第83話 神域の終わり、魔境の始まり
モニターの中で繰り広げられている、理想の男達と五星姫の甘やかな光景。その余韻に呑まれかけていた美麗の視線が、ふとある一点で止まった。
それは、うたたと魔術師の男の足元。そこに、ひときわ異質な輝きがあった。
紅に輝く……深く、妖しく、血のように濃い赤い光を放つ、ひとつの魔石。
それは、かつて美麗の影として偶然の果てに生まれ、そこにいる魔術師の手によって滅された存在……コード・ナイトメア、またの名をカリギュラの人造魔石だった。
本来、美麗のクローンであるエコーをはじめ、ルーセント、レインの三柱。さらには、神獣や霊獣との融合によって生み出された四戒仙たちにしても、体内で魔石が生成される事はない。
彼女たちは、人としての枠内で設計され、魔物を生み出すことを目的とは、していなかった。
その中で、カリギュラだけはコンセプト自体が初めから違っていた。
人工的に魔石を創り出せないか。かつて鏡宮が極秘裏に進めていた、禁断の実験のひとつ。その成果が、カリギュラの誕生だった。
《ユグドラシル》の頂上から採取される伝説の素材《始原の雫》。それは、神代の記憶を宿すとされる、世界の根源に連なる結晶。
そして、この試みは、あまりにも非現実的だった。始原の雫は、採取自体が困難を極め、ひと雫を得るために、攻略高難易度のユクドラシル頂上に挑まなければならず、ルーセントや四戒仙といった鏡宮の最終戦力を要し、また開発には莫大な資金を費やした。
さらに、魔石化の成功率は極めて低く、再現性も不安定。コスト、納期、倫理……そのすべてにおいて採算が合わず、ダンジョンで魔物を狩る方が圧倒的にコストが掛からないこともあり、現在では廃棄案件として封印されている。
しかし、唯一の成功例……それが、カリギュラだった。
その雫が、カリギュラの中で異質な変化をもたらし、人を殺め、幾多の魔物を屠り、血と呪詛を喰らい続けたナイトメアの魂は、やがて人の枠を超えた。
カリギュラが、真の魔物へと至るのは、ある意味で必然だった。その証が、いま魔石として残されている。
美麗は、モニター越しにその紅の光を見つめながら、静かに目を細めた。その瞳には、恐れも、悲しみもなかった。あるのはただ、確信と……新たな可能性への、飽くなき渇望。
「…………!」
紅の光が、まるで自分にだけ語りかけてくるように思え、美麗の瞳が、かすかに見開かれる。
彼女は、そっと唇を吊り上げる。
「……神なんて、まったく信じてないけど」
その声は、どこか甘く、そして鋭かった。
「……そう、運は……私を選んだのね」
その瞬間、美麗の瞳に宿る光が、確かに強くなった。まるで、次の一手を見据える者のように。
「……エコー。白蛇紋システムの残エネルギーを確認して」
その声に、エコーが即座に応じる。指先が宙をなぞり、魔導式の演算盤が淡く光を放つ。
「……白銀坂 雪の御子計画により、全エネルギーの四十五%を消費。現在、維持管理に必要な最低限の出力を除いた使用可能エネルギーは……約三十%」
美麗は、わずかに顎を引いた。
「……五十%、確保しなさい」
その言葉に、エコーの指が止まる。わずかに目を見開き、息を呑んだ。
「……それほどまでに使用すれば、ユグドラシルに何が起こるか……」
言葉の続きを飲み込むように、エコーは黙り込む。美麗は、静かにモニターを見つめたまま、低く呟いた。
「……どのみち、このままでは、あのエリアは消滅するかもしれないのよ。なら……」
その言葉に、エコーは何も言わなかった。ただ、静かに頭を垂れ、仰せのままにとばかりに指を動かす。
白蛇紋システムの中枢が、再び脈動を始める。その鼓動は、まるで世界の理そのものが、目を覚まし始めたかのようだった。
空中モニターに映る紅の魔石を見つめながら、美麗は静かに呟いた。
「……ルーセントとレインが、雪の暴走を止められなかった場合……」
その声は、まるで舞台の幕を引く合図のように、冷たく、そして確かだった。
「十八階のボス部屋にいる五星姫たち、そして英雄たる漢三人を……」
そこで、美麗は一拍置き、紅の魔石に視線を落とす。その深紅の輝きが、まるで彼女の決断を肯定するかのように脈動していた。
「……あの魔石を介して、ユグドラシルのあの場へ転送なさい」
言葉を紡ぎながら、美麗の唇がわずかに吊り上がる。
「都合がいいことに、抱え合っている今なら……一組に十%消費しても単体で送るより少ない転送エネルギーで済むわ」
エコーが、わずかに目を見開いた。しかし、美麗はその視線を受け止めることなく、ただ静かに紅の魔石を見つめ続けていた。
「……カリギュラ。貴方を、初めて愛することが叶ったわ」
その言葉は、まるで熱に浮かされた囁きのようだった。
「貴方の始原の雫で造られた魔石……その心臓があってこそ、私は、この一手を打てるのよ」
そして、美麗の視線は、再びモニターに映る三人の漢たちへと向けられる。
あの神聖魔法の威力と、残像すら見せない剣戟の持ち主、そして、エリクサーすら創り出す薬剤師。
異界の英雄たち。この世界の理を間違いなく超えた存在。
「……あなたたちなら、きっと素敵な奇蹟を見せてくれるわよね」
美麗の唇が、ゆっくりと吊り上がる。
「そして……三人の漢を確保済みとでも思っている、あの女狐……静流。あなたのその余裕、今に凍りつかせてあげる」
静かに毒を垂らすように、冷たく艶やかにその声は、どこか甘い狂気をはらんでいた。
「エコー。エネルギー装填、準備を」
その言葉に、エコーの瞳がきらりと光る。
「……さすが、我が主。この瞬間を待っておりました」
その声には、いつになく高揚した響きがあった。
白蛇紋システムの中枢が、再び脈動を始める。その鼓動は、まるで世界の理そのものが、再構築を始める前触れのようだった。
聖域と呼ばれたその広場に、異変が訪れたのは、ほんの一瞬のことだった。
空気が、変わった。
それまで神々しい光に包まれていた空間が、まるで何かに蝕まれるように、じわじわと色を失っていく。光は鈍く濁り、空間の端々に、黒い靄のようなものがにじみ始めた。
その変化を、最も早く察知したのは……雷狼の獣人、四戒仙の一人『驚』の京華だった。
「……空気が、変わった」
彼女の耳がぴくりと動き、鋭い視線が雪の方へと向けられる。
その視線の先……白銀坂 雪の周囲に、見えないはずの圧がオーラとなって立ち込めていた。
まるで、空間そのものが彼を中心に歪み、世界の理が書き換えられていくような、そんな異様な気配。
レインもまた、すぐにそれに気づいた。
「……御子が、変わっていく……」
その声には、明確な警戒がにじんでいた。彼の周囲の魔力が、先ほどまでとはまるで違う。ただの暴走ではない。何か、もっと根源的な変質が始まっている。
その禍々しさに、インクラインの空と萌黄が顔を強張らせた。雪の足元に倒れたままの朱音の姿が、彼のすぐ近くにあることに気づいたのだ。
「朱音……!」
空が駆け出す。萌黄もすぐに続き、雪の傍らに倒れる朱音を回収しようと、魔力障壁を展開しながら接近する。
「不用意に近づくな!」
ルーセントが、雪を見据えたまま、微動だにせず緊迫した声で鋭く警告を発した。
その瞳に映るのは、かつての穏やかで優しさにあふれた雪ではなかった。そこに立つのは、もはや白銀坂 雪ではない、何か別の存在。
聖域は、静かに、しかし確実に、神域から魔境へと変貌を遂げつつあった。
空が朱音のもとへと駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
はじめて視線が、合った。
白銀坂 雪だったものが、ゆっくりと上を向いていた顔を正面にむけた。
その瞳は、もはや瞳とよべるものではなかった。光も、焦点も、感情すらも宿さない。ただ、ぽっかりと空いた空洞が、空を見つめていた。
「…………っ」
その視線に射抜かれた瞬間、空の足が止まった。全身が凍りついたように動かない。心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
次に風もなく、音もなく、何かが通り過ぎた。
空は、何が起きたのか理解できなかった。ただ、手にしていた自慢の盾……《蒼璧》の上半分が、綺麗な面をみせて消えていた。
まるで、そこだけを綺麗に削ぎ落としたかのように、滑らかに、無音で。
空は、思わずその場に膝をついた。遅れて、頬をかすめる冷たい風が吹き抜ける。
もし、あと一歩でも踏み出していたら……その一撃は、彼女の命を奪っていたに違いない。
その場にいた誰もが、息を呑んだ。雪の変貌が、ただの暴走ではないことを、明らかにした瞬間だった。




