第84話 触れられぬ領域
空の盾《蒼璧》が、音もなく切断されたその瞬間……場の空気が、さらに一段階、重く沈んだ。
ルーセントの瞳が鋭く細められる。
(……あの盾が……あんなにもあっさりと?)
その盾は、彼女の目利きからしても、ただの防具ではなかった。おそらくダンジョン産のボス勝利戦でしかドロップしない、極めて希少な逸品。そして材質は、おそらくミステリ製……古代の技術で鍛えられた、魔力干渉にも物理衝撃にも強い、伝説級には届かないが希少級を超える英雄級の防具にみえる。
それが、あっさりと。まるで紙を裂くように、音もなく、上半分だけが消えた。
(そんな魔法……もしくは武技スキル……聞いたこともない)
ルーセントの喉奥が、かすかに鳴る。理性が警鐘を鳴らすよりも早く、本能が告げていた。
これは、想定外すぎる。この場にいる誰一人として、あの雪だった者の力を、正確に測測ることなんて出来ない。
(……この場にいる戦力で、御子を止められるのか……)
そして、できることなら……彼ら、リュカ、カゲトラ、バルドの男三人を表に出したくなかった。
彼らの存在を、美麗……ゼロに知られること。それが、なぜか、ひどく恐ろしかった。
ルーセントは、己の胸の奥に芽生えたその感情に、思わず舌打ちしたくなる。
(……なぜ、こんなふうに思うのか……)
明確な理由は、わからない。ただ、彼らの姿を、あの人に見せたくない……そう思ってしまった。
自分は、創られた駒。感情も、欲も、すべては機能として与えられたもののはずだった。
男の存在なんて知らない。白印の方は噂に聞いたにすぎない。だからなのか、あの三人を見ていると、胸の奥がどうしようもなく、ざわめく。
(……あれが、本物の……ゼロが渇望する男という生き物)
言葉にならない感情が、胸の奥で渦を巻く。それは、美麗の中に眠る本物の男への尽きぬ憧れ……その無意識の渇望が、彼女のクローンであるルーセントの中にも確かに息づいている証だった。
(……くだらない)
そう吐き捨てるように、ルーセントは視線を切った。なのに、その頬がわずかに熱を帯びていたことに、彼女自身、気づかぬふりをした。
その時だった。雪が、再び動いた。
藍坂 空に向けていた深淵の瞳が、ゆっくりと逸れ、再び虚空を見つめる。しかし、その一瞬の視線の重さに、誰もが息を呑んだ。
レインが、低く呟く。
「……ターゲットの魔力が、また変質していく……」
その声には、焦燥と警戒がにじんでいた。雪の周囲に漂う魔力は、もはや人のものではない。それは、神域の崩壊とともに現れた、異質な魔の気配。
その禍々しさに、空と萌黄が顔を強張らせる。
「朱音を……!」
空が、再び立ち上がる。盾の半分を失った腕を庇いながら、朱音のもとへと駆け寄ろうとする。
萌黄も、魔力を展開しながら援護に入ろうとした。
「不用意に近づくな!」
ルーセントの声がいま一度、鋭く響き、空気を裂くように場を制し、二人の足を止めさせた。
彼女の視線は、雪を見据えたまま、微動だにしない。その瞳に宿るのは、ターゲットを敵として分析する、冷徹な判断だった。ルーセントの瞳はすでに次の一手を見据えていた。
静かに、しかし確かに、レインへと視線を送る。その合図を受け取ったレインは、わずかに頷いた。
「……了解。じゃあ、私はここまでね」
そう一言の応えで、レインは両手の指を同時に鳴らした。
一閃……空気が震え、光が、弾けた。まるで世界そのものが、ひとつ上の階層へと引き上げられたかのように。
《絶対王域 (アブソリュート・ドミニオン)》
それは、レインが持つ唯一無二の最大の切り札。味方すべてを支配者の領域へと引き上げる、絶対の加護。
筋力、速度、魔力、耐久……すべてが限界を超え、さらに、あらゆる状態異常を無効化し、致命傷すら一度だけ回避する。
その代償は、あまりにも大きい。発動者であるレイン自身の機能が、長時間にわたり著しく低下する。
「……後は、貴女に託すわよ」
レインは、ふっと微笑み、力を抜くようにその場に膝をついた。
次の瞬間……光が、爆ぜた。
ライン、ミラー、それぞれ三十名の兵士たち。四戒仙の四人。そして、ルーセント自身。
その全身に、眩い光が走る。筋肉が軋み、神経が研ぎ澄まされ、魔力の奔流が血管を駆け巡る。視界が冴え、空気の震えすら感じ取れるほどに、五感が研ぎ澄まされていく。
身体が、応えていた。まるで、今この瞬間だけは限界という言葉が存在しないかのように。
それはまさに、支配者の領域。選ばれし者だけが踏み入れる、奇蹟の戦場だった。
光が弾けた直後、ラインとミラーの兵士たち……計六十名の瞳が、同時に見開かれた。
その瞳には、これまでなかった色が宿っていた。
彼女らは本来、個を持たない。ただ命令に従い、戦場を駆けるために設計された、量産型の兵士たち。
しかし今、彼女らの内側に流れ込んだのは、支配者の領域そのもの。
(……これが、美麗様の視界……?)
