第219話 逃げ道は、二つの会議室へ続く
ミラーパレスを揺るがした緊急警戒態勢が解除され、集まっていた者たちがそれぞれの持ち場へ戻り始める中、レインだけは何とも言えない表情で《魔導天使ラブレイザー・オルタ》を見上げていた。
機体に損傷らしきものはまったくない。
《鏡界障壁〈ミラーフォートレス〉》にも異常な箇所はない。
それにもかかわらず、接触記録すら残さず内側へ侵入された。
鏡宮の頭脳として、《鏡界障壁》の絶対性をあれほど熱く語った直後の出来事である。美麗から叱責されることこそなかったが、それでレインの矜持が傷つかなかったわけではない。
「……すべて正常なのに、通過された。ならば、正常と判断する基準そのものへ手を加えられたと考えるべきか……しかし、外部から基幹術式へ干渉された記録はない。認証情報を偽造しただけでは、深層鏡界の存在解析まで通過できるはずが……」
レインは誰に聞かせるでもなく呟きながら、空中へ複数の解析画面を開いていた。
そこへ、すみれに腕を絡められた紫乃が歩み寄る。
「レイン」
「……賢者殿」
レインは解析画面を閉じ、紫乃と、その腕にぴたりと寄り添うすみれへ視線を向けた。
すみれは紫乃に会えた喜びを隠そうともせず、満面の笑みを浮かべている。その背後では、人型形態を維持した《ラブレイザー・オルタ》の胸部に、『紫乃お姉様の笑顔が、私の燃料』という文字が今も堂々と輝いている。
レインの眉が、ごくわずかに動く。
「九重すみれ、といったな」
「はい。お姉様の唯一無二のブレインにして、生涯を捧げる忠実なる妹分、九重すみれですわ」
「後半は初耳ですわ」
「いま正式に宣言いたしました!」
「勝手に生涯を捧げないでくださいまし」
紫乃は額へ手を当てたが、いつまでも立ち話を続けているわけにはいかない。
美麗の宣言によって、すみれの不法侵入は不問となった。
その代わり、彼女はユグドラ・フロンティアの防衛と情報基盤の構築へ協力する立場になったのである。
レインも同じ結論に達しているらしく、二人のやり取りへ口を挟まずに告げる。
「今後の役割と、《鏡界障壁》を通過した手段について確認したい。空いている小会議室を確保した。同行してもらえるか」
「もちろんですわ。わたくしも、すみれへ確認したいことが山ほどあります」
「お姉様からの個人的な質問でしたら、身体情報から日々の生活、理想の婚姻予定日まで、何でも包み隠さず……」
「ほとんど聞く予定はありません」
「では、何からお聞きになります?」
「まず、なぜ正式な識別信号を送らなかったのか、ですわね」
「一秒でも早く、お姉様のもとへ参上するためです!」
「次に、なぜ警告へ応答しなかったのか」
「お姉様への到着報告文を推敲しておりました!」
「そして、なぜ賢者殿の扇を機体の胸へ刻んだ」
レインが低い声で問いかける。
「お姉様への愛を、世界中の誰が見ても分かる形へ昇華するためですわ!」
「……そうか」
すみれの即答に、レインはそれ以上尋ねることを諦めたようだった。
三人は並んで本棟へ向かう。
先頭を歩くレインの足取りに乱れはないが、紫乃には、その背中へ蓄積した疲労が見えていた。
レインもまた、十理会と美麗を交えた長時間の会議へ参加していた。
フェルマの霊薬によって肉体的な消耗は抑えられていても、精神にかかる負荷まで消えるわけではない。その会議を終えた直後、今度はミラーパレス全域の緊急警戒態勢を指揮し、絶対の自信を持っていた防壁を未知の方法で突破されたのである。
案件数だけなら紫乃の方が多いかもしれない。
しかし、同じ徹夜明けであり、休む間もなく新たな難題を突きつけられたという意味では、レインも似たような境遇だった。
紫乃の胸へ、奇妙な仲間意識が芽生える。
「レイン」
「何だ」
「今回の件は……本当に申し訳ありませんでしたわ」
紫乃は、すみれの腕を自分から外さないまま、静かに頭を下げた。
「こちらから呼んだとはいえ、このような方法で来るとは予想しておりませんでした。あなたが築いた防壁を軽んじる意図も、鏡宮の警戒網を試す意図も、わたくしにはありません」
