第74話 風が止むとき、運命は動き出す
時は少しさかのぼり、猫獣人の娘たちに見送られ、風の加護をまとって駆け出した三人……リュカ、バルド、カゲトラは、ユグドラシルの目前まで迫っていた。
風の奔流が、徐々にその勢いを緩めていく。
空に浮かんでいた風の刃の幻影が、音もなく霧散し、三人の足元に広がっていた紋章も、やがて淡く消えていった。
巨大な世界樹ユグドラシルの天頂が、木々を透かして垣間見える。その神域は、もう目と鼻の先だった。
「……ここで一度、風の印を解こう」
リュカが、リュートを静かに下ろしながら言った。その声には、ほんのわずかな疲れと、斥候らしい慎重な判断がにじんでいた。
バルドとカゲトラも、無言で頷く。
風の加護は強力だが、持続時間には限りがある。それに術中は魔力を少しずつ消費するので、この先に待つ何かに備えるためにも、今は一度、立ち止まるべきだった。
三人は、木々の間に広がる小さな岩場に腰を下ろした。
風が止み、静寂が戻る。しかし、その静けさは、どこか不自然なほどに澄んでいた。
リュカは水筒を取り出し、口を湿らせる。バルドは数珠を指でなぞりながら、目を閉じて祈りを捧げ、カゲトラは黙々と刀の手入れを始めた。
誰も口を開かない。そこには、三人の間には、言葉にせずとも通じ合う緊張と覚悟があった。
この先に、何かがある。それは、ただの予感ではない。風の流れが、音の響きが、大地の鼓動が、確かに告げていた。
世界樹ユグドラシル。
彼らが暮らしていた世界には、そのようなものは存在しなかった。
ミトラが語ってくれた神話の時代から続く、この世界の中心、そう言い伝えられている存在だという。しかし、その言い伝えは本当に事実なのだろうか。
ミトラも人伝に聞いただけで、その真意を知らない。ただそれが当然と信じ込んでいる。
三人にとっては、この地が世界の中心だということに、どこか釈然としないものを感じていた。
風景は確かに神秘的で、空気も異様に澄んでいる。けれど、彼らの胸には、言葉にできない違和感が、じわりと広がっていた。
まるで、何かとんでもないものが隠されているかのような……そんな感覚が、彼らの足を重くさせていた。
休息を終えた三人は、再び歩き出した。風の印は解かれ、今は静かな足取りで、ユグドラシルへと続く獣道を進んでいる。
木々の間から差し込む光は、どこか白く、現実味を欠いていた。まるで、世界そのものが夢の中に沈んでいるような、そんな錯覚すらおぼえる。
「どこかで、この迷宮を攻略している歯車達……この国の冒険者たちに出会えればいいんだけどな。何にせよ、この国の情報が欲しい」
リュカがぽつりと呟くと、バルドが眉間にしわを寄せた。
「懸念があるとすれば……彼らが、我がミレディアセイン女王国と敵対する勢力の者でなければよいが、ということだな」
言葉を終えると同時に、バルドは手にしていた水筒をそっと包みに戻した。
「言葉が通じればまだしも、通じなければ……面倒なことになるな」
「バルド、念のため翻訳の魔法、頼めるか?」
「承知。拙僧の言霊の交わりが、異なる舌を結び合わせようぞ」
バルドは立ち止まり、数珠を手に取りながら、静かに呪文を紡ぎはじめた。その声は低く、深く、まるで古の祈りのように空気を震わせる。
やがて、三人の胸元に淡い光がふわりと灯る。それは、言葉の壁を越えるための魔法……異なる言語を、心で繋ぐ術。
「これで、ある程度の言語差は埋まるはずだ。ただし……相手の心が閉ざされていては、意味をなさぬがな」
「そこはもう、気合いで押し通すしかないな」
「拙者、気合いには自信があるでござる」
「お前のは気合いというか、もはや呪いレベルの圧だろ……」
三人の笑い声が、再び静かな森に溶けていった。しかし、その笑顔の奥には、いつでも抜刀できるよう張り詰めた緊張が、確かに息づいていた。
翻訳の魔法が胸元に馴染んだのを確認し、三人は再び歩き出す。その足取りは慎重でありながら、どこか和やかだった。
「……そういえばさ」
リュカがふと、空を見上げながら口を開いた。
「前も、ここに転移してきたとき、似たような話したよな。言葉が通じるかどうかって」
「うむ。あのときも、拙僧が言霊の交わりを使ったな」
バルドがそんなに古い話でもないのに、懐かしそうに頷く。
「そうそう、それでさ。そのあとすぐ、ニャルやコトラ、フワリたちと出会ったんだよな」
リュカがにやにやと笑いながら振り返ると、カゲトラがぴくりと眉を動かした。
