第73話 戦わぬ強者、砕かれる誇り
その巨体に似合わぬほど、彼の表情は穏やかだった。刈り上げた頭部の中央には、金色の髪が鋭く逆立ち、まるでトサカのように天を指している。額には汗がにじみ、口元には、どこか申し訳なさそうな笑みが浮かんでいた。
「拙僧は……そなた達のような……尊き御方と戦う気はない……どうか拳を退いてもらえぬか」
その声に、京華の眉がぴくりと動いた。雷狼の霊を宿し、白蛇紋の加護を受けた自分の一撃が、まるで通じない。
それどころか、相手は明らかに手加減している。隙を何度も見せているのに、彼は一度も反撃の拳を振るってこない。
「なぜ……なぜ、攻めてこない……」
「……拙僧には、そなた方と刃を交える理由がござらぬ。願わくば、争わずに済ませたく……それだけにて」
その一言が、京華の胸を焼いた。雷よりも鋭く、剣よりも深く、誇りを裂く言葉だった。
「……ふざけるな……」
隣でレインが無言のまま、鋭く指を鳴らす。
その瞬間、空気が震えた。彼女のスキル《覇令の人形使い》。それは、戦場に響く絶対の号令。
味方の士気を高め、敵の心を制圧し、格下の者の抵抗を奪い、指揮下に置く。そのスキルを受け入れてしまった瞬間、戦場はレインの支配下に入る……はずだった。
しかし、バルドは若干ひきつった笑いを浮かべたまま、心底申し訳なさそうに、ただその場に立っていた。
「……拙僧に何か、なされましたかな? もしや、御身に不敬を働いたのであれば、深くお詫び申し上げましょうぞ」
その言葉に、レインの眉が大きく跳ねた。彼女の指揮すら、バルドの前では空を切る。完璧に組まれた陣形も、彼の直感と動きに読み切られ、崩され、無力化されていく。
「……この私が……こんなにも手加減されている……?」
レインの声が、屈辱に震える。彼女のスキルが通じない相手など、これまで存在しなかった。それなのに、目の前の正体不明の存在は、まるで支配されるという概念そのものを知らないかのように、ただ強く、そこに立っている。
京華の喉奥から、低く唸りが漏れる。それに呼応するかのように雷が、再び彼女の周囲に集まり始める。なのに、その怒りの熱量すら、バルドの優しい眼差しに吸い込まれていくようだった。
「……拙僧の願いは、ただ一つ。誰一人、傷つかぬこと……それが叶うのならば、これ以上の幸いはござらぬ」
その言葉に、京華は言葉を失った。
戦いの場で、こんなにも殺気のない敵がいるなど、想像すらしていなかった。
しかし、確かに彼は圧倒的に、理不尽なまでに強い。そして、京華とレインの誇りは、静かに、確かに、砕かれつつあった。
「……また、かわされた……?」
ルーセントの眉間に、深い皺が刻まれる。白蛇紋の力を宿した拳が、空間をも裂いたはずだった。なのに、そこにいたはずの正体不明の者の姿は、すでにいない。
「拙者、カゲトラと申す。いざ、参る」
その声が、背後から響いた。振り返った瞬間、ルーセントの頬をかすめて、風が走る。斬られていない。だが、確かに斬撃の結果だけが、そこにあった。
「……無影、だと……?」
義那の瞳が細められる。幻視でできた九尾がふわりと広がり、空間に狐火が舞う。紫と薄紅の光が揺れ、幻惑の気配が周りを囲む。
「視覚、魔力、気配……どれも、掴めない……」
「拙者、ただ静かに在るのみ」
カゲトラは、構えすら見せない。背筋を伸ばし、ただ立っている。そして、次の瞬間には、義那の幻術の中心をすり抜け、彼女の背後に立っていた。
「っ……!」
義那の幻影が、霧のように崩れる。彼女の瞳が揺れた。見破られた。完璧なはずの幻術が、まるで通じていない。
「なぜ……なぜ、惑わされない……?」
「拙者の心、静かなるがゆえに」
その言葉に、ルーセントの怒気が爆ぜた。超濃度な魔力の塊が唸り、空気が焼ける。なのに、カゲトラは一歩も動かない。
いや……動く必要がないのだ。
「貴様……本気を出していないな……」
「拙者、其方のような尊き御方を斬ること、できぬゆえ」
「ふざけるなあああああ!!」
白蛇紋の銀光が爆ぜた。ルーセントの怒声とともに、空間が白く染まる。
その一撃は、まさに竜の咆哮。
「……拙者、女人を斬らぬ、傷つけぬと誓った身。されど、避けることまでは禁じられておらぬ」
カゲトラは、まるで風のようにその場から姿を消し、次の瞬間、彼は義那の幻術の外縁に、静かに立っていた。
