第226話 帰りたい場所と、残りたい理由
恋愛という、自分たちにとって未知の戦場を前に、六人揃って項垂れることしばし。
やがて、クラウは大きく息を吐き、散らかりかけていた思考を整えるように背筋を伸ばした。
「……ひとまず、女性たちのことはおいておこう」
「おいておけるのか?」
リュカが尋ねる。
「ひとまずだ。そうしなければ、いつまで経っても本題に入れない」
「それもそうだな」
明るく応じたリュカの横で、フェルマはどこか落ち着かない様子で扉へ目を向けていた。
防音術式は正常に働き、隙間もなく、窓の外に人影もない。
それでも、影へ溶け込むことのできる彼女を相手に、この個室が本当に安全だと言い切れるのか、確信を持てなかった。
「フェルマ」
「聞いているよ」
「本当に?」
「大丈夫。たぶん、今は近くにいないから」
「何の話をしているんだ……」
クラウは追及を諦め、円卓に集う五人の顔を順番に見つめた。
「改めて、今後について話そう」
その声に、先ほどまでの疲労はまだ残っている。
それでも、《無冠の灯》を率いてきたリーダーとしての力強さは失われていなかった。
「俺たちは、この世界へ来てから目の前の出来事へ対処するだけで精一杯だった。だが、いつまでも成り行きに任せるわけにはいかない。元の世界へ戻る方法を探すのか。それとも、しばらくこの世界で生きていくのか。今すぐ結論を出す必要はないが、互いが何を望んでいるのかくらいは知っておきたい」
五人は、すぐに答えなかった。
それは、誰も真剣に考えていなかったからではない。
むしろ、この世界へ転移してから、心の奥では何度も考えてきた問いだった。
元の世界へ帰りたいのか。
問いだけならば単純である。
しかし、その答えを口にしようとすれば、祖国への忠誠、冒険者としての責務、この世界で出会った人々、そして新たに芽生えた感情のすべてが複雑に絡み合う。
「そもそも、帰る方法があるのか?」
最初に口を開いたのはストレイだった。
彼は卓上へ指先を置き、見えない術式を描くようにゆっくりと動かす。
「黒の回廊からユグドラシル聖域へ転移した時の術式は、鏡宮側の技術によるものだった。だが、我々が元の世界からこちらへ来た現象とは、魔力波形も空間座標の歪み方も異なる。転移地点に残っていた痕跡も、すでにほとんど消えている」
「お主ほどの空間魔術師でも、手がかりを掴めぬか」
カゲトラの問いに、ストレイは小さく頷く。
「現時点ではな。世界を隔てる境界が、どのような仕組みで開いたのかさえ分からない。誰かが意図的に我々を呼び寄せたのか、迷宮の異常による偶発的な転移だったのか、それすら判断できていない」
「つまり、戻るかどうかを選ぶ以前に、戻る手段そのものがない」
フェルマが簡潔にまとめる。
「ああ。少なくとも、すぐに帰れる状況ではない」
個室へ、静かな空気が流れる。
絶望的な事実ではある。
なのに、六人の表情に強い悲壮感はなかった。
帰還できないと知って安堵しているわけではない。故郷を捨てたいと考えているわけでもない。
ただ、元の世界へ帰ることだけを唯一の望みとしているならば、もっと深い焦燥に駆られていたはずだった。
そうなっていないことを、六人は自覚していた。
「では、聞き方を変える」
クラウは一拍置き、静かに問いかける。
「もし今、確実に元の世界へ戻れる門が開いたとしたら……お前たちは、すぐに帰りたいか?」
返事はなかった。
誰も迷わず頷けなかった。
円卓には、御厨料理長が用意した料理が並んでいる。
肉は香ばしく焼かれながらも柔らかく、噛むたびに旨味が広がる。
色鮮やかな野菜は、それぞれの食感と甘みを残したまま調理され、透き通った汁物からは、彼らの世界では使われていなかった繊細な出汁の香りが漂っていた。
甘辛く煮つけられた魚。
香辛料を巧みに組み合わせた煮込み。
粒の一つ一つが立つように炊かれた白米。
食事ひとつを取っても、元の世界では味わったことのない驚きに満ちている。
「この料理を食べられなくなるのは、惜しいな」
リュカが、どこか冗談めかして呟いた。
とはいえ、その声音には心の底からの本音が混じっていた。
