第17話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布②』
「えっ……?」
織川さんは手を握られたまま呆然としていた。
当然である。三人で一緒に遊んだ記憶などあろうはずもない。幼少期の織川さんは今ほど外面の意識がなかったので、他の子供を排して僕と一対一でばかり遊んでいたのだ。
そもそも五歳当時、僕と織川さんが住んでいたのは東京だ。
まさか小宮山さんも同時期に都内に住んでいて、僕らと知らず知らずのうちに友達になっていたなんてことは――現実的にまずあり得ない話である。
「その……? 申し訳ありません、人違いではないでしょうか?」
「あ、そっか。あの頃のアタシって半袖半ズボンの泥んこオバケだったから、もしかして男の子とか思われてたかも?」
「いえそうではなく、本当に覚えがないのですが……」
「ごめんごめん、そうだよね。小っちゃかったから忘れてるよね普通。アタシだって今の今まで忘れちゃってたもん」
握った手を離した小宮山さんは、軽く謝るように片手で手刀を作った。
織川さんは未だに対応を迷っている。たぶん単なる勘違いではなく、何か様子がおかしいと察してはいるのだろう。
だが――快活に笑う小宮山さんには裏表がまったく感じられないのだ。
明け透けな態度はどこからどう見ても演技とは思えない。
だいたい思い出の当事者である僕や織川さんに「私も幼馴染だったよね?」なんて主張しても騙せるわけがない。何の意味もない嘘だ。
(つまり、小宮山さんにとってこれは『嘘』じゃない。本心から事実だと信じ込んでいる……!)
僕に偏執的なアプローチをかけてくる女性は、たいていの自身の異常性を自覚している。和原さんも織川さんもそうだった。
しかし、ごく稀にまったく自覚のないタイプがいる。ある種の天然とでもいうべきか。その身にとんでもない狂気を内包していながら、自分のことを平凡な常識人と自認して疑わないのだ。
(いきなりギアを上げてきたのは、おそらく本物の幼馴染の織川さんが現れたから。『幼馴染』という妄想上のポジションを死守するため、急遽『三人で一緒に遊んでいた』っていう設定が生えてきたんだ)
それにしても妄想の瞬発力が凄まじい。『僕と織川さんが幼馴染』と知った後、二秒ほどのフリーズだけで立て直してきた。勉強は苦手と言っていたが、地頭はかなりいいのかもしれない。
「小宮山さん。そろそろホームルームの時間だし一組に戻った方がよくないかな?」
僕は教室の時計に視線を向けながら提案する。
織川さんとの会話を長引かせるのは得策でない。矛盾が露呈するたび設定が追加されるなら、小宮山さんのアイデンティティがどうなってしまうか分からない。
「あぁん? まだ五分もあるでしょ」
「ほら、五分前行動ってよく言うし」
「ははーん。さてはアタシをお邪魔虫と思ってるなぁ?」
小宮山さんは揶揄うようにニヤニヤと笑い、和原さんと織川さんを横目で交互に見た。
「ま、そういうことならしょーがない。おとなしく退散してあげますよっと。あと教科書ありがと」
「うん、どういたしまして」
小宮山さんが後ろ手を振って去っていく。嵐が通り過ぎていったかのようだった。
「三人とも幼馴染だったの?」
荒らしの後の沈黙を破ったのは和原さん。若干の疎外感を覚えているのか、どこか目が曇っている。
「たぶん……何かの勘違いだと思う。だよね織川さん?」
「ええ。私と坂木さんがいたのは東京ですし……」
「そのときにあの子もいたんじゃないの?」
小宮山さんがあまりに堂々と語っていたため、和原さんは少しばかり信じかけているようだった。
「和原さん、冷静に考えてみて欲しい。小さい頃に東京で遊んでた三人が、その後まったく違う土地のこの高校に偶然三人とも集まるなんてことがあると思う? きっと小宮山さんは、よく似た誰かと思い違いをしてるんじゃないかな。小さい頃の記憶なんて曖昧なものだから」
いつもの調子で僕が詭弁を並べると、その態度で和原さんはようやく察したようだった。
「――そういうことだったんだ。ちょっと先走っちゃう子なんだね」
「うんうん。『ちょっと』だけね」
「誰にでもそういう側面はありますよね」
僕は深呼吸して思考を整える。
大丈夫だ。小宮山さんがヤバい子だということが今ここで確定したが、焦ることはない。彼女は幼馴染っぽく振る舞っているだけで、犯罪的行為に手を染めたりする気質とは見えない。迂闊に設定を追加させることなく現状維持を心掛ければ、このまま無害な関係性を保てるだろう。
和原さん&織川さんと目線で無言の意志共有をしたところで、僕らはホームルームに備えてそれぞれの席に戻る。
「……うーっす」
そこで後ろの席の嵯峨野が遅刻ギリギリに教室へ滑り込んできた。
どうやら最近、陸上部の義妹さんの早朝ランニングに付き合わされているらしい。朝から既に疲労の色が濃い。
「おはよう嵯峨野。大丈夫?」
「無理。死ぬ」
「たまには一緒に走るの勘弁してもらったら?」
「そりゃダメだろ。朝っぱらの人気のねえ時間に義妹一人で走らせて、もし何かあったらどうすんだ」
苦虫を噛み潰したように面倒臭そうな表情でこれを言うのだから、本当に大した奴だと思う。
さらに嵯峨野は機嫌悪そうに机へと突っ伏す。
「やってらんねえよ。俺もお前みたいに華やかな青春が送りたかった」
「華やかって……誤解だよ。こないだ説明しただろう?」
和原さんや織川さんとの仲を疑われたとき、嵯峨野は適当な方便で納得させたはずだが。
「一組にお前の幼馴染がいるだろ、小宮山っていう」
「……あ、うん。お隣さんだね」
「うちの義妹も一組でな。聞いたぞ」
重々しく頷いて、嵯峨野は血涙でも流しそうな顔で言った。
「――子供の頃に玩具の指輪を交換して結婚の約束した仲なんだってな? まるで恋愛漫画みたいな話じゃねえか……ちくしょう」
現状維持など、とんでもなかった。
僕の与り知らぬ他クラスで、既に情報汚染が始まっていた。
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