第82話 それは、憧憬という名の衝動
ミラーパレスの執務室。
ひび割れた鏡の床に、こぼれた血のような真紅のワインが静かに広がっていく。
その中心に立つ美麗は、ようやく震える指先を抑え、深く息を吐いた。
落ち着きなさい。女王たる者が、取り乱してどうするの。そう自らに言い聞かせ、彼女はゆっくりと姿勢を正す。
何度か深呼吸を繰り返すうちに、冷静さを取り戻す。少しして鏡面のモニターに映る聖域と化した広場の光景へと視線を向けた。
そこには、ルーセントとレイン、そしてその後ろに控える四戒仙の姿が確認できる。
整然と並ぶ兵士たちの前に立ち、冷静に状況を見極めようとする二人と、いつも通りの佇まいを崩さぬ四人の姿に、美麗はわずかに安堵の色を浮かべる。
「……来たわね。ルーセント、レイン」
その声に応えるように、傍らに控えていたエコーが一歩前に出る。
「エコー。彼女たちからの念伝は?」
美麗の問いに、エコーはわずかに首を横に振った。
「……いまのところ、ありません」
「……妙ね」
美麗の眉がわずかに寄る。
「正体不明の存在と交戦していたはずでしょう? その報告がないなんて……どういうこと?」
エコーは一瞬、言葉を選ぶように沈黙した後、静かに答えた。
「……おそらく、いまの白銀坂 雪の状態から目を離せず……念伝に応じる余裕がないのかと」
その言葉に、美麗はしばし黙り込んだ。釈然とはしない。だが、鏡面に映る雪の姿を見れば、納得せざるを得なかった。
それに、ルーセントも四戒仙も、装備に目立った損傷はなく、怪我をおっている様子も見られない。実際のところ、劣勢との報告だったが、正体不明の者たちは、そこまでの脅威ではなかったのかもしれない。
それよりも今は、白銀坂 雪……あの光、そしてあの咆哮。あれは、ただの感情の爆発ではなかった。世界そのものを揺るがす、理の歪み。
美麗は、静かに唇を噛みしめた。その瞳に宿るのは、女王としての責務と、かすかな焦燥。
その時、なにかを受信したのか、エコーの眉がわずかに動いた。
「……ゼロ。群星リンクの百花繚乱に潜ませていた影より、念伝が届きました」
「……今の状況で? あの黒の回廊十八階を配信していたサーバーは落ちたはずよ?」
美麗の瞳が驚きに見開かれる。
群星リンク……五星姫の熱狂的なファンたちが集う、情報網として機能する巨大なコミュニティ。
その中でも百花繚乱と呼ばれる選ばれし者たちは、五星姫ガチ勢を自認する百人の精鋭集団。それはミラージュリンクの雪華百式と並び、冒険者配信の世界では知らぬ者のいない一大組織。
その百花繚乱の一人を、レインの洗脳スキルによって……本人すら気づかぬまま、無意識のうちに駒として動かしている。
あの組織には、情報操作に特化した、九重すみれを長とする特別チームが存在する。その手腕は、表に出ることなく情報の流れを操り、真実を塗り替えることすら可能とされるほど。
だからこそ、美麗は念には念を入れ、限りなく鏡宮の痕跡を消した影を潜ませていた。とはいえ、それすらも、単に游がされているだけなのかもしれない。
九条 静流を頂点とする九条財閥と、美麗を頂点とする鏡宮。リバースアース日本を二分する、巨大な二大財閥の長たち。その関係は、表向きは静かに均衡を保っているように見えて、実際は常に火花を散らす水面下の諜報合戦。
世界では女狐と毒蛇の化かし合いと揶揄され、同時に恐れられている。そして、その静かな戦場に、またひとつ新たな火種が投じられたのだ。
世界が注目する中、リバースアース日本を代表する二大組織……九条と鏡宮は、時を同じくして、それぞれの看板を掲げた高難度ダンジョンの攻略配信を開始していた。
九条サイドでは、戦律の五星姫による《黒の回廊》未到達ゾーンへの挑戦が、鏡宮サイドでは、噂に名高い《ユグドラシル》の初攻略を、しかも、鏡宮側の攻略には、世界でも有数のヒーラーであり、全世界のアイドルとして絶大な人気を誇る白印の方……白銀坂 雪が参戦していた。
その配信は、もはや国家規模の注目を集め、世界中の視聴者が固唾を飲んで見守る中、各国の情報機関や企業、そして主だった組織も、何らかの手段でその動向を監視していた。
