第225話 恋愛経験値は、六人そろってゼロ
フェルマは細身ではあるが、男らしい身体つきをした青年で、錬金薬剤師としての技術は《無冠の灯》が所属していた冒険者ギルドでも随一であった。
それは、彼の所有するユニークスキルである霊薬精製が、ポーション系統の薬品を道具なしに自在に調合できる極めて稀なスキルであった。
薬草の鑑定も、成分の抽出も、調合も、精製も全て一括で処理でき、未知の素材を前にしても、仮の状態とはいえエリクサーすら精製してみせる。
調薬の場では、彼ほど頼りになる者はいない。
しかし今、その顔にはクラウとよく似た疲労がにじんでいた。
「ボクも、夜々さんが近くにいると思うだけで、本当に緊張する」
「……あの、くノ一の御方か」
リュカの脳裏へ、胡蝶 夜々の姿が浮かぶ。
影の中から音もなく現れ、肌もあらわな艶やかな衣装をまといながらも、戦いとなれば一瞬の迷いもなく魔力鞭を振るう女性。
普段の柔らかな微笑みと、戦闘時の冷徹さ。
その二つが同居し、彼らの世界では希少にして貴重とされる銀の髪の持ち主。
そんな至高の御方とも呼ぶべき存在なのに夜々は、フェルマの周辺へ驚くほど頻繁に姿を現す。
「最近は、部屋へ戻っても気配がするんだ」
フェルマは声を落とした。
「廊下を歩いても、天井や壁の向こうから見られているような気がする。調薬室で作業をしている時も、ふと振り返ると、いつの間にか後ろに立っている」
「それは……護衛として当然のことではないのか?」
クラウが尋ねる。
「ボクも最初はそう思った。でも昨日、『フェルマ様の寝顔は思っていたよりも可愛らしいですね』って言われた」
室内が静まり返る。
「……寝ている間もいたのか?」
「分からない」
「戸締まりは?」
「した」
「窓は?」
「閉めた。結界も張った」
「なら、どうやって……」
「だから分からないんだ」
フェルマは両手で額を押さえる。
「ボクが理由を尋ねても、『影はどこへでも繋がっていますから』って微笑むだけで……」
六人は揃って、夜々の艶やかな微笑みを思い出した。
意識せずとも頬が赤くなる。その美しさは疑いようもない。
とはいえ、鍵も結界も意味をなさず、眠っている間さえ近くにいた可能性を考えれば、フェルマが常に緊張してしまうのも無理はなかった。
「拙者であれば、眠れぬでござるな」
「最近、ボクも眠りが浅い」
「夜々殿へ、はっきりと伝えた方がよいのではないか?」
クラウが真剣に助言する。
「何と?」
「寝室へ入らないでほしい、と」
「そんなことを言って、もし悲しそうな顔をされたら?」
「…………」
クラウは答えられない。
拒絶したことで至高の女性を悲しませる。彼らにとって、それは考えるだけでとても恐ろしいことだった。
「……難しい問題だな」
「ああ」
クラウとフェルマは、互いの苦労を理解した者同士のように頷き合った。
その横では、カゲトラが静かに視線を動かしていた。
向けた先にいるのは、ストレイ。
《無冠の灯》の参謀を務める魔術師であり、神聖魔術と空間魔法の双方へ精通する青年である。
戦闘時の判断は的確。
未知の魔術を解析する能力も高く、六人の中では最も冷静に物事を捉えられる。
ただし、恋愛に関してのみ、その知性はこのメンバーの中でも著しく機能を低下させる。
「ストレイ」
カゲトラが、武士らしい落ち着いた声音で呼びかける。
「何だ?」
「お主も、あのふわふわとした姫君に、随分と懐かれておるように見受けられるが」
「ふわふわとした姫君?」
「うたた殿でござる」
「ああ」
ストレイは、ようやく相手を理解したように頷いた。
「黒の回廊でも、こちらへ転移してからも、あれほど密着されておっては、さぞ気の休まる暇もなかろう」
うたたは、五星姫の一人。
地雷系と呼ばれる衣装をまとい、気だるげで、ゆるふわっとした雰囲気ながら、戦いとなれば凄まじい魔術を放つ女性である。
彼女はストレイを見つけるたびに、その腕へ絡みつき、肩へ頭を預け、時には当然のように膝を借りようとする。
黒の回廊では、ストレイにお姫様抱っこされたまま胸元へ頬を寄せ、『ダーリン』とまで呼んでいた。
男たちの世界には無い言葉とはいえ、その甘い余韻を含んだニュアンスから、誰もが特別な関係だと認めても不思議ではない物言いであった。
カゲトラの言葉に、なのにストレイはきょとんと目を瞬かせた。
「何でだ?」
「……何で、とは?」
「あの御方が私のそばにいることに、気を休められない理由があるのか?」
ストレイは本気で分かっていなかった。
「あの御方と私は、ともに魔術師だ。魔力の波長も近く、術式を組む際の相性もよい。だから、近くにいた方が魔力の循環を安定させられる。ただそれだけだろう?」
「…………」
クラウが黙る。
フェルマもストレイを見つめる。
リュカは何か言おうとして、結局は口を開けたまま固まった。
バルドは数珠を握り、カゲトラは深い沈黙へ沈む。
ストレイだけが、皆の反応を理解できずに首を傾げていた。
「どうした?」
五人の心が、珍しく完全に一致した。
(こいつ……)
(この恋愛ポンコツ野郎が……)
うたたの好意は、傍から見ればあまりにも明白だった。
魔力の相性だけを理由に、四六時中そばへ寄り添う必要などない。
『ダーリン』と呼び、お姫様抱っこを求め、ほかの女性がストレイへ近づけば無言の圧力を放つことも、魔術的な効率だけでは説明できない。
何より、うたた本人は自分の感情をさほど隠していなかった。
気づいていないのは、当のストレイだけである。
「ストレイ、お前……本当にそう思ってるのか?」
リュカが恐る恐る尋ねる。
「ほかに理由があるのか?」
「いや、あるだろ。どう考えても」
「たとえば?」
「それは……」
リュカは即答しようとして、言葉を止めた。
うたたがストレイへ抱いている感情を指摘することはできる。
では、自分へ向けられている女性たちの視線については、正しく理解できているのか。
猫娘たちと過ごしていた時、彼女たちが自分の演奏を聞きながら妙に近くへ集まっていた理由。
和久が楽しそうに話しかけ、時折頬を染めていた意味。
それらを考えても、明確な答えは出なかった。
「……あれ?」
リュカの声から勢いが消える。
クラウも、冴月やルーセントの言葉を思い出していた。
昨日の要求は、女性たちが自分をからかっていただけなのか。
それとも、本当に異性として意識されていたのか。
もし後者ならば、彼女たちの気持ちへ自分はどのように応えるべきなのか。
何ひとつ分からない。
フェルマも同様だった。
夜々が自分を追いかける理由を、薬や世界樹の素材や自分が行っている影のものに近い呼吸法にも興味があるのだと考えていた。
しかし、寝息まで聞かれているとなれば、はたしてそれだけなのか。
カゲトラも、四戒仙の女性たちから向けられる熱のこもった視線を思い返す。
バルドは、京華やレインや御厨料理長たちとすれ違った際に、彼女たちの頬が赤くなっていた理由を考え始めた。
先ほどまで五人は、ストレイだけを恋愛に疎いと思っていた。
しかし、いざ自分自身を省みれば、誰もそれほど大差がないように思えた。
女性から向けられる感情を正しく読み取る経験など、六人の誰にもなかった。
彼らの世界では、女性は絶対的な上位者。
男は神の歯車として働き、戦い、迷宮へ挑む存在。
女性から対等な異性として好意を寄せられる可能性など、考えたことすらなかったのだ。
「……俺たちも、ストレイのことを言えないんじゃないか?」
リュカが、ぽつりと呟く。
誰も否定しなかった。
「拙者も……女人の心については、何ひとつ分かっておらぬ」
「拙僧も同じだ」
「ボクも、夜々さんが何を考えているのか分からない」
「俺もだ」
最後に、全員の視線がストレイへ集まる。
ストレイは皆の話を聞いてなお、不思議そうな顔をしていた。
「つまり、うたた殿が私のそばにいるのは、魔力の相性以外にも理由があるということか?」
「そこからかよ……」
リュカの力ない声が、個室へ響いた。
六人は揃って肩を落とす。
真面目な騎士。
恋愛だけは理解できない天才魔術師。
美しきくノ一に追われる錬金薬剤師。
女人を傷つけぬ誓いを守る寡黙な侍。
明るく朗らかな吟遊斥候。
料理を愛する戦闘僧侶。
戦闘であれば、それぞれが誰にも負けない技量と覚悟を持っている。
しかし、男女の機微に関しては、六人揃って驚くほど何も知らなかった。
御厨料理長の温かな料理から湯気が立ち上る中、今後の生き方や元の世界へ帰る方法を話し合うはずだった会合は、開始早々、《無冠の灯》全員の恋愛経験値がほぼ皆無であるという、どうしようもなく切実な事実を確認する場になっていた。