「……リュカ……拙者は、決して初めてみた女人に心底驚いたわけでないでござるよ」
「いや〜、言い訳はいいから! あのときはさ、まさかあんなに可愛い娘たちが出てくるとは思わなくてさ! 俺もかなりびびったよ」
「……某、拙者たちとまるで違う異性に初めて出会った。あれは……歯車生で一番の驚きだったでござる」
カゲトラが納得した顔でうなずくと、リュカは思わず吹き出しかけたが、すぐに笑いを引っ込めた。
「……俺もだよ。あのときは、本当に驚いた。けど……なんだろうな、あの娘たちのこと、思い出すとさ……」
「拙僧も、同じ気持ちでありますぞ」
バルドが静かに言葉を継ぐ。三人はしばし、足を止めた。風が木々を揺らし、どこかで鳥のさえずりが聞こえる。
「……でもさ、最初に出会ったときは、正直びびったよな。ニャルたちのこと、魔物かと思ったもん」
「ふむ、確かに。魔物なのに拙者たちとはまるで異なる、柔らかで優しげな気配……あれは、初めての感覚だったでござる」
「……女神様は、あの者たちを拙僧たちと同じ人間と認められた。ならば、我らがどうこう言う筋合いではない」
「うんうん、なんか猫獣人だったっけ? 俺たちの国の尊き御方みたいな、ああいう高貴で光り輝く、近寄りがたい感じじゃないけどさ……でも、あの可愛さと癒し力は、ほんと……出会えてよかったよな」
リュカが心底楽しそうに笑うと、バルドもカゲトラも、自然と頷いていた。その表情には、どこか柔らかな光が宿っていた。
「……にしてもさぁ」
リュカが、再び、にやにやと笑いながらカゲトラを横目で見る。
「思い出すとさ、ミトラとニャルが、カゲトラの膝枕をめぐって頭の取り合いしてたの、あれ最高に微笑ましかったよな」
「や、やめぬかリュカ……っ」
カゲトラの耳まで真っ赤に染まる。
「拙者、あれほど柔らかな感触は……初めてだったでござる……」
「ははっ、素直でよろしい!」
リュカが肩を揺らして笑う。
「でもさ、カゲトラだけじゃないぞ? 俺だって、あのとき……猫娘たちに囲まれて、もう大変だったんだからな」
「ふむ、確かに。最後はコトラ殿に泣きながら抱きつかれて……顔が、まるでフレアドラゴンのブレスのように真っ赤だったでござるよ」
「うぐっ……それは言うなって!」
リュカが顔を覆い、バルドが堪えきれずに吹き出した。
「ふむ……されど、そなたも人のことは申せぬであろう。拙者の記憶が確かならば、バルド殿とて……フワリ殿の御前にては、まこと見事なたじろぎぶりであったと覚えておるぞ」
「む……むぅ……拙僧はただ、あの柔らかな声に……少々、心が揺れただけで……」
「それをたじたじって言うんだよ、バルド」
三人は顔を見合わせ、ついに堪えきれずに笑い出した。その笑い声は、森の静寂をやさしく揺らし、どこか懐かしい温もりを運んできた。
ニャルのいたずらっぽい笑顔。
コトラの無邪気な声。
フワリの優しい手のぬくもり。
それぞれの胸に、猫獣人の娘たちの面影がよみがえる。あの小さな里で過ごした、穏やかで、あたたかな日々。
だからこそ、守りたい。あの笑顔を、あの場所を、絶対に。
「……にしてもさ」
リュカがふと、歩きながら呟いた。
「実際、あの娘たちだったから、あんなに気軽に接することができたけどさ。もし相手が尊き御方だったら……俺、絶対あんなふうに話せなかったと思う」
「それは、まことに然りでござるな」
カゲトラが腕を組み、真面目な顔で頷く。
「尊き御方とは、まさしく高貴なる存在。我らのような者とは、そもそも住まう次元が異なるでござるよ」
「ってことはさ……俺たちがニャルたちに出会えたのって、本当に奇蹟だったんだな」
リュカの言葉に、しばしの沈黙が落ちる。その静けさを破ったのは、バルドの低く、祈るような声だった。
「……女王国は、無数に存在する」
彼は空を仰ぎ、ゆっくりと語り出す。
「我らが知るのは、あくまで近国の一部に過ぎぬ。世界は広く、神の御業は深い。あのように、獣の力を宿しながら、あれほどの優しさと美しさを備えた娘たちが在ること……それは、決して不思議なことではあるまい」
その言葉には、僧侶としての信仰と、冒険者として旅を重ねた者の実感がにじんでいた。
「……うん。ほんと、出会えてよかったよ」
リュカがしみじみと呟く。その声に、カゲトラもバルドも、静かに頷いた。
風がまた、再び歩き出した三人の背を押すように吹き抜けていく。




