第222話 天才は褒められたい、お姉様には
クラウが生涯のトラウマになりかねない勢いで女性たちに迫られ、最後には止める側だったはずのルーセントまで参戦しかけていた頃。
廊下をいくつか隔てた別の小会議室では、それとはまったく異なる種類の熱気が渦巻いていた。
室内にいるのは五人。
九条紫乃。
九重すみれ。
そして、鏡宮の頭脳たるレイン。
さらに、レインの副官にして鏡宮財閥の防衛機構を管理する二人のコード保持者……コード・ミストとコード・ライラも同席していた。
ミストは防衛結界と認識阻害機構の維持を担当し、冷静な解析能力と、複数の魔術式を同時処理することに長けている。
ライラは迎撃設備と警戒網の統括を担い、侵入経路の予測や各部隊への指示伝達を得意としていた。
二人とも、通常であれば外部の人間を容易に信用しない。
まして、自分たちが守るミラーパレスへ無断で侵入し、絶対的な結界と信じていた《鏡界障壁〈ミラーフォートレス〉》を接触記録すら残さず素通りした人物など、本来ならば厳重な警戒対象となるはずだった。
しかし現在。
鏡宮側の三人は、敵意も疑念も忘れたように目を輝かせ、すみれの説明へ聞き入っていた。
「つまり、《鏡界障壁》そのものを破壊したわけではないのだな?」
レインが、机上へ投影された複雑な術式図を見つめながら問いかける。
「当然ですわ」
すみれは胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
その隣に紫乃が座っていることもあり、普段以上に鼻息が荒い。
「レイン様が構築された《鏡界障壁》は、外部から力ずくで突破するには極めて非効率です。物理衝撃は反射され、魔術は屈折し、高エネルギーは吸収される。さらに接触した対象を解析し、次の層が最適な防御特性へ変化する。正面から挑めば、わたくしの《ラブレイザー・オルタ》といえど、無傷では済まなかったでしょう」
「では、どこへ干渉した?」
「結界ではなく、結界が侵入者を認識する前段階ですわ」
すみれが指を動かすと、複雑に重なり合っていた術式図の一部が拡大された。
表示されたのは、《鏡界障壁》の最外層よりさらに外側に存在する観測領域だった。
「《鏡界障壁》は、接触対象が外敵であると認識して初めて、反射、屈折、吸収、解析の各機能を起動します。つまり、障壁そのものは完璧でも、最初に『これは侵入者か』と判断する観測機構を通過できれば、結界は動く必要がありません」
ミストが眉を寄せる。
「そうは言っても未登録のものは、例外なく外敵として判定されるはず。登録情報を偽造しても、深層鏡界が魂魄情報と魔力波形の不一致を検出しないのは何故?」
「ええ。ですから、登録情報は偽造しておりません」
「では、何を?」
「機体を登録対象にしたのではなく、結界自身が発する保守用の観測信号へ、《ラブレイザー・オルタ》の存在情報を重ねました」
すみれの指先から、二本の光の波が映し出される。
一方は、《鏡界障壁》が自らの状態を確認するため、絶えず各層へ巡らせている保守信号。
もう一方は、《ラブレイザー・オルタ》の魔力波形。
二つの波が重なり、ひとつの形へ変化していく。
「結界に、わたくしを味方だと思わせたのではありません。外部の存在として認識させなかったのですわ」
「……障壁の観測信号そのものへ、機体を同化させたのか」
レインの目が大きく見開かれる。
「はい。結界にとって《ラブレイザー・オルタ》は侵入者ではなく、自分自身の状態を確認するための観測情報。そのため、反射も、屈折も、吸収も、解析も起動しません。自分の信号を、自分で拒絶する結界はありませんから」
「そんな……」
ライラは驚愕しながらも、表示された術式を食い入るように見つめている。
「理論そのものは、既存の魔力同期技術と同じ。まったく新しい術式ではないのに……」
「そうですわ」
すみれは、我が意を得たりと頷いた。
「必要なのは、常識を捨てることではありません。常識を見る位置を、ほんの少しだけ変えることです。強固な扉を壊す必要はない。鍵を盗む必要もない。自分を扉の一部だと思わせれば、最初から開ける必要さえありません」
「なるほど……」
ミストが感嘆の息を漏らす。
「障壁を攻略するのではなく、障壁が防御行動へ移る以前の認識過程を利用する。これならば、突破されたという記録が残らなかったことにも説明がつきます」
「素晴らしい」
レインも、素直な称賛を口にした。
「防御機能ばかりを強化し、観測機構も同等に複雑化していた。しかし、保守信号は全層の状態を共有する必要があるため、無闇に遮断できない。そこを逆に利用するとは……」
「さすがです、すみれ殿!」
ライラは興奮を隠せず、身を乗り出していた。
「この方式を逆用すれば、敵の侵入を待たず、観測信号へ異物が混ざった段階で隔離できます。警戒網の処理も大幅に短縮できるはずです!」
「よい着眼点ですわ、ライラ様」
「お褒めいただき光栄です!」
すみれは満足そうに胸を張る。
しかも、最愛の紫乃が見守る目の前で、自分の理論が鏡宮の頭脳と、その副官たちから称賛されているのである。
鼻が高くならないはずがない。
「ふふん。もちろん、それだけではありませんわ。現在の警戒網は、対象の発見、識別、危険度判定、迎撃手段の選定を順番に処理しております。しかし、各工程で同じ情報を何度も読み直しているため、演算資源の二十一・六パーセントが重複処理に費やされています」
「二十一・六……?」
「こちらの共有領域へ情報を一度だけ展開し、各防衛機構が必要な部分を参照する方式へ変更すれば、処理時間を三分の一以下へ短縮できます。さらに、侵入者の進路予測と迎撃部隊の配置を並列化すれば——」
すみれの説明は止まらない。
机上へ新たな術式図を展開し、警戒網の構造を分解しては組み直し、既存の設備だけで実現できる効率化を次々と提示していく。
決して、今ある常識を根底から覆すような理論ではなかった。
新たな魔術体系を作り出すわけでもなければ、未知の力を持ち込むわけでもない。
複数の場所で個別に処理していた情報を、一か所へまとめる。
順番に行っていた判断を、可能な範囲で並列化する。
情報を増やすのではなく、不要な重複を減らす。
どれも、言われてみれば当然と思える発想だった。なのに、その当然に気づくことは難しい。
完成度の高い防衛機構に携わる者ほど、現在の設計を基準として考えてしまう。その前提から半歩だけ外へ出て、全体を見直すことができる者は少なかった。
紫乃も、すみれの説明へ耳を傾けながら、その実力を素直に認めていた。
(やはり、この娘は優秀ですわね)
すみれの強みは、単純な演算速度だけではない。
膨大な情報を整理し、問題の本質を見抜き、それを相手が理解できる形へ変えて提示する能力。
群星リンクと《百花繚乱》という巨大な情報支援組織を、ほとんど表へ出ることなく統括してきた手腕は本物だった。
もっとも……紫乃は本来、この時間を自分に割り当てられた二百件以上の案件処理へ使いたかった。
机の隅には、持ち込んだ端末が置かれている。
すみれの講義は専門的ではあるものの、紫乃ならば一度聞けば内容を理解できる。細部の調整はレインたちに任せ、自分は作業へ戻っても問題ないと判断する。
紫乃は、すみれの説明が一区切りついた瞬間を見計らい、そっと端末へ手を伸ばす。
「それでは、わたくしは少し案件を……」
「お姉様……?」
すみれの声が、急激に弱くなった。
紫乃が顔を上げる。
そこには、つい先ほどまで鼻高々に理論を語っていた少女とは思えないほど、悲しみに満ちた瞳を向けるすみれがいた。
「わたくしの説明は……お姉様にとって、聞く価値もないものでしたの……?」
「そのようなことは言っておりません」
「ですが、お姉様は、わたくしから目を離そうと……」
「仕事が二百件以上、残っておりますの」
「お姉様のお仕事を邪魔するつもりはありません。わたくしはただ……お姉様が傍らで見守ってくださるだけで、普段の三百パーセントの力を発揮できますのに……」
すみれは言葉を切り、捨てられた子犬のような眼差しを紫乃へ向ける。
紫乃の指が、端末へ触れる寸前で止まった。
「……分かりましたわ。ここにいます」
「ありがとうございます、お姉様!」
すみれの表情へ、一瞬で満開の笑顔が戻る。
紫乃は端末から手を離し、諦めたように椅子へ座り直した。
「お姉様が見ていてくださるのでしたら、次はさらに重要な統合演算理論をご説明いたしますわ!」
「先ほどまでの悲しみはどこへ消えましたの……」
紫乃の呟きは、誰にも拾われなかった。




