第90話 止まった時間、戦場へ
対峙する雪だったものの圧倒的な存在感が、じわじわとリュカ、バルド、カゲトラの三人を追い詰めていた。
こちらからは、攻撃ができない。する気もない。ただ、倒れている女性たちを守るために立ち続けている。
戦況は膠着。仕掛けられた攻撃をいなせば隙を突かれ、守りに徹すれば押し切られる。その均衡だけで、すでに三人の体力と魔力は一方的に削られていく。
「くっ……! 影が……!」
ついに、リュカの足元に広がっていた影と霧のスキルが、ふっと音もなく消滅した。
その瞬間、三人の背筋に冷たいものが走る。
「リュカ殿! 限界か!?」
「……悪い……でも、まだ……立っていられる」
息を荒げながらもリュートを構え直すリュカ。しかし、三人の消耗は明らかだった。
ミラーパレスの執務室。
静寂に包まれたその空間の中心で、美麗はひとり立ち尽くしていた。
ユグドラシルの聖域広場に映し出される戦況は、圧倒的な戦闘力を誇るはずの三人が、ただひたすらに防戦を強いられる一方的なものだった。
美麗は深く息を吐く。
(このままでは……間もなく押し切られるわ。理想の三人もの漢を、何もできずに失うわけにはいかない)
その思いは、冷静な判断の奥に潜む焦りを隠しきれなかった。
視線を黒の回廊ボス部屋のモニターへ移す。そこでは、四組の男女がお姫様抱っこのままの状態だったのが、そろそろ動き出す気配があった。
「……五星姫と英雄達も、流石に動き出す頃合い」
美麗の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「エコー、エネルギーは充填されているわね」
その決意を込めた言葉の強さに、エコーは即座に応じる。
「充填率四十八%。カリギュラのコアを媒体に、エネルギーの転送準備は完了しています」
美麗は一度だけ静かに頷き、迷いのない声音で命じた。
「四組を……ただちにユグドラシルの聖域広場へ転送しなさい」
短く、しかし揺るぎない命令。
「…………承りました。これにより、白蛇紋システム一定の間、機能を停止いたします」
エコーは深く息を吸い、指を走らせる。転送陣が起動し、淡い光が四組の男女を包み込んでいく。
その光は、まるで停滞していた戦況に新たな風を吹き込む夜明けの兆しのようだった。
美麗はモニターに映る雪たちの姿を見つめながら、静かに、しかし確信を持って呟いた。
「間に合うわ……必ず」
そして光が弾け、四組は聖域へと送り出された。
光りが弾ける、少し前の黒の回廊十八階ボス部屋。
騒がしく言い合う紫乃と斗花以外は、奇妙な静寂が落ちた空間に、三人の男と五人の女が、それぞれのパートナーとお姫様抱っこの姿勢のまま、まるで時間が止まったかのように佇んでいた。
誰もが、どうしてこんな状況になっているかを理解しきれず、ただその姿勢で硬直したままだった。
金髪碧眼に整った顔立ち、鍛え抜かれた体躯……まるで騎士の教本から抜け出したような男、無冠の灯のリーダーであるクラウ。その腕にお姫様抱っこされているのは、白峰 冴月。普段は王子様然の凛とした魔法剣士で、女性だけのAランク冒険者パーティーである戦律の五星姫を率いるリーダー。
けれど今は、そんな面影も薄く……乙女となって、ただ自然とクラウの胸へ頬を寄せている。
わずかに触れる体温と、重なる鼓動。離れようともしないまま、二人は時の流れさえ忘れて、静かに固まっていた。
その横では、濃いブラウンの髪に、神秘的な魔力を帯びた白金の瞳。細身で長身、いかにも知性を感じさせるメガネの美青年……魔術師ストレイ。そんな彼が、今は同じく魔術師であるうたたをお姫様抱っこしている。黒のレースに包まれた華奢な体が、くたりと彼の腕に寄りかかっていた。
うたたは力を抜いたまま、甘えるようにストレイの胸へと身を預けている。
