第72話 理の外に立つ者、その正体
ユグドラシルがそびえる地下十五階。そこは、鏡宮の王国において、最も神聖で、最も侵されざるべき領域。
その深奥で、かつてない異変が起きていた。
「……こんな……ありえるの?」
鏡張りの執務室に、かすかな声が落ちる。エコーは静かに目を閉じ、白い指先を胸元に添える。そのまま、意識の深層へと沈み込み、コード同士を繋ぐ念伝の回路を開いた。
エコーの脳内で、淡い光が揺れる。
ルーセントの視界。レインの鼓動。京華の雷光。久遠の影。義那の幻。和久の霧。六つの意識が、断片的に、エコーの中に流れ込んでくる。
「コード・ルーセント、レイン、そして四戒仙……全員、交戦中です」
美麗は、背後の高座に静かに腰を下ろしていた。その表情は、いつも通りの冷静さを保っている。しかし、エコーの次の言葉が、その仮面に微かな揺らぎを走らせた。
「誰もが……劣勢です」
執務室の鏡面が、わずかに軋む音を立て、空気が、ひときわ重くなる。
「……何を言っているの、エコー」
「事実です」
エコーは目を開け、静かに告げる。
「六名全員が、未知の敵と交戦中。それぞれが分断され、連携も取れていません。敵の魔力反応は、既知の分類に該当せず……正体は不明です」
「ルーセントが……レインが……そして、四戒仙まで揃っているのに……?」
美麗の声が、かすかに掠れる。彼女の中で、絶対だったはずの力の秩序が、音を立てて崩れていく。
「まさか、あの六名が……劣勢に立たされるなんて……」
鏡の王国に、侵入者がいる。しかも、ただの侵入者ではない。この世界の理を、根底から覆す何かが、そこにいた。
ユグドラシルを目の前にした開けた広場、中央聖域。
変貌した雪の咆哮が空間を裂いてから、すでに数分が経過していた。しかし、彼……いや、雪であった者は、それっきり一歩も動かない。
まるで、動けば足元に意識のないまま横たわっている朱音を、知らず傷つけてしまうことを恐れているかのように。
天を仰いだまま、白く反転した瞳を空に向け、ただ静かに立ち尽くしている。その場に吹き荒れる魔力の奔流は、なおも止む気配を見せず、空気は張り詰めたままだ。
「……動かない……?」
「いや、動けないの……?」
インクラインのメンバーたちは、距離を取りながら、ただ呆然とその姿を見つめていた。
誰も武器を構えようとはしなかったが、しかし雪の元に一歩を踏み出せずにいる。
あの咆哮を聞いた瞬間、全員の本能が告げていた……下手に近づけば、終わる。
「……もしかしたら、朱音が……足元にいる……から?」
「まさか……雪くん、あんな状態でも朱音を……気づかっている?」
空と風花が呆然としながらもわずかな希望をこめて呟く。
変貌した雪であったものの足元には、未だ目を覚まさぬ朱音の姿。そのすぐ傍に立ちながらも、彼は一切の動きを見せない。まるで、無意識のうちに彼女をかばうように、誰にも触れさせまいとしているかのように。
「……じゃあ、雪くんは……」
その名を口にした瞬間、インクラインの誰もの胸に、かすかな希望が灯った。まだ、彼の中に雪の意識が残っているのだと。
そのとき、静まりかえっていた広場の空気が揺れた。
四方から、白銀の装甲と顔を完全に覆うフルフェイスの兵たちが次々と姿を現す。コード・ラインとコード・ミラー、鏡宮直属の量産型部隊、二個小隊、計六十名。
「ミラー部隊、展開完了。ライン、後方にて待機」
「敵性反応、確認……だが、攻撃の意思は見られず」
整然とした動きで陣形を組みながら、彼女たちは雪を円形に囲み、インクラインの横に並び立つ。とはいえ、武器は構えず、あくまで防衛の姿勢を崩さない。
『……下手に刺激するのは得策ではありません』
エコーの念伝が、ラインとミラーの指揮官の脳裏に直接響く。
「我々も、敵対の意思はありません。状況を見極めるまで、ここで待機します」
急に現れた武装した兵士たち……インクラインの司令塔でもある藍坂 空は、彼女たちの装備と動きに目を細めた。
それは、まるで凍りついていた思考に、湯水を浴びせられたかのような感覚だった。
雪の変貌に、空でさえも考えが停止して、判断力を失っていた。大切な仲間が、あの雪が、あんな姿に……その衝撃に、思考が追いつかず、ただ立ち尽くしていた。