構えもなく、気配もなく、ただ結果だけがそこにある。
「……っ、また……」
義那の艶やかな狐の尾が逆立つ。幻術の網が、何度もすり抜けられる。彼女の瞳が、怒りと困惑に揺れる。
「私の幻が……通じない……? まさか、感情を……封じているの……?」
「心、静かなるがゆえに、惑いは届かぬよ」
その言葉に、義那の胸がざわめいた。彼女の『疑』のスキルは、心の揺らぎにこそ力を発揮する。しかし、目の前の男には、それがまったくない。まるで、感情というものを最初から持たぬかのように。
「……遊んでいるのか……?」
ルーセントが、低く唸る。
「私たちが……女だからっという理由で、本気を出さないっていうのか……?」
「さよう……拙者、女人を尊ぶ国より来たりし者。そなた方のような尊き御方を傷つけるは、拙者の道にあらず」
「それが侮辱だって、わからないのか……!」
義那の幻尾がふたたび九つに増幅し、空間を覆う。狐火が舞い、視界が歪む。
「……拙者、幻に惑わず」
その声が、また背後から響いた。
「っ……!」
ルーセントと義那の視線が交錯する。煮えたぎるような怒り、屈辱、そして……焦燥。
「このままじゃ……私たち、無力だと認めることになる……」
「それだけは……我慢できない……」
ブレスに似た斬撃と幻が、再び交錯する。だがその先に立つ男は、ただ静かに、己の武を貫いていた。
「……気配が、ない」
久遠の金の瞳が、わずかに細められる。影の中に溶け込むように佇む彼女の視界に、標的の姿は映っていない。
なのに、確かに音は聞こえる。風を切る弦の音。軽やかで、どこか楽しげな旋律。
「また、消えた……」
和久の霧が辺りを包む。淡い霧の粒子が舞い、空間の輪郭を曖昧にしていく。しかし、その霧の中を、まるで風そのもののようにすり抜ける影があった。
「うわっ、あぶなっ……! あ、いや、ごめんなさい! 当たってないですよね!? ねっ!?」
霧の中から飛び出してきたのは、焦げ茶の髪を無造作に揺らす浅黒い肌のどこか野暮ったい無骨さが残る男。
その手には、小型のリュート。弦を弾くたびに、風が生まれ、音が舞い、空気が揺れる。
「……なぜ、当たらない……」
久遠の睨みが、空を切る。その視線は、恐怖を刻むはずだった。なのに……。
「ひぃっ……目が合った!? やばい、やばい、やばい……って!」
顔を真っ赤にして、視線を逸らした。
「……なに、あれ……」
和久がぽつりと呟く。霧の中で、彼女の尾がふわりと揺れる。
惑わせるまでもない。最初から、正体不明のその者はこちらを見ていない。
「我々の姿が視界に入ると、声が出なくなる……っのか……いったい何故?」
「だが、動きは……」
「速い。軽い。読めない……」
久遠の影が伸びる。しかし、リュカはその影を踏まず、音もなく、霧の中をすり抜けていく。
「風詠リュート、再生……懼・影虎式」
「っ……!」
空間に、先ほど使用したばかりの久遠のスキル名が響く。すぐに影を裂くように走ったのは、久遠の気配遮断と威圧の睨みを模した、リュカ独自の再生技……その気配は一瞬で消え、霧の中に溶け込んだ。
「……っ、気配が……消えた……?」
久遠のさめた瞳がわずかに揺れる。和久の霧が、リュカの姿を捉えようと揺らめくが、そこに確かな存在はない。
「風詠リュート、再生……惑・霧狸式」
再び、リュカの声が霧の中から響く。今度は、和久の幻の霧を再現したかのような、柔らかくも惑わす気配が広がる。
新たな霧が和久の霧を飲み込み、空間の輪郭が歪む。
久遠と和久が一瞬、身構えたその隙を逃さずに。
「ごめんなさい、ちょっと通りますよっと」
リュカが、軽やかな言葉とともに霧の中をすり抜けていった。それは、舞台の上を軽やかに駆ける踊り子のように。
「……再生した……私たちの式を……?」
「完全に……」
久遠の冷たい眼差しに、かすかな怒りの色が灯る。和久の笑みも、いつもの柔らかさを失っていた。
「……あの顔、次に見たら……絶対に惑わせてやる」
「拙者も……睨み殺す」
「……拙者?」
「……影の気分」
霧の中で、二人の気配が変わる。しかし、その変化すら、リュカは気づいていない。
いや……気づいていて、あえて気づかぬふりをしているのかもしれない。
「……あの者、なんなの……?」
「格が……違う」
戦いの場とは思えないほどの静寂のなかで、二人の誇りが削られていく音だけが響いた。




