第22話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布⑦』
「あ、さっちゃんの彼氏さん。どーもどーも!」
一組担任を置き去りに撒いても、依然として危機は続いた。
朝の教室に辿り着いた僕を迎えたのは――とんだ誤情報を大声で叫ぶ少女だった。
一組に在籍している嵯峨野の義妹さんである。空いていた僕の席に座って、後ろの義兄に絡んでいたらしい。
「ほら、坂木が来たんだからさっさと教室戻れ」
「うっわ~! 照れ隠しにわざとウザがってる感じが見え見えで逆にダサい!」
僕の席から立ち上がった義妹さんは、それでも嵯峨野の周囲をからかいながらチョロチョロしている。
「ちょっと待って。ええと、嵯峨野の義妹さん?」
「嵯峨野夏美。兄ちゃんと紛らわしいならなつみんでいいよ!」
「いいわけあるか距離感を考えろ」
呆れたように頬杖をつく嵯峨野の背中を義妹さんが勢いよく叩く。嵯峨野が噎せる。
「えーと……夏美さん。僕が小宮山さんの彼氏だっていう情報はどこから?」
「え? どこ情報っていうか、うちのクラスは普通にみんな知ってるよ」
「『普通に』っていうのは? 具体的な情報の発信源は?」
「だって見てれば分かるし。あれで隠してるつもりなら全然ダメだよ」
ぷぷっと可笑しそうに夏美さんは笑った。
「さっちゃんが彼氏さんのことを話すたび、もう幸せオーラ全開のお惚気口調だもん。もう聞いてるだけで胸焼けしちゃうくらい。あれを聞いて『付き合ってない』って思う方が無理無理」
「つまり……僕らが付き合ってるって明確な言質はどこにもないんだね?」
「たぶん。でも付き合ってるんでしょ?」
「決して全肯定はできないというか……」
僕が返答を躊躇っていると、夏美さんは愕然とした表情となった。
「まっ、まさか……? あの感じでまだお互いに告白前ってこと……? 彼氏さん。それはあまりにも奥手すぎでは!?」
「大人ってこういうとき酒とか煙草に手ぇ出すのかな」
「うるさいから黙ってて兄ちゃん」
ふてくされた嵯峨野を軽く睨んでから、夏美さんが僕の肩にぽんと手を置く。
僕に向けてくるその熱い視線は、男泣きした一組担任のそれとどこか似ていた。
「おっほん、彼氏さん。差し出がましいことを言わせてもらいますけども――あんまり待たせちゃダメだよ! 幼馴染だって油断してたら何が起きるか分からないんだから!」
「あ、うん。ええと」
「ごめんっ。なんだかちょっと熱くなっちゃった。それじゃっ、もうホームルーム始まるし戻るね!」
スカートを翻して元気よくダッシュで去っていく夏美さん。
期せずして貴重な一組生徒のサンプルを観察できた。もうあのクラスはダメかもしれない。
「夏美のアホが馴れ馴れしくてすまん」
葬儀の席みたいに重苦しい声で嵯峨野が謝罪を告げてきた。
僕は席に着きながら「ううん」と短く首を振る。
「元気で友達想いのいい義妹さんじゃないか。楽しそうで羨ましいよ」
「俺はお前の方が千倍も万倍も羨ましい。なんだもう幼馴染とほとんどカップル成立状態って。さてはわざと付き合う前のハラハラ状態を楽しんでやがるなこの野郎」
「ははは、よく考えてみてよ嵯峨野。僕みたいに平凡な男子に、そんなドラマみたいな話があると思う? きっと一組のみんなは揃いも揃って何か盛大に勘違いをしてるんだよ」
これまで和原さんや織川さんとの仲を疑われたときも、嵯峨野は適当な言い訳で誤魔化すことができた。今回も同じようにしたいところだったが、
「――気ぃ遣うな。悪いことは言わねぇから、そんなヘラヘラと誤魔化してないでさっさと付き合っとけ」
気障な笑いを浮かべながら嵯峨野が言った。義妹さんから情動の感染が広がっている。もう彼も手遅れのようだ。
「俺にも子供の頃、幼馴染とまでは言えんがそこそこ仲のいい女子はいたんだけどな。この歳になったらもう完全に疎遠になっちまった。気の合う幼馴染の異性ってのはそれだけ貴重なんだよ。愛想尽かされて後悔してからじゃ遅いぞ」