しかし、軍隊の唐突な登場が、彼女の中のパーティーの司令塔としての自覚を呼び戻した。
冷静さが戻る。視線は即座に兵の配置と動線を読み取り、装備の規格と動きの癖を分析する。その動きは、明らかに訓練された部隊のものだった。
「……やはり、ただの噂ではなかったのね」
ミラーパレスにまつわる不穏な話。鏡宮財閥が裏で軍事力を持っているという、信じがたい噂。
未踏破地帯に軍隊を? 常識では考えにくい。しかし、目の前の光景が、それを現実として突きつけていた。
空は静かに頷いた。とはいえ、今はそこに疑問を感じている場合ではない。
変貌した雪を前に、敵味方の境界は意味をなさない。協力してでも、彼を元に戻す方法を……願わずにはいられなかった。
インクラインの面々は、互いに視線を交わしながら、静かに頷いた。誰もが理解していた。今は、動くべき時ではない、と。
ユグドラシルの中央聖域の様子は、観測用のドローンを通じて、その一部始終をミラージュリンクを通じて世界中に配信されたままだった。
朱音の沈黙と雪の変貌……そして、突如として現れた鏡宮直属の軍隊。
あまりに現実離れした光景に、視聴者たちは言葉を失い、ただ画面を見つめていた。
そして、ついにその沈黙が破られる。誰かが、震える指でキーボードを叩いた。その一言が引き金となり、堰を切ったようにコメントが一気に流れ始める。
【コメント欄】
『な、な、なんで……こんなことに……』
『雪くん……嘘でしょ……?』
『朱音の姐御……無事なの……?』
『あの兵士たち、どこから来たの!?』
『ミラーパレスって、やっぱり……』
『雪くんの中に、まだ意識があるなら……』
『お願い、戻ってきて……!』
『空さん、風花ちゃん……どうか、みんなを守って……』
『朱音の姐さん、目を覚まして……雪くんを止めて……』
『こんなの、誰も望んでない……よ』
『もしも世界が敵になっても、インクラインは味方でいて……』
『どうか、どうか奇跡が起きて……元にもどって』
コメント欄は、祈りと混乱と恐怖で埋め尽くされていく。誰もが、ただ奇跡を願っていた。あの者が、再び雪として笑ってくれることを。
雷が、地を裂いた。蒼白の閃光が、空間を焼き、轟音が戦いの場を貫く。
「驚雷狼牙!」
空を裂いて京華の一撃が、降り注ぐ。しかし、その拳は、相対する者には届かない。雷をまとった斬撃が、確かに命中したはずの巨体は、まるで何事もなかったかのように、そこに立っていた。
「……また、避けられた……?」
京華の金の瞳が揺れる。目の前に立つのは、身の丈は二メートル近く、丸太のような腕と岩のような胸板。かつて鏡宮が所有する未踏破ダンジョンでの戦闘訓練中、彼女が遭遇したオーガと呼ばれる危険な魔物に匹敵する、圧倒的な体躯の持ち主だった。
ユグドラシルで新たな生を授かり、戦うことだけを教えられ、戦うことでしか存在を証明できなかった京華にとって、目の前にいる者は、ただの脅威でしかなかった。
彼女は知らない。目の前で対峙している者こそが、鏡宮が長年追い求めてきた理想の漢を、まさにこの世界に体現した存在であることを。
力と優しさを併せ持ち、破壊ではなく守るために拳を振るう者。彼女の絶対的な主である美麗が、幾度となく夢に描いたもう一つの可能性が、いま目の前に立っているということを。
ユグドラシル周辺の警戒任務に就いていたルーセント、レイン、四戒仙は、その事実を知らない。もちろん、五星姫の配信も観ていない。世界中を驚愕させた本物の漢が、三人も現れたという報せすら、彼女らの耳にはまだ届いていなかった。
そんな事情もあって、京華にはまるで理解できなかった。なぜ敵対しているのに、殺気もなにもないのか。なぜ自分は、こんなにも怒りに震えているのか。なぜ、拳を交えるたびに、自分の誇りが削られていくのか。
彼女の中で、答えのない問いだけが、雷のように渦巻いていた。
そんな京華とは反対に、その巨体に似合わぬほど、彼の表情は穏やかだった。
刈り上げた頭部の中央には、金色の髪が鋭く逆立ち、まるでトサカのように天を指している。額には汗がにじみ、口元には、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。




