第88話 闇の中のもう一人
そこは、どこまでも暗く、光がなく、音もない。温度すら感じられない。
どこまでも深い闇の中で、雪は膝を抱えて座っていた。
自分の姿が見えるわけではない。けれど、確かに膝を抱えて、座っているとわかる。それほどまでに、この闇は静かで、閉ざされていた。
(……なんで、ボク……こんなところにいるんだろう)
ぽつりと、心の中に言葉が浮かぶ。
(たしか……みんなと……冒険してた、はず……)
みんな。その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……みんな? みんなって……誰、誰だっけ?)
思い出そうとすると、霧がかかったようにぼやけていく。名前も、顔も、声も、何も掴めない。
ただ……ひとつだけ。
(……朱音……お姉ちゃん……)
その名前だけが、鮮やかに浮かんだ。
(朱音……? あれ……なんで……?)
次の瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
(……そうだ。ボク……一度、死んで転生したんだ)
前世の記憶が、闇の中にぽつりぽつりと灯り始める。
白い天井。点滴の音。タブレットの画面……病室の匂い。
そして、画面の中で輝くアイドルたち。仲間と冒険する少女の物語。
(……あたしは……あの時、死んで……)
闇の中に、柔らかな光が差す。それは、前世の病弱だった少女だった時の記憶。
(……生まれ変わったんだ……)
そう。いまは、ボク……名前は変わらず雪だけど。この世界では希少な男の子として産まれた。
前世で夢見た、冒険も、仲間も、ステージも……全部が叶えられる場所に。
(ボクは……雪。みんなと冒険して……アイドルにもなって……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……今は男だけど……それでも、ボクはボクだ)
その想いは、揺るがない。
(じゃあ……いまは……ここは……どこ?)
闇は答えない。ただ、静かに雪を包み込むだけ。
外の世界で何が起きているのかも、自分の身体がどうなっているのかも、まったくわからない。
ただひとつだけ、確かに感じる。
(……みんな……どこ……?)
その声は、闇に吸い込まれ、消えていった。
どれほど座っていたのか、雪にはわからなかった。
時間の流れも、空気の動きも、何ひとつ感じられない。ただ、膝を抱えて、暗闇の底に沈んでいた。
(……でも……)
胸の奥で、小さな声が震えた。
(こんなところで……ずっと座ってちゃ……ダメだ)
理由はわからない。けれど、ここに居続けてはいけない。そんな焦りにも似た感覚だけが、確かにあった。
雪は、ぎゅっと拳を握った。膝を抱えていた腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
足に力が入らない。その感覚に、胸の奥がざわりと揺れた。
(……あれ……この感じ……)
立ち上がるという行為が、こんなにも重いなんて。
今世では、走ることも、跳ぶことも、踊ることすら当たり前になっていた。仲間と冒険し、ステージに立ち、全力で動き回る日々が普通だった。
(……そうだ……ボク……前は……)
前世の記憶が、闇の底からじわりと浮かび上がる。
白い天井。点滴の音。ベッドの上で、起き上がるだけで息が切れた日々。
タブレットを胸の上に置くのも重くて、身体を起こすだけで看護師さんを呼ばなきゃいけなかった。
(……忘れてた……ボク……ずっと……立てなかったんだ……)
胸がぎゅっと締めつけられる。
今世で自由に動けることが嬉しくて、楽しくて、いつの間にか、あの苦しさを忘れていた。
(でも……今は……)
雪は、震える足にそっと意識を向けた。
(今は……立てる……走れるんだ……みんなと冒険できる。ステージにも立てるんだ)
(……立たなきゃ……ここで止まってちゃ……ダメだ)
気合を込めて、ぐっと足に力を入れる。
闇の中で、雪の身体がふらりと揺れ……
それでも、確かに立ち上がった。
その瞬間、胸の奥に小さな光が灯った。前世では叶わなかった立つという行為が、今はできる。
その事実が、雪の背中を優しく、だけど力強く押していた。
視界は真っ暗。手を伸ばしても、自分の指先すら見えない。
けれど、立てた。それだけで、胸の奥に小さな灯がともる。
(……ここは……どこ……?)