「俺たちの世界にも豪華な料理はあったけど、それを食べられるのは女王様や高位の女性たちくらいだった。俺たち冒険者が、毎日のようにこんな料理を用意してもらえるなんて、考えたこともなかった」
「御厨殿は、我々の身体や好みまで考え、献立を変えてくださっている。ほんにありがたいことだ」
バルドも、目の前の煮込み料理へ穏やかな視線を落とす。
「厨房を見学させていただいたが、調理器具も保存技術も実に興味深い。炎を使わずに食材を温める器具や、冷気を長時間保つ箱まである。拙僧が知る料理の技へ応用できれば、遠征中の食事も大きく変わるであろう」
料理を愛するバルドにとって、この世界の厨房は宝の山だった。
食材だけではない。
温度管理しかり、衛生管理という概念。そして保存方法の確立と栄養という概念に基づく献立。
長い迷宮遠征の中で、少しでも仲間へ温かな食事を与えたいと考えてきた彼にとって、学びたい技術は数えきれないほどあった。
「料理だけじゃないよな」
リュカが卓上に置いていた小型端末を持ち上げる。
薄い板の表面へ指で触れると、保存されていた映像や文字が瞬時に表示された。
「遠く離れた相手と、その場にいるみたいに話せる。世界中の音楽を、こんな小さな道具ひとつで聴ける。楽器の音を記録して、何度でも同じように再生できる。こっちの世界じゃ当たり前らしいけど、俺には全部、伝説の魔道具にしか見えない」
吟遊斥候であるリュカは、とりわけ音響技術へ強い関心を抱いていた。
録音、映像、通信、増幅装置等。
自分の演奏を遠く離れた場所へ届け、演奏が終わった後も残し続けることのできる技術。
音楽を生業とする者にとって、夢のような可能性だった。
「科学に、機械工学……だったか」
カゲトラが端末を見つめながら呟く。
「魔力を持たぬ者であっても、道具と知識によって、これほどのものを作り上げる。拙者たちの世界とは、根本から異なる技術体系でござるな」
「戦闘技術も同じだ」
クラウが続ける。
「京華殿の雷を用いた体術、久遠殿の影を使う歩法、ルーセント殿の白雷。そして、朱音殿たちが扱う迷宮由来のスキル。我々が学んできた武術や魔術とは、似ている部分がありながら、力の組み立て方がまるで違う」
クラウは騎士として、カゲトラは侍として、己の武を磨き続けてきた。
元の世界でも、彼らの技量は決して低くない。
しかし、この世界には、体系そのものが異なる力が存在する。
魔力回路を用いる術式。
迷宮から授けられるスキル。
妖獣の血へ由来する固有能力。
近代兵器と魔術を組み合わせた武装。
知らない技術へ触れるたび、自分たちがさらに強くなれる可能性を感じていた。
「ボクも、まだ調べたい素材が多すぎる」
フェルマは、卓上へ置いていた小さな薬瓶を指で転がした。
中には、ユグドラシルから採取された植物を加工した淡い緑色の薬液が入っている。
「ユグドラシルの植物は、ボクたちの世界にある薬草と似た成分を持ちながら、魔力への反応がまるで違う。正しく組み合わせれば、いままで作れなかった薬を作れる可能性がある」
「仮とはいえ、エリクサーまで作ったものな」
リュカの言葉に、フェルマは少しだけ顔をしかめる。
「あれは不完全だよ。素材の特性に助けられただけで、調合比率も安定していない。もう一度同じものを作れる保証もない」
「だから、研究したいのか?」
「うん。あの素材を理解したい。この世界の薬学や科学も学びたい。元の世界へ戻ったら、これほどの研究環境は二度と得られないと思う」
その思いは、ストレイも同じだった。
「こちらの魔術体系だけでも、調べる価値は十分にある。さらに科学と呼ばれる技術は、魔力を前提としていない。それを空間魔法や神聖魔術と組み合わせれば、今まで不可能だった術式を構築できるかもしれない」
ストレイの瞳には、魔術師として純粋な好奇心が宿っている。
帰還方法を探すためにも、この世界の空間理論と科学技術を学ぶ必要がある。
しかし、それだけではない。
未知を知りたい。
自分の魔術がどこまで進めるのか確かめたい。
研究者としての心が、この世界へ強く惹かれていた。
そして。
誰も口にこそしていないが、六人が即座に帰還を望めない最大の理由は、料理でも、科学でも、未知の魔術体系でもなかった。
「……あとは、やはり人だな」
クラウが静かに口にした。




