第20話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布⑤』
本当は心のどこかで分かっている。
坂木透太は幼い頃から鈍感でぼんやりした少年だった。そんな彼が子供の頃の約束なんて、覚えているわけがないということを。
愛しい人と肩を並べて一緒に登校しながらも、小宮山佐智は内心で一抹の寂寥感を抱く。
もっとも、自分だって他人のことはいえない。幼い頃の佐智は色恋どころか男女の区別すら怪しい子猿も同然で、いつも土やら泥やらで服を真っ黒に汚して、毎日のように親から怒られていた――……
転機として思い返すのは、遠い過去の日の公園だ。
いつものように佐智がスコップとバケツを携えて泥遊びに勤しんでいたその日。まるでおとぎ話のお姫様が絵本から飛び出してきたような、あまりにも綺麗すぎて子猿の身ですら見惚れてしまうしかない女の子が公園を訪れていたのだ。
幼き日の織川律――りっちゃんだった。
すごいと思った。あんな風になりたいと思った。お話をしてみたいと思った。
ただ、あまりにもその子が煌めいて見えたから、眩しすぎて近寄ることができなかった。砂場でひたすらに高い砂山を作って、必死に必死にアピールして、向こうの方から話しかけてきてくれないかと待っていた。
「すごい砂山だね」
そう声を掛けられて、佐智はすかさず振り返った。
ついに来た。チャンス到来。お友達になれる。
だが――そこにたのはお姫様ではなかった。見覚えのあるぼんやりした男の子だった。
たぶん、隣の家に住んでいる男の子だ。そのときはその程度の認識だった。
それが当時の透太である。のちに誰よりも愛しい人になるとも知らず、そのときの佐智は大変にムスッとした顔になった。
「僕も一緒に作っていい?」
邪魔だと思ったので、佐智は近くに置いていたバケツを突き出してこう言った。
「水汲んできて」
「うん、分かった」
特に反論もせず、彼は命じるままに公園の蛇口で水を汲んできた。
礼も言わずにバケツを受け取って、佐智は砂山にスコップで水を塗り固めて補強を施した。
「どうすればこんなに大きくできるの?」
ぼんやりした男の子はめげずに尋ねてきた。
佐智はうるさいと思いながら、しかし自慢したい気持ちを押さえられずに胸を張った。
「アタシがすごいから」
えっへんと。
お馬鹿な透太は目を輝かせて、佐智のことを純粋な尊敬の目で見てきた。
つい先ほどまで鬱陶しく思っていたのに、なんだかその目の輝きで佐智は満足してしまった。
「水、ありがと」
「うん」
それからはお姫様の気を引くという目的も忘れて、二人で仲良く砂山を大きくし続けた。山が何度も崩れても、そのたびに笑いながら砂を固め直して。
「あー! もうやめ!」
「あはは。そうだね」
しばらく経った後、佐智と透太は泥まみれで砂場に倒れていた。
砂を積んでは崩れ積んでは崩れ。今にして振り返れば何が面白かったのかも理解できない。だが、あの頃は世界中のどんな遊びよりもそれが楽しかったのだ。
「とても楽しそうですね。私も混ぜてもらっていいですか?」
「んー? もう疲れたからやめ」
また誰かに声をかけられ、疲労困憊で身を起こした佐智が見たのは、
「では、また明日はどうでしょう? 私も仲間に入れてくれますか?」
憧れたお姫様。織川律の微笑む姿だった。
――それからしばらくの間は、本当に楽しい日々だった。
誰よりも綺麗なお姫様と。ぼんやりしているけれど一緒にいると不思議と楽しい男の子。
そんな三人で、いつも公園ではしゃぎあった。
そして、りっちゃんの服や仕草を間近で見ているうち、佐智もだんだんと身だしなみというものを覚え始めた。
あのときの出会いがなければ、もしかすると佐智は十五歳の今となっても粗野な性根を矯正できていなかったかもしれない。
幸せな日々はおよそ一年ほどだったか。
やがて、りっちゃんが東京へと引っ越すことになった。
いつもぼんやりしていた透太ですら、それを知ったときはひどく悲しそうだった。
だから思わず、佐智は励ますように口走ったのだ。
――わたしはずっと一緒にいるよ、と。
まだ愛も恋も知らなかった。一緒にいると楽しい友達でしかなかった。
でも、透太が悲しい顔をしているのがすごく嫌だったのだ。
「これ、透太にあげる」
そこで佐智は偶然ポケットに入れていたものを思い出した。りっちゃんのようなお姫様のような装いをしたくて、親にねだって買ってもらったプラスチックの指輪の玩具である。
「パパとママが言ってた。ずっと一緒にいる人は、指輪を交換するんだって。だから、透太にあげる。ずっとずっと離れないって約束する」
「……貰っていいの?」
「ううん、ただ貰うんじゃだめ。透太もわたしに持ってきて。一緒にいるって約束に」
透太は指輪をじっと眺めていたが、ややあってから頷いてそれを指に嵌めた。
「うん。今度、持ってくるね。一緒にいるって約束の指輪を」
――――――――……
卑怯な約束だ、と思う。
あの頃の彼は結婚という概念もよく理解していなかったろうし、佐智に対して恋愛感情も抱いてなかったと思う。
だから、忘れられて当然なのだ。
でも、それでいい。
佐智は己の卑劣さをよく理解している。その上で、これから彼に改めて正々堂々と勝負を挑むのだ。
たとえ透太が何一つ覚えていなくたって。
今この時点の自分を。『小宮山佐智』を好きになってもらって。嘘でもいいから彼の口から「覚えてるよ。結婚しよう」と言わせてみせるのだ。
「だから待ってる。透太が思い出してくれるまで、ずっと」
心の底からの愛の一節を佐智は言い放つ。
懐古の感情が高ぶるあまり、気づけば鼻血が口元を伝っていた。
読んでくださってありがとうございます!
ブクマ・感想・☆評価などで応援いただけると執筆の励みになります!




