第24話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布⑨』
無軌道といえるほど豪快に妄想を吹聴している小宮山さんだが、彼女にも彼女なりの『越えてはならない一線』があるのは何となく窺える。
夏美さんの発言が貴重なヒントになった。小宮山さんは『幼少期からの幼馴染』『過去に結婚の約束をした』なんて虚偽を並べてはいるが、一度も『交際している』という言葉は発していないらしい。
自身のアイデンティティすら侵食するあの妄想強度を見れば、既に僕と『学生結婚を済ませていて来月に式を挙げる』なんて設定になっていてもおかしくない。
だが、実際はそうなってはいない。それは小宮山さんの潜在意識の中に『告白だけは真実であって欲しい』という願いがあるからだろう。そこまで妄想であっては意味がないと。
だから僕との過去を捏造したり、惚気話で交際を匂わせても、具体的に明言はしない。
あくまでも埋めるのは外堀のみ。外堀を徹底的に埋め尽くした上で、諦めた僕が自ら愛の言葉を口にするのを待っている。さながら蟻地獄のように。
――ならば、ここは敢えてその思惑に乗るとしよう。
「すいません。授業中に失礼します」
午後の授業の真っ最中。
トイレと偽って教室を抜け出した僕は、隣の一組にカチコミをかけていた。
時間割は調査済。ちょうど古典の授業中だった一組には、生徒一同に加えて担任の強面黒眼鏡も揃っている。
「……坂木か。どうした?」
黒板にチョークを立てながら、黒眼鏡がその強面で僕を見据える。
「一組のみなさんに連絡事項がありまして。少し教壇に上ってもいいですか?」
「連絡事項? 緊急のものじゃなければ後にしろ。授業中だぞ」
「いいえ、間違いなく緊急です。少なくとも僕にとっては」
許可を待たずに教壇へ上り、一組担任の立つ教卓へと歩み寄る。
小宮山さん絡みの案件とは察しているのだろう。洗脳下にはあっても教師としての矜持は残っているのか、非難めいた顔で僕を見ている。
「あのな。応援するとは言ったが、時と場合を考えろ。そういうのは休み時間にでも――」
担任の説教を無視し、僕は宣戦布告のごとく教卓を「ばんっ!」と両手で叩いた。
「小宮山さん! 今日の放課後、すごく大事な話があるんだ! どうか多目的棟裏の花壇スペースに来て欲しい!」
一瞬にして教室が静寂に包まれた。
しかし、いきなりトチ狂った告白をかました他クラスの馬鹿に呆れ果てているわけではない。沈黙する一組の生徒たちの視線は、恐ろしいほど一様に――ある生徒へと向けられていた。
小宮山佐智さんである。
『今、真っ先に声を返すべきは小宮山さんだ』。そんな共通認識のもとに、誰一人として茶化すことも囃し立てることもなく、ただ熱心に彼女の反応を見守っている。なんという統率力か。
「え、えっとっ。そのっ。う……うん。それじゃあ……放課後。そこで待ってるね」
やがて煙を噴きそうなほど顔を真っ赤にした小宮山さんが頷くと、時間停止の魔法が解除されたかのように一組の総員が歓声を上げた。高々と拳を掲げてジャンプする男子。涙目で感動する女子。授業なんかやってられるかとばかりに教科書が宙を舞い、開け放たれた窓から歓喜の指笛が青空に響く。これが青春映画なら五秒後くらいにスタッフロールが始まりそうな光景だ。
「静かにせんかぁっ!」
だが、ここで一組担任が教育者としての意地を見せた。
拳でごんと黒板を殴り、浮かれ切った教室の空気を一発で沈静化させたのだ。
「席に着け。教科書を拾え。弛んだ顔を引き締めろ。いいか、これから授業を再開するからな。休み時間と勘違いした輩には容赦なく追加課題だぞ。そして坂木」
ヤクザめいた黒眼鏡が僕を睨む。もとより覚悟はしていた。こんな無法をかまして無事でいられるとは思っていない。鉄拳制裁に備えて奥歯を噛みしめる。
「反省文だ。自分がどれだけ愚かで馬鹿らしいことをしたか、頭を冷やしてから文章に纏めてこい」
提示されたのは意外にも穏当な罰だった。まあ、それもそうだ。今は令和である。体罰は普通にいろいろコンプライアンス的にまずい。
「分かりました……。提出は明日とかでもいいですか?」
「何を言っている」
僕を睨みつける黒眼鏡の下から、ふいに一滴の雫がこぼれた。
「反省文は……お前たちがいずれ挙げる式の招待状にでも同封しろ。どれだけ愚かで馬鹿らしく――それでいて輝かしい行為をしたか、盛大に懐かしみながら書にしたためろ。提出される日をしかと待っているぞ……」
この人はもう本格的にダメみたいだった。
強面の担任が見せた思わぬヒューマニティに一組の生徒たちが沸き上がる。担任はそれを止めようとするが、止め処なく溢れる涙のせいでそれも叶わない。一組って楽しそうでいいな、と僕は他人事のような感想を抱いた。
「じゃ、失礼します」
喧騒に沸く一組を、僕は早々と離脱する。
二組に戻ると、隣のクラスから響いてきた謎の歓声に多くの生徒が困惑していた。僕はただトイレから戻って来ただけという感じの素知らぬ体で席に座る。
そして、現在の二組に和原さんと織川さんの姿はない。
織川さんが体調不良で保健室に行き、保健委員の和原さんがその付き添い役に当たっている――そういうことになっている。
(僕だけじゃこの窮地はどうにもならない。だから……信じてるよ)
僕は何食わぬ顔を装って、そのまま授業の席に就いた。
(ただ第三者を巻き込んだか否かの違いだけで。和原さんと織川さんの熱量そのものは――小宮山さんに少しも負けてないって。信じてる)