へっ、と彼は照れくさそうに鼻を擦る。本当に余計なお世話だから口を謹んでいて欲しいが、善意ゆえの言葉というのは分かるので遮り辛い。
「へえ、嵯峨野にもそんな仲の幼馴染がいたんだ」
なので、言葉の端を突いて話題の方向転換を試みる。
「だから幼馴染ってほどじゃねえよ。小学校の途中で海外に転校してって、それっきり一度も会ってねえ」
「へえ、海外……? それはまた遠いね」
「おう、なんか有名なピアノコンクールで入賞したとかで、音楽留学ってやつだな。まだ子供なのにすげえ奴だったよ」
ここで僕は何らかの予感を覚えた。
「本当に今は疎遠なの? 実は交友が続いてたりするんじゃない?」
「だから続いてねえって。ああでも……一時帰国するとかで、こないだ演奏会の招待状が来たな。でもあんなの知り合い全員に送ってるだろうし、交友とは言えねえだろ」
しかしなあ、と嵯峨野は思い出し笑いを見せる。
「よっぽど人が集まるか不安なんだろうな。『来ないと殺す』って冗談メモが入ってたぞ。心配しなくてもあいつの腕なら集まるに決まってんのに」
「ちゃんと行ってあげた方がいいよ」
「うーん。向こうは覚えてないだろうが、俺の方は少し気まずいんだよな。最後に喧嘩しちまって。それというのもあいつが直前でやっぱり行きたくないとか駄々捏ねるから、もったいねえって怒っちまって……」
「うん。絶対行った方がいい」
僕の経験上、そこで行かなかったら本当に殺されるかもしれない。嵯峨野には少し警戒感というものが足りない。世の中にはいろんな女子がいるのだ。
「そこまで言うなら分かった。席が埋まった方がいいだろうし、夏美のアホも連れて行った方がいいよな?」
「絶対に一人で行った方がいいよ」
「そうだな。あいつピアノとか聞いてると寝そうだしな」
なんとか嵯峨野の興味の矛先を逸らすことには成功した。
僕が一息つきかけたそのとき、
「ね、ね。小宮山さんて一組の元気な子だよね?」
隣の席の――織川さんとは逆方向の女子が急に話しかけてきた。校則違反ギリギリに髪の毛を明るく染めた、ちょっと僕とは縁の遠いタイプの派手な子である。
「ああ、うん」
「へー! 最近いきなり可愛くなったからどうしたのかと思ってたんだけど、そういう事情だったんだ!?」
「いや……」
「おめでと! 大事にしてあげなよ!」
びしっと指を差される。
嵯峨野一人の意識を逸らしたところで焼け石に水だった。現在進行形で誤情報が伝播していく。しかし、僕には何ら有効な対処手段がない。
(もしも、僕が小宮山さんの言うことを肯定すれば、誰も傷つけずにハッピーエンドを迎えられるんじゃないか……?)
ふいに心が安易な逃げ道を求める。
ここまで第三者を巻き込んだ今となっては、もうそれしか手段はないと思える。
たとえ妄想癖があっても、小宮山さんは魅力的な女子だ。『偏執的アプローチに成功体験を与えてはならない』という僕の私情を除けば、交際を断る理由はどこにもない。むしろ魅力的なパートナーと幸せな日々を送れることになるだろう。
誰も不幸にしないため、僕の信念ごとき棚上げしても――
そのとき、僕はぞわりと背筋に寒気を覚えて振り向いた。
逆サイドの隣席の織川さんと、窓際の席の和原さんを。
筆舌に尽くしがたい瞳をしていた。
喩えるなら黄泉平坂。マリアナ海溝。あるいはブラックホール。僕の語彙では足りないが、すべてを闇に葬る深淵のような瞳が四つ並んでいた。
そしてその瞳を見た瞬間――弱気に流れていた僕の心に小さな火が灯った。
(ありがとう、二人とも……!)
僕は二人のアプローチを鈍感にやり過ごした。
イエスと応じることもノーと拒否することもなく、彼女たちの好意をただ無視して終わらせた。そんな卑劣を続けてきた男が、抜け駆けして幸せになっていいはずがないのだ。
そんな当たり前の事実を、二人は強い眼差しで僕に叩き込んでくれた。
(絶対に諦めない。きっとまだ手段はある。ここから全部なかったことにしてみせる)
ドス黒い四つの瞳に、僕は感謝の念を込めて軽く拳を握ってみせた。
感謝のメッセージが伝わらなかったのか、瞳はますますドス黒さを増すばかりだった。




