第21話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布⑥』
僕に『小宮山佐智』なんて幼馴染はいない。
いなかったはずだ。おそらくいなかったと思う。少なくとも記憶にはない。忘れているだけかもしれない。だって向こうはあれだけ本気だったのだから。僕の方が間違っている可能性も――ダメだ落ち着け、冷静になれ。
己の頬をばしんと挟み叩いて喝を入れる。
それから心を無にしてしばらく瞑想。
「……ふぅ」
学校に着いた僕は、朝の喧噪を逃れて旧『1-8』教室で頭を冷やしていた。
危ないところだった。さっきまでの僕は完全に小宮山さんのペースに呑まれかけていた。
彼女が話の途中でいきなり鼻血を垂らし、止血のためにお互い慌ててドタバタすることになったので、『あの約束』の話はそこで打ち切られた。
だが、もしもあのまま攻勢を続けられたらどうなっていたか。想像するだけで肝が冷える。
なんせ今の僕は、胸にチクチクするような罪悪感を覚えているのだ。
驚くべきことである。すべて小宮山さんの妄想と分かっていたのに、あれだけストレートな激重感情といじらしさを眼前で見せつけられたせいで、ないはずの『約束』を思い出そうと心を動かされてしまった。
そして、それを思い出せないことが――思い出せなくて当然なのだが――ひどく心苦しい。
(これは厄介だぞ……)
既に分かり切ったことではあるが、小宮山さんの癖はシンプルに『妄想癖』だ。
この世に数ある癖の中でも、本来ならばずいぶん危険度が低いタイプの癖といえる。基本的に頭の中で自己完結して、他人に被害を出さないからだ。
だが――小宮山さんは少しばかりレベルが違う。
自身の記憶や人格をも上塗りするほどの妄想強度。そして、それだけの熱量を帯びた言葉は聞く者の心すら大きく揺さぶってくる。
(いつまでこのままスルーを続けられるか……)
この調子で毎日のようにあの熱量をぶつけられ続けたら――いつしか小宮山さんの気持ちに応えたくなって、嘘でも『覚えてる』なんて言ってしまうかもしれない。
そうならないためにも、努めて自制心を強く保たねば。
先行き不安ではあるが、いつまでも空き教室に籠っているわけにはいかない。意を決して僕は二組の教室へと移動する。
「坂木」
と、廊下を歩いている途中で、いきなり背後から声をかけられた。そこに立っていたのは一組の担任である。サングラスみたいな黒眼鏡をかけた強面の古典教師で、居眠りをすればすぐに怒号を飛ばしてくる――端的にいうとあまり関わり合いになりたくないタイプの先生だ。
「ええと、何ですか?」
「来い」
賑やかな教室前から、人気の少ない棟の隅まで誘導される。何か校則違反をしただろうか。入学してから今まで怒られるようなことをした覚えはないのだが。
「うちのクラスの小宮山とお前の関係についてだが」
「…………あっ、はい」
そういうことか。あれだけ一組に情報汚染が広まっていれば教師の耳にも届くのが自然というもの。風紀を乱すなとこれから目玉を喰らうのだろう。
「言いたいことは分かるな?」
黒眼鏡に天井の照明を反射させ、恫喝のように一組担任が言う。
「なんとなくは……」
「なんとなくじゃない。はっきり言葉にしろ」
「僕と小宮山さんについて、風紀上よからぬ噂が流れている件ですよね……?」
「ああそうだ。その件だ」
一組担任は短く頷き、低い声で淡々とこちらを詰める。
「生徒間の交際を禁じるとは言わんが、あまり堂々と喧伝するな。学生の本分は学業だ。浮ついた空気が広まるのは好ましくない」
どう抗弁したものか迷う。すべてデマといえば小宮山さんの立場がどうなるか。いや、この場合は僕が見苦しい言い訳をしているだけと捉えられそうだ。
「その上で――」
そこで、唐突に一組担任が黒眼鏡を外した。
目の幅にたっぷりと涙を浮かべていた。
「先生は……先生は心からお前たちを応援しているぞ……。教師であるよりも前に、一人の人間として。なぜだろうな……? この前、小宮山に注意したはずだったんだが……あの子の言葉を聞いていると、無性にお前たちを応援せずにはいられなくなって……? とにかく生徒指導とかには上手く言ってやるから幸せにな……」
そう、事実無根と知っている僕ですら心が揺らいだのだ。
ならば、一組の生徒・教員が既に小宮山さんの掌握下にあることなど――何ら不思議ではなかった。