「……ん、ダーリ……ストレイ……ちゃんと落とさずに持っててね?」
気だるげで、それでいて妙にあざとい声。わざとらしく袖を掴むその仕草に、ストレイの心臓が小さく跳ねる。
普段なら冷静でいるはずの彼の思考は、すでにまともに働いていなかった。近すぎる距離。柔らかな重み。かすかに触れる体温。
そのすべてに、完全にやられていた。
「……っ、落とすわけ……ないじゃないですか……」
かろうじて絞り出した声は、どこまでも上擦っていた。
それを聞いたうたたは、くすりと小さく笑い、さらに深く身を預ける。まるで逃がさないとでも言うように。
ストレイはそのまま、彼女を抱えた姿勢のまま動けずにいた。ただひたすらに、その存在を腕の中に感じながら……時が止まったかのように。
炎の気配をまとい、豪放に笑う拳闘士の黒鋼 斗花。その腕にお姫様抱っこされているのは、九条 紫乃。冷静沈着な賢者であり、戦律の五星姫を束ねる司令塔。
けれど今は、そんな威厳もどこか揺らいで……腕を組んだまま抗議を口にしながらも、その身はしっかりと斗花に預けられている。
強がる声音と、わずかに近づく距離。触れ合う体温に、言葉にしないままの何かが混じる。
騒がしいやり取りの最中でさえ、二人は、不思議と離れようともせず、そのままの姿勢で、ひとときのぬくもりに留まっていた。
影のように静かに佇むくノ一……胡蝶 夜々。その腕にお姫様抱っこされているのは、フェルマ。理知的な錬金薬剤師であり、常に冷静沈着で、幼さが残るも男らしい身体つきの青年。
なのに今は、その面影もどこへやら、夜々にお姫様抱っこされ、力なく身を預けたまま、意識すら手放している。
無防備に触れ合う距離と、逃げ場のない体温。揺らぐ視界の中で、夜々の柔らかな微笑みだけが、やけに鮮明に焼きついていた。
実際は、戸惑いを隠せない夜々が笑うしかなく、完全に限界を迎え白目のフェルマ。
二人はそのまま……触れ合うぬくもりの中で、時が経つのも忘れたまま、静かに固まっていた。
その奇妙な四組の静止した時間を破ったのは、空気の震えだった。
床が、かすかに揺れた。
次の瞬間……天井に、幾重もの魔法陣が淡く浮かび上がり始める。それらはゆっくりと回転しながら重なり合い、まるで巨大な歯車が噛み合うように光を放っていった。やがて、その中心にひときわ大きな魔法陣が形成される。
脈動の源は、うたたの手から落ち、床に転がったままになっていたカリギュラの魔石。
魔石を中心に、光が鼓動のように強まり、ボス部屋全体が低く震え始めた。
「……っ、これは……!」
床が振動する前から異変を察知していたのは、空間魔法を得意とするストレイだった。抱きかかえたうたたを支えたまま、鋭い視線を天井と魔石へ向ける。
「急激な……エネルギー転送……!? 誰かが外部から干渉している」
言い終える前に、ボス部屋全体が大きく揺れた。
「きゃっ……」
冴月が思わずクラウの胸元にしがみついた。その瞬間、クラウの全身がぴたりと固まる。
「……っ……っ……!」
普段は凛として、まるで隙のない冴月が、そんな可愛らしい声をあげるとは思ってもみなかった。
その衝撃は、クラウの脳を一撃で焼き切る。顔は一瞬で真っ赤になり、視線は泳ぎ、呼吸すら忘れてしまう。
(……至高の御方の……あまりに可愛らしい驚きの声……!? えっ……近い……近すぎる……こ、これは……これは……)
胸の中で暴走する思考は、もはや騎士としての冷静さを保てる状態ではなかった。
ただの青年として赤面し、目の前で起きている異変に気づきながらも、対処するタイミングを完全に見失っていた。
「ストレイ……っ、こわ……い……っ」
その横では、揺れに驚いたうたたが、小動物みたいな動きでストレイの胸へ、顔をさらに寄せて、ぎゅっとしがみついた。




