第16話『隣人・小宮山佐智さんによる風説の流布①』
「おはようございます坂木さん」
「ああ、おはよう」
ホームルームを待つ、賑やかな朝の教室。
あくび混じりで登校した僕を出迎えてくれたのは、隣席でキラキラと微笑む織川さんである。彼女は待ちわびていたとばかりに両手を広げて尋ねてくる。
「今日の私はいつもと少し装いが変わっているのですが、どこが違うか分かりますか?」
「制服がうちの高校のやつになってるね」
「流石は坂木さん。ちゃんと変化に気づいてくださいますね」
「あはは、さすがに誰でも気付くよ」
これまで織川さんは以前の瑠璃枝高校の制服を着ていたが、今日は我らが雉原高校の制服を身に纏っている。一人だけ違う制服ということで他クラスの生徒からじろじろ物珍しげに見られていたので、溶け込みやすい服になったのはいいことだと思う。
「ところで教科書の方は届いた?」
「届いたのですけれど、新しい制服に気を取られたせいでうっかり全部忘れてしまいまして。今日も隣で見せていただければ幸いです」
「明日からは気を付けようね。教科書全部忘れるってよっぽどだから」
織川さんと席をくっつけていると、授業中にこちらの手の甲をさわさわと撫でてきたりするので心臓に悪いのだ。そろそろ勘弁してもらいたい。
そこで、先日織川さんと昼休みに歓談していた女子の一人が近づいてきた。
「りっちゃーん。今度の自主トレだけど、来週の土曜日でいい?」
「分かりました。空けておきます」
「おっけ。終わったらみんなで甘いものでも食べ行こ」
「はい、ぜひ!」
なにやら既にずいぶんと仲良くなった様子である。ごく自然に『りっちゃん』呼びが定着していた。
「自主トレって、部活とか入ったの?」
「いいえ。個人で弓道を続けることにしたのですが、運動部の子たちが合同でやっている自主トレに混ぜていただけるとのことで。嬉しいことです」
「すごいな。もうそんなに馴染んだんだ」
「ええ、みなさん親しく『りっちゃん』と呼んでくださって……坂木さんもまたそう呼んでくださっていいんですよ?」
「僕はほら、女の子をあだ名で呼べるほど度胸のある人間じゃないから」
ただでさえ『かつての幼馴染』ということで邪推されやすいのに、それに拍車を掛けるような言動は避けたい。外堀を埋められてしまう。
「じゃあ、私も『りっちゃん』って呼んでいいかな?」
そのとき、僕と織川さんの席の間に小柄な少女が割り込んできた。
何も事情を知らぬ者が見れば愛らしい小動物系な雰囲気を漂わせる――保健委員・和原なごみさんである。
(な……!)
僕の背筋を落雷のような緊張が走り抜けた。
織川さんの転校以来、この二人がここまで真正面から接触したことはなかった。
「もちろんです。保健委員の和原なごみさんですよね。窓際の席にとても可愛い方がいるなぁと、以前から気になっておりました。なごみさんとお呼びしても?」
「うん、仲良くしようね?」
そう言って二人は連絡先を交換し始める。
織川さんは、おそらくまだ和原さんの正体を知らない。和原さんが穏便な偵察に来ただけなら、何事も起きずに済む可能性は高い。
「このアイコンは……家庭菜園ですか?」
「そう。今はミニトマトを育ててるところで、来月末ごろに収穫の予定なの。りっちゃんのアイコンは……首輪?」
「はい。五歳の頃に離れ離れになってしまった、大事な子との思い出で……」
何気ない会話だが、背景事情を知る坂木からするとハラハラ感がすごい。
メッセージアプリのアイコンは癖を匂わせるためにあるのではない。
とはいえ二人の会話はちゃんと健全に成立しており、この場は無事に終わりそう――
「あ、そうだ坂木くん。今日もまた『いつもの場所』でお昼なんかどう? 栄養が偏ってて心配だから、小さいサラダを作ってきてあげたの」
