ったのはほんの二か月前だ」
死刑宣告を受けたように愕然とした顔を小宮山さんが浮かべるが、
「だけど」
僕は拳を握った。演技ではなく心から。小宮山さんを救いたいと、そう願って。
「小宮山さんは僕がこの街に引っ越してきてすぐ、昔馴染みみたいに気安く接してくれた。見知らぬ街に来て不安だった僕の、最初の友達になってくれた」
そこに何ら嘘も誇張もない。だからこそ僕は魂を込めて熱弁する。
小宮山さんはアイデンティティがコロコロと移り変わる。いきなり僕の幼馴染になったり、急に面白系の女子から可愛い系の女子に変貌したりする。
それはひとえに――小宮山さんが本来の自分に自信がないのだと思う。
本来の自分の自信がないから、妄想の殻にこもって別の自分になる。別の設定を生やす。そんな臆病とすら思える乙女心こそが、彼女の妄想を統べる行動原理なのだ。
だからこそ、僕が彼女に告げるべき言葉は一つしかない。
「そして、ストーカーに悩まされて苦しんでいた僕のために……自分がどう思われるかなんて外聞も気にせず、『結婚を約束した幼馴染だった』なんて。そう偽って、僕を守ろうとしてくれた」
「ち、違。演技なんかじゃ」
「だからね、僕はこう思うよ」
本当に――心の底から。
僕みたいな何の変哲もない男子に、それだけ思いを寄せてくれる子がいるなんて。
「僕がこの街に来て、最初に友達になってくれた『お隣さん』が小宮山さんでよかったって。たった二ヶ月の付き合いの僕のことを、ここまで大切に想ってくれる――とっても優しい女の子と出会えて、本当に僕は幸せだと。そう思うよ」
幼馴染なんかじゃなくたって。
出会ってたった二ヶ月のお隣さんの『小宮山佐智』さんだからこそ。ありのままの、そんな縁をこそ僕は本当に得難く思っているのだと。
どんな手管を尽くしてでも、彼女に僕のその気持ちだけは伝えないといけないと思った。だから――
「ここまでにしよう小宮山さん。じゃないと僕は大切なお隣さんがいなくなって、すごく寂しくなってしまうから」