周囲を見渡しても、何もない。
本当に何もない。光も、影も、色も、形も、音も。ただ、永遠に続くような闇だけ。
(……あれ……?)
遥か彼方。闇の奥の奥の、そのまた奥。
ぽつり、と。火の玉のような、小さな光が揺れていた。
赤でも青でもない。炎のようでいて、炎ではない。ただ、ゆらゆらと、呼吸するように揺れている。
(……あそこ……)
雪は自然と、その光に視線を奪われた。
理由はわからない。
けれど、あれだけが、この闇の中で唯一の何かだった。
(……行かなきゃ)
足を踏み出す。
闇が足首に絡みつくように重い。それでも、雪は一歩、また一歩と進んでいく。
光は遠い。どれだけ歩いても、距離が縮んでいるのかすらわからない。
(ここにいるより……ずっといい)
雪は歩き続けた。
闇の中で、たったひとつ揺れる光を目指して。どれほど歩いたのか、雪にはまったくわからなかった。
一分かもしれない。一時間かもしれない。もしかしたら、半日以上歩き続けていたのかもしれない。
この闇には、時間という概念が存在しなかった。足音も、呼吸も、心臓の鼓動すら吸い込まれていくようで、ただ歩くという行為だけが、雪を現実につなぎとめていた。
光は、ずっと遠くにあった。
歩いても歩いても、距離が縮んでいるのかすらわからない。それでも、雪は足を止めなかった。
(……止まったら……戻れなくなる……そんな気がする……)
理由はない。けれど、その直感だけは確かだった。
そして……ふいに、闇がゆるんだ。
足元の重さが消え、空気がわずかに温かくなる。
雪は顔を上げた。
(……着いた……?)
目の前に、あの光があった。
近くで見ると、それは火の玉というより……淡く揺れる灯火のようだった。
そして、その灯火のすぐそばに……雪は息を呑んだ。
そこには、人影があった。
長い髪を、闇と光の境界でふわりと揺らしながら、雪に背を向けて、膝を抱えて静かに座っている。
男か女かもわからない。大人か子どもかもわからない。ただ、長い髪の背中だけが、ぽつんと闇の中に浮かんでいた。
(……誰……?)
声は出ない。けれど、胸の奥がざわりと震えた。
雪は、そっと一歩踏み出した。その背中に近づくために。
灯火のそばに座る、その長い髪の人影。
雪は、胸の奥がざわりと震えるのを感じながら、そっと声をかけた。
「……あの……」
返事はない。
闇の中で、灯火だけがゆらゆらと揺れている。
「ねぇ……聞こえてる……?」
沈黙。人影は微動だにしない。
雪は、もう一歩近づいた。
「……誰……なの……?」
それでも返事はなかった。
ただ、闇が深く沈んでいくような静けさだけが続く。
雪は唇を噛み、勇気を振り絞って、もう一度声をかけた。
「お願い……返事して……」
その瞬間……かすかに、何かが揺れた。
風でも、気配でもない。それは……微かな声だった。
(……いま……なにか……)
雪は耳を澄ませた。
闇の奥から、細い、細い糸のような声が漏れてくる。
「……ぁ……そ……」
「え……?」
聞き取れない。けれど、確かに言葉だった。
雪は決意し、人影の正面へと回り込んだ。
灯火の淡い光が、その顔を照らす。
雪は息を呑んだ。
そこにいたのは、前世の雪によく似た、幼い顔立ちの子ども。
けれど、その輪郭には、つい最近会った鏡宮の総帥である美麗の面影が、確かに宿っていた。
(……なに……これ……ボク……? 美麗さん……?)
その子は、虚ろな瞳で、同じ言葉を繰り返していた。
「……ぁ……そ……ぼ……」
雪はしゃがみ込み、そっと顔を近づけた。
「……なに……言ってるの……?」
灯火がふっと揺れた。その瞬間、はっきりと聞こえた。
「アソ……ボ……ウ……」
それは、幼い子どもが、寂しさを押し殺すように絞り出す声。
「……遊ぼう……」
闇の中で、その言葉だけが、やけに鮮明に響いた。