誰ともなく、そう思った。筋肉が唸り、魔力が暴れ、視界が異様なまでに鮮明になる。世界が、まるで自分の手のひらにあるかのような、圧倒的な全能感。
それはまるで、自分が美麗そのものになったかのような錯覚だった。
その瞬間、ルーセントの声が響く。
「全兵、展開。白銀坂 雪の動きを封じよ。可能であれば、インクラインの朱音の回収を」
その命令に、六十の影が一斉に動いた。
ラインの三十名は、雷鳴のような足音を響かせながら、雪の周囲を包囲するように展開。ミラーの三十名は、魔力障壁と支援術式を展開し、突入部隊の後方を固める。
その動きは、まるで一糸乱れぬ舞踏のように滑らかで、迅速だった。
彼女らは、今だけは駒でも歯車でもなかった。意志を持ち、力を持ち、使命を持った、戦士だった。
そして、その全ての矛先が、白銀坂 雪へと、向けられた。
上空を仰いでいた雪だったものが、ふと、動いた。
その顔が、ゆっくりと傾く。空を見上げていた首が、ぎこちなく、しかし確実に……迫り来る兵士たちの方へと向けられた。
その瞳は、やはり空洞だった。光も、焦点も、感情もない。ただ、そこにあるのは無……見る者の存在すら否定する、虚無の視線。
その瞬間だった。音もなく、空気が震えた。
風が止まり、光が歪み、世界が一瞬だけ沈黙に包まれた。
そして……崩れた。
ライン、ミラー、六十名の兵士たちが、まるで糸の切れた操り人形のように、次々と地に膝をつき、倒れていく。
その動きには、苦悶も、叫びもなかった。ただ、力が抜け落ちたかのように、静かに、無抵抗に。
倒れた兵士たちの胸は、かすかに上下していた。意識もない者がほとんどだったが、命の灯だけは、確かに残っていた。
それは、《絶対王域》の恩恵……致命傷を一度だけ回避するという、奇蹟の加護が働いた証。
もし、その加護がなければ。今この場に、彼女らの命はなかっただろう。
しかし、次はない。この奇蹟は、一度きり。再びあの力が振るわれれば、今度こそ、守るものは何もない。
同時に、バフを受けていなかったインクラインの四名……空、萌黄、花恋、風花もまた、立っていられずに崩れ落ちた。膝をつき、肩で息をしながら、必死に意識を保とうとする。
何が起きたのか、誰にもわからなかった。ただひとつ確かなのは……雪だったものが、今や完全に異質な存在へと至っているということ。
その場に立っていられる者は、もはや限られていた。
六十名の兵士たちが崩れ落ちた光景を前にしても、ルーセントの表情は変わらなかった。いや、変えなかった。
(……やはり、相手にならないか)
《絶対王域》の加護を受けた兵士たちですら、雪だったものの前では無力。それは、ある程度想定していたことだった。
この力は、長くは保てない。ならば、今やるしかない。