いきなりこちらを振り向いた和原さんから爆弾が投下された。
しかも『いつもの場所』とは。僕らが旧『1-8』教室で昼食を摂ったのはただ一度だけのことである。まるで常習的な出来事のように誇張しないで欲しい。
「はい?」
織川さんが声色を低くして首を傾げた。
ここに至り、彼女も織川さんの思惑を完全に察知したらしい。
まずい。万が一にも武力衝突的な事態となれば、細腕ながら圧倒的パワーを秘めた織川さんのワンサイドゲームになる。仲裁せねば。
ところが、織川さんは再び口角を上げて笑顔を作った。
「坂木さん。保健委員さんに心配されるほど、野菜をあまり食べていないのですか?」
「え、まあ……」
「いけませんね。今度またうちの家で一緒に食事をするときは、もっとヘルシー路線の献立にいたしましょう」
心配するフリをして、彼女はさらりとマウントを取り返した。
家に招いて食事をする仲だぞ、とばかりに。
少女二人が瞳を真っ黒にして睨み合う。
どうする。僕が自作自演で盛大にすっ転んで周囲の注目を集め、この修羅場な空気を霧散させるべきか。よし、そうしよう。決心して腰を浮かせようとしたそのとき、
――こつん、と。
少女二人は互いの拳を伸ばし、まるで互いを讃え合うかのように軽くぶつけ合った。
「分かるよ」
「分かります」
そして何かを分かり合っている。
何を分かり合っているのかは敢えて深く考えないことにする。
「いつか決裂の時は来るかもしれませんが、同好の士と巡り合えて嬉しいです。なごみさん」
「最終的にはどこかで破綻すると思うけど、それまでは仲良くしていこうね。りっちゃん」
前段が不穏すぎる。これから友達になろうとする者同士の会話ではない。
まあ、すぐさま大喧嘩なんていうことにならなくて安心はしたけれど。
「ごめーん。透太いるー!?」
だが、一難去ってまた一難。
僕ら一年二組の教室の扉をがらりと開き、大声で叫ぶ女子がいた。
家のお隣さんの――距離間がちょっとおかしい女子、小宮山佐智さんである。
「ああ、うん。ここ」
「おっ! 朝からなんか可愛い子二人に囲まれて! いや~青春してるねぇ!」
べしっと僕の背中が軽く叩かれる。あまりにあっけらかんとした勢いに和原さんと織川さんは揃って毒気を抜かれている。
「どうしたの小宮山さん?」
「一限目の数学の教科書忘れちゃったから貸して」
「ああ、そんなこと。もちろんいいよ」
僕は数学の教科書を引っ張り出して小宮山さんに渡す。
彼女は「あざす」と受け取った後、織川さんの方にずいっと顔を寄せた。
「ところでそこの美人さん……もしかして、噂の転校生では?」
「あ、はい。そうです」
「だよね! 一組でも話題になってたの! 物凄く綺麗なお嬢様が転校してきて、なんとそこで『幼馴染の男の子と再会する』っていうすっごいハプニングがあったって!」
危うく椅子から滑り落ちそうになった。
なんてことだ。そんな噂が他クラスにまで浸透しているとは。
「……で、幼馴染っていうのはどの男子? かっこいい子? 今どんな感じの関係?」
「ええと、そこの坂木さんです」
「えっ?」
小宮山さんが二秒ほど固まった。
僕は固唾を飲んで趨勢を見守る。小宮山さんは距離感のバグり加減以外、まだ明確な異常行動は見せていない。だが、この状況でどんな反応を見せるか。
「嘘。じゃあ……もしかして、りっちゃん?」
小宮山さんは織川さんの手をぎゅっと握り、心から嬉しそうに笑った。
「アタシだよ! 昔よく三人で一緒に遊んだ小宮山佐智! 覚えてない!?」
僕は戦慄した。
そんな過去は、断じて存在しない。
本日より3章スタートです!
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