〈I.I.A.〉……世界最高峰の情報収集を誇る組織の観測室では、優秀なオペレーターたちが雪の動向を追い続け、今頃は、進化した白蛇紋システムを通じて、持てる魔力を出し尽くされて、息も絶え絶えになっていることだろう。
そんな中、美麗のもとに届いた百花繚乱に潜ませた影からの念伝は、まさに異常事態を告げるものだった。
空中に展開された黒の回廊に繋がる魔導モニターが、再び淡く脈動を始める。
黒の回廊十八階……サーバーダウンにより途絶えていた映像が、再接続された。
美麗は思わず身を乗り出す。
「百花繚乱専用の限定配信みたいね……なんにしても戻ったのね。映像、拡大して」
エコーが無言で指を動かすと、複数の角度からの映像が空中に浮かび上がる。
「…………っ!」
美麗とエコーは、同時に息を呑んだ。
そこに映っていたのは、まさかの光景だった。なぜそうなっているのか、状況はまるで掴めない。
そこには……お姫様抱っこをしている、四組の男女の姿があった。
それぞれが、まるで舞台のクライマックスのように、完璧な構図で抱き上げられていた。
魔術師の男が、うたたを優しく抱き上げる姿は、まるで幻想の中の一幕。その腕の中で、うたたは頬を染め、静かに身を預けていた。
そして、冴月を抱き上げる騎士の男。凛とした王子然とした佇まいて、全世界の憧れを一身に集める冴月でさえも、その逞しい腕の中では、まるで少女のように頬を染めている。
その姿に、美麗の心臓が、自然と高鳴る。
(……な、なにこれ……)
視線を逸らそうとしても、逸らせない。胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
(……たしかに、あんな理想の漢に……お姫様抱っこなんてされたら……誰だって、憧れるに決まってるじゃない……)
わなわなと震える唇を押さえながら、美麗は小さく呟いた。
「……な、な、にをしているの、この人たち……っ」
その隣で、エコーがぽつりと呟く。
「……すごい。素敵」
その声は、どこか夢見るようで、微かに熱を帯びていた。
美麗は、はっとしてエコーを見やる。しかし、エコーの瞳は、ただ静かに、けれど確かに、モニターの中の光景に心を奪われていた。
彼女は、自分のクローン。ならば、知らずしらずのうちに、その胸の奥に芽生えた感情もまた、自分のものと同じはず。
美麗は、そっと胸元に手を当てた。そこに響く鼓動が、いつもよりも速く、熱を帯びていることに、気づかないふりをすることはできなかった。
空中モニターに映し出された四組のお姫様抱っこの光景は、まるで舞台のクライマックスのように完璧だった。
その中で、美麗の視線がふっと、斗花に抱き上げられている紫乃の姿を目にして揺らめく。
(……あの女狐の娘で、しかも賢者でもある者が……なにを仲間同士で遊んでいるの……?)
紫乃の頬はほんのりと赤く染まり、斗花の腕の中で、まるで花のように揺れていた。
その姿に、美麗の胸が、ちくりと痛む。
(……それほど、羨ましいってこと?)
そんな思考を遮るように、隣のエコーが首を傾げながら呟いた。
「……なんであの冷静な夜々が、薬剤師の漢をお姫様抱っこしてるのでしょうか? あの漢、白目剥いてるし……どういった状況なのか……理解不能」
その率直すぎる疑問に、美麗は思わず笑みをこぼしそうになりながらも、すぐに真顔に戻る。
「……うたたと、あの魔術師の男は……完全に、二人だけの世界ね……」
モニターの中で、うたたは魔術師の胸に身を預け、まるで誰にも邪魔されない夢の中にいるかのようだった。
その光景に、美麗の胸が、またひとつ高鳴る。
(……うらや……いやいや、私は……!)
思わず口に出しそうになった言葉を、慌てて飲み込み、はっと我に返る。
(……違う、今はこんなことに、うつつをぬかしている場合じゃない)
美麗は、ぎゅっと拳を握りしめた。
自分の王国が、いまどれほど切羽詰まった状況にあるのか……その現実が、再び胸に重くのしかかってきた。