「お姉様は悪くありません! すべては一時間以内の到着を可能にするため、わたくしが独断で……」
「すみれは、少し黙っていなさい」
「はい、お姉様!」
すみれは叱られたにもかかわらず、嬉しそうに口を閉ざす。
レインはしばらく無言で歩いたあと、小さく息を吐いた。
「美麗様が不問とされた以上、私から責任を追及するつもりはない。それに、防壁へ未知の欠陥が存在するのなら、実戦で敵に利用される前に発見できたことは幸いだ」
「そう言っていただけると助かりますわ」
「ただし、侵入方法はすべて開示してもらう」
「当然です」
「防壁の基幹術式へどこまで到達したのか、偽装した認証情報、観測網を欺いた手順、機体の隠蔽機構、そして私の設計思想をどのように解析したのか。一切の省略は認めない」
「すみれ」
「はい。お姉様のご命令でしたら、演算記録から侵入用の鏡像認証鍵まで、すべて提出いたしますわ。もっとも、レイン様の《鏡界障壁》は非常に優秀でしたので、解析には丸々一日も必要でしたが」
「…………一日?」
レインの足がぴたりっと止まった。
「一日で、あれを?」
「はい。最後の五時間ほどは、お姉様の扇子を胸部装甲へ美しく配置する調整に使いましたので、純粋な解析時間はもう少し短いです」
「すみれ。それ以上は、今ここで言わない方がよろしいですわ」
紫乃は、レインの背中に新たな精神的負荷が加わったことを察し、すみれの説明を止めた。
「……会議室で聞く」
再び歩き出したレインの声は、先ほどより少しだけ低くなっていた。
そんな三人が正面玄関を通り過ぎようとした時、紫乃の視界に微妙な空気感の一団が映り込んだ。
中心にいるのは、S級冒険者リゼット・ヴェイル。
その左右を、レネと花恋が固めている。
正面には、腕を組んだ斗花。
後方には、穏やかな表情を浮かべながらも無言の圧力を漂わせる冴月が立っていた。
萌黄は状況を今ひとつ理解できていないらしく、皆についてきただけという顔で首を傾げている。
さらに、所属不明機による襲撃が何事もなく終わったことで、新たな面白事の匂いを嗅ぎつけた四戒仙の義那と和久まで加わっていた。
「どちらへ行くつもり?」
花恋が柔らかな笑みを浮かべ、リゼットの前へ一歩出る。
「別に逃げてもいいけど……逃げたら、何かあったって認めることになるよ?」
「逃げない。内部警戒の報告へ……」
「警戒態勢は、もう解除されたよね?」
レネが反対側からリゼットの腕を取る。
いつもの明るい笑顔ではあるものの、その瞳だけは笑っていなかった。
「相棒として、ちょっと確認したいことがあるんだ。ほんの少しだけ、ね?」
「……少しで終わる顔をしていない」
「気のせい気のせい!」
「せやせや。ちょこっとお話しするだけやん」
和久が可愛らしい関西弁で同意し、義那も狐耳を楽しそうに動かす。
「妾たちも、ほんの少し興味があるだけじゃ。先ほどの男と何があったのか、正直に話せばすぐに終わるぞえ」
「私には、関係ない」
「なら、すぐ説明できるな」
斗花が笑いながら、本館の会議室がある方向を親指で示す。
リゼットは周囲を見渡した。
右にレネと萌黄
左に花恋と和久
正面に斗花。
背後には冴月、義那。
《虚零絶界》を使えば逃げること自体は可能だろう。
とはいえ、ここで隠密能力を使用すれば、二度と何もなかったとは言い張れなくなる。
「……分かった。話す」
「うんうん、さすが私の相棒! 理解が早い!」
レネは満足そうに頷き、逃走経路を塞いだままリゼットを小会議室へ連れていく。
紫乃は、その様子を遠目に眺めていた。
なぜリゼットが衣服を乱し、クラウと揃って顔を赤くしていたのか。
紫乃も気になっていないわけではない。むしろ、かなり気になっていた。
「……あとで、斗花にでも聞いてみますわ」
「何を聞くのです、お姉様?」
「何でもありません。すみれは、自分の問題へ集中なさい」
「お姉様がご興味を抱かれた人物でしたら、ただちに群星リンクの全情報網を……」
「動かしてはいけませんわ」
紫乃は先手を打って釘を刺し、レインとすみれを伴って別の小会議室へ向かった。




