第14話『転校生・織川律さんによる監禁⑨』
織川律は誘惑にたまらず生唾を呑んでしまった。
まるでこちらが夢に描いた欲望をそのまま具現化したようなシチュエーション。彼は今、一人では食事も排泄もままならない。生きていくために必要なすべての行為を律に依存せざるを得ない。
(ああ、なんて甘美な……!)
喜んで尽くそう。求められることはなんだって叶えてあげよう。優しく優しくすべてを包み込んであげよう。そして愛しい彼を骨抜きのドロドロにして、一生涯にわたって自分から離れられなくするのだ。
律の本能はそう訴えている。
だが、理性はそれと反対に警鐘を鳴らす。
――これは坂木さんからの挑戦状だ。
それは彼の左手を見れば明らかだった。
彼は固く握りしめた拳の中に何かを隠していた。おそらくは――さきほど物資から取り出した爪楊枝を。
律を誘惑することで扉の前から遠ざけ、その隙にピッキングで手錠を外して脱出する。
それが彼の立てたプランだろう。
この状況でも容易に屈さず、知略を尽くしての抵抗を試みてくるとは。律は背筋がゾクゾクとした。やはり彼を見込んだ自分の目に狂いはなかった。遥々遠方の地まで追いかけてくる価値があった。こんなに素敵な殿方は世界のどこを探しても他にいない。
(でも……坂木さん。さすがにそれは分の悪い勝負ですよ……?)
律は逸る心を抑え、冷静に状況を分析する。
あの手錠は爪楊枝ごときで開くものではない。海外から取り寄せたその道のプロ御用達の逸品だ。仮に十全なピッキングツールがあったとて、律が扉から離れる短時間のうちに開錠するのは難しいだろう。
本物の鍵は換気口の向こうに投棄された。それは律も間違いなく確認した。すり替えの余地はなかったと思う。
彼が左手に握っているものが爪楊枝でなく他の切り札だったとしても、拳に隠せる程度の小物であの手錠をどうにかできるとは思えない。強引に壊すなら大型のワイヤーカッターくらいの代物が必要だ。
己の優位を確信した律は、胸に手を当ててにこりと微笑む。
「……ええ、分かりました。扉から離れるのはとても怖いですが、坂木さんの窮地でそのようなことは言ってられません。誠心誠意、あらゆるお世話をさせていただきます」
「本当にごめん。不甲斐ないよ」
「いいえ。こういうときは助け合いが大事ですから。必要なのは簡易トイレですね?」
律は慎重に扉から離れ、段ボール箱の積まれた壁際に向かう。
簡易トイレが納められた箱を探しながらも、常に視界の片隅に彼を捉えておく。
瞬間、彼の左手が動いた。
掌中に隠されていたのはやはり爪楊枝。彼はそれを早業で手錠の鍵穴に挿し、こじあけようと複雑に指を動かす。
律は段ボール箱を漁る中腰の姿勢のまま、しかしいつでもダッシュできるよう脚部に力を溜める。もし万が一にも彼が手錠を外せたなら、あとはどちらが先に扉へ辿り着くかの瞬発力勝負となる。負けるつもりはない。
――だが、勝負の幕切れは唐突なものだった。
ぱきん、と。
開錠を焦りすぎたか。強引に鍵穴へ突っ込まれていた爪楊枝が、儚い音とともに折れてしまったのだ。
爪楊枝の残骸が床に落ちる。柱に拘束された今の彼にとっては、それを拾うことすら難しい。
(……お見事でした、坂木さん)
律は内心でその健闘を讃えた。
あるいは彼の手捌きには、本当に開錠できるのではないかという迫力が伴っていた。爪楊枝でなく金属製のピンだったりしたら、また違った結果になっていたかもしれない。
しかし、今回は律に軍配が上がった。
そして今回のただ一度の勝利をもって、律は彼のすべてを手に入れる。
「さあ、簡易トイレが見つかりましたよ」
律は胸を高鳴らせながら彼の元に向かい、防災用の簡易トイレを組み立てる。
この夢のような暮らしがいつまで続くだろう。明日か明後日には親や警察が来るかもしれない。でも、そんなのはもうどうでもいい。愛しい人のすべてを支配して尽くせる幸せに優先すべきものなどない。そうだ、あの扉を本当に塞いでしまおう。物資にガムテープはあった。それで何重にも何重にも何重にも目張りして。自分と彼の蜜月を誰にも邪魔させない。この愛の巣には何人たりとも踏み込ませない。
すべてを諦めて脱力したような彼の背に、律は優しく手を触れる。
「さあ――ベルトを緩めますね」
「……うん」
「ズボンは降ろさずともよいですか? なんならパンツの下までもお手伝いいたしますよ?」
「さすがに織川さんにそこまではさせられない。自分で裾とかを踏んでなんとかするよ。ただ……どうかお願いが」
「なんでも仰ってください」
彼は羞恥に顔を歪めながら、苦しそうに懇願した。
「ベルトの金具を緩めたら、しばらく目を閉じていて欲しい。できれば耳も塞いで。さすがに僕も……用を足しているところを見られたり、音を聞かれたりしたくないから」
「ええ。分かりました」
律は頷いた。自分は彼を辱めたいのではない。ただ尽くしたいのだ。
功を焦らずとも、このまますべてを依存させればじきに麻痺して何でも晒してくれるようになるだろうし。
律は跪いて、彼のベルトの金具を緩める。
目についたズボンの留め具も外したい衝動に襲われたが、そこは自重する。物事には順序というものがある。
「それでは私は控えておりますね」
律は彼に対し背を向け、目を閉じ耳を塞いだ。
もはや神経質に扉を護る必要はない。彼に脱出の手段は残されていないのだから。
――本当にそうか。
ふいに疑念が湧く。
何か致命的な見落としをしていないか。極上の餌を見せつけられてしまったばかりに、彼のお世話を焼きたいがばかりに、自分はとんでもないミスをしていないか。
目と耳を塞いで十秒も経たないうちに、律の心が焦燥に満たされていく。
そのときだった。
がしゃん、と。耳を塞いでいてもはっきり聞こえるくらいの音が、律の背後で響いた。
『まるで重々しい金属製の何かが床に落ちた』ような音が。
「坂木さんっ! 今の音はっ!?」
たまらず律は振り返った。そこにもう彼の姿はなく、ただ床に手錠だけが転がっている。
「――よかった」
そして扉の方に視線を振れば、そこに彼がいた。
鉄扉に肩を押し当て、まるで『体当たりでこじあけた』ように見える姿勢で。
「やっぱり女の子のすぐそばで用を足すのはすごく抵抗があって。どうしてもこの場から脱出したいって思ったら――手錠も力尽くで引っこ抜けたし、扉も体当たりでこじ開けられたんだ。火事場の馬鹿力ってやつかな」
彼はあくまですべてにシラを切り、力尽くで密室を仕立てていた律を糾弾しない。
同時に律は、自分が何を見落としていたか瞬時に理解した。
(爪楊枝によるピッキングを執拗に匂わせたのは、本命の脱出手段を私に悟らせないためのミスリード……!)
律が見つめるのは彼の両手。右手と左手のどちらも、手首から先がだらりと力なく不自然に揺れている。
手錠から逃れるために、必ずしも鍵を開ける必要はなかった。
彼が外したのは、手錠ではなく――
(自分自身の、手首の関節……!)
彼は慣れた仕草でコキリと手首を繋げ、堂々と手をついて扉を支えた。
「さあ織川さん。一緒に脱出しよう」
本日は夕方ごろにもう一話投稿予定です(2章エピローグ)




