第221話 止めるはずの鬼教官まで、参戦する
「なぁんだ、やっぱりぶつかっただけだったんだ!」
萌黄の明るい笑い声で、場の空気が少しだけ軽くなった。
しかし冴月は、その笑いには乗らなかった。静かに息を整え、クラウへ視線を向ける。
「萌黄。問題はその後だ」
低く落ち着いた声が、室内の空気を引き締める。冴月の瞳はまっすぐクラウを捉えていた。
「クラウは、リゼットの胸元を見たのだな?」
クラウは肩を強張らせ、真面目な顔で頷いた。
「あ、ああ。事故だったとはいえ、本当に申し訳ないと思っている」
「……そうか」
冴月の声は低く感情の揺らぎはみられなかった。しかし、その静けさの奥にある想いは、誰にも読み取れない。
次の瞬間、彼女は迷いなく一歩を踏み出し、クラウとの距離を詰めた。
「ならば、私のも見ろ」
「…………え?」
クラウの思考が止まる。
冴月は冗談を言っている様子など一切なく、ただ真剣に、まっすぐに彼を見つめていた。
「リゼットだけというのは不公平だ。私のも見れば、公平になる」
「いや、いや!? な、何がどう公平になると!?」
クラウが慌てて声を上げる。
その反応を見た冴月の胸の奥で、小さな痛みがひとつ、静かに波紋を広げた。
どうして、クラウはそんなに動揺するのか。
その痛みは嫉妬と呼ぶほど強くはない。けれど、乙女心がほんの少しだけきしむような、そんな微かな感情が冴月の胸をかすめていた。
冴月はそれを表に出さず、ただ真剣な表情を保ったまま、クラウを見据え続けた。
「黒の回廊では、私はお前に抱きかかえられた。だが、あの時は蘇生から戻った後で意識が完全ではなかった。今回のように、互いの意識がしっかりしている状態ではない」
「それとこれとは関係が……」
「ある」
冴月は、ほぼクラウの目の先までもう一歩迫る。
クラウが一歩下がる。
しかし、背後には閉じた扉があり、それ以上の逃げ場はなかった。
「待て、冴月殿! お、落ち着いて話し合おう!」
「私は落ち着いている」
「落ち着いている人は、そんな要求をしない!」
「では、どうすれば見てくれる?」
「見ない! 見てはいけない!」
「それは……私には魅力がないと?」
「そ……そういう意味ではない」
クラウは完全に慌てふためいていた。
リゼットの肌を見てしまった時以上に顔を赤く染め、どこへ視線を向ければいいのか分からず、助けを求めるように室内を見回す。
しかし、その行動がいけなかった。
「冴月さんだけっていうのも、確かに不公平じゃない?」
花恋が、楽しそうに微笑む。
彼女は自分の襟元へ指を添え、甘い声でクラウを揺さぶった。
「ねぇ、クラウさん。あたしのも見てみる? リゼットさんに負けてるかどうか、感想を聞かせてほしいなぁ?」
「なっ……!?」
「あ、そんな顔するんだ。可愛いね?」
「か、からかわないでくれ!」
「え、別にからかってないよ? 確認したいだけだって」
花恋の追撃に、萌黄も勢いよく手を上げた。
「じゃあ、私も! みんな見るなら私も混ぜてよ!」
「萌黄殿まで!?」
「大丈夫大丈夫! 事故で見ちゃったなら、今度はちゃんと許可を取れば問題ないんでしょ?」
「そ、そ、そういう問題ではない!」
レネも黙ってはいなかった。
「ちょっと待って! だったら私も! リゼットだけ先に見られるなんて、相棒として納得できない!」
「相棒は関係ないだろう!?」
「あるよ! だって、うちらは何でも公平に分けるんだから!」
「何でも分けるな!」
義那が袖で口元を隠し、愉快そうに笑う。
「これは面白い。ならば妾も立候補しようかのう」
「ほな、うちも! この面子の中じゃ、うち結構自信あるよ?」
和久も元気よく片手を上げた。
「せっかく異界の男はんから見てもろて、どんなもんか聞ける機会やしなぁ。うちのも頼むわ!」
「頼まれても困る!」
斗花は皆の勢いを眺めながら、豪快に胸を張った。
「おいクラウ! オレのも見てみるか!」
「斗花殿まで何を言っているんだ!?」
「お前だけ見たことないってのも、気になるだろ?」
「気にしていない!」
「遠慮すんな! 減るもんじゃねぇ!」
「俺の心が、ガリガリ削られている!」
要求は次々と増えていく。
「私のも!」
「あたしのも、ね?」
「うちも頼むわ!」
「妾を忘れるでないぞ」
「オレのもだ!」
「まずは私からだ」
女性たちはクラウへ詰め寄り、クラウは扉へ背中を押しつけたまま、逃げ場を完全に失っていた。
リゼットだけは机に座ったまま、この騒動へどう反応すればよいのか分からず沈黙している。
少なくとも、《幻想写界》と完全変身能力について話さずに済んだ。
その点だけは幸運だった。
とはいえ、自分が発端となってクラウが女性たちに包囲されている状況を見れば、安心してよいのかは分からなかった。
「そこまでだ!」
鋭い一喝が、小会議室を震わせ、クラウに迫っていた女性たちの動きが、一斉に止まった。
声を上げたのはルーセントだった。
彼女は腕を組み、呆れと怒りの入り交じった顔で一同を睨みつけている。
「緊急警戒態勢が解除された直後に、何を騒いでいる! 相手が困っているのも分からんのか! しかも異性に対して、なんたるふしだらな」
花恋と萌黄が一歩下がり、レネも気まずそうに視線を逸らす。
和久は狸耳を伏せ、義那も笑いを収めた。
斗花だけは「ちょっとした冗談だ」と肩をすくめたが、ルーセントの鋭い視線を受けて口を閉ざした。
そしてルーセントは、なおもクラウの目前に立っている冴月へ向き直る。
「冴月ともあろう武人が、何を言っている! 戦いの場で磨いた誇りはどこへ置いてきたのだ?」
冴月は、ゆっくりとルーセントを見る。
「では、聞くが」
「何だ」
「ルーセントは、どうなのだ?」
「……どう、とは?」
「クラウに見てほしくないのか?」
「何を馬鹿な……」
ルーセントは即答しかけて、言葉を止めた。
視線が、冴月へ向く。
次に、女性たちに囲まれて顔を真っ赤にしているクラウへ。
再び冴月。
もう一度クラウ。
先ほどまでの鬼教官としての威厳が、わずかに揺らぎ始める。
ユグドラシルの聖域へ向かう途中、異界の男たちを初めて目にした時から、そして聖域広場で転移してきたクラウ達に遭遇してから、ルーセントの中にも説明のつかない感情が生じていた。
強く、優しく、守るために剣を振るう本物の男。
美麗が求め続けた理想の姿を、すでに完成させているかのような完璧な存在。
そのクラウから、女性としてどう見られるのか。
まったく興味がないと言えば、嘘になる。
「私は……」
ルーセントは冴月を見る。
次にクラウへ目を向ける。
また冴月。
そして最後に、クラウの顔をまっすぐ見つめた。
金色の瞳が揺れる。
頬へ、うっすらと赤みが差した。
「……私のでも、見たいか?」
「ルーセント殿までええええええっ!?」
クラウの悲鳴が、小会議室の外まで響き渡った。
その瞬間、鬼教官の一喝によって収まりかけていた騒ぎは、当の鬼教官自身の参戦によって、先ほど以上の勢いで再燃したのだった。




