第216話 愛では、物理法則を越えられません
すみれは感動に胸を震わせ、抱き留めてくれた相手の首元へおずおずと両腕を回した。
「お姉様……わたくし、信じておりました……必ず、この胸へ受け止めてくださると……」
「……そ、そうか」
聞き慣れない返事に、すみれの眉がわずかに動く。
紫乃は、こんなに豪快な話し方をしない。
それどころか、抱き留められた身体から伝わってくる感触も、自分がよく知る紫乃のものとは随分違っていた。
すみれは、恐るおそるゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに映ったのは、呆れたような笑みを浮かべる斗花の顔だった。
「よう。久しぶりだな、すみれ」
「…………」
すみれの表情から、感動が音を立てて消え、かわりに、理解を拒絶するような空白が広がっていく。
彼女は斗花の顔を見つめる。
次に、横へ視線を移す。そこには、額に手をおいた紫乃が立っていた。
再び、斗花を見る。もう一度、紫乃を見る。
そして、自分が斗花の腕の中で、完璧なお姫様抱っこをされている現状を確認する。
「……違います」
「あ?」
「違います、斗花さん! これは違いますわ!」
「何がだよ」
「すべてです!」
すみれは斗花の腕の中で身を起こし、抗議するように両手を振った。
「わたくしは紫乃お姉様の胸へ飛び込んだのです! お姉様に抱き留めていただき、感動の再会を果たす予定だったのですわ! 斗花さんにお姫様抱っこされる予定など、わたくしの完璧な到着計画には一行たりとも記載されておりません!」
「知るか、そんな計画!」
「やり直しを要求します!」
「はぁ!?」
「もう一度、機体の上へ戻りますから、今度こそお姉様に受け止めていただきます! 斗花さんは、決して横から入らないでくださいまし!」
「お前なぁ……」
斗花は腕の中で騒ぐすみれを落とさないよう支え直しながら、呆れ果てた顔で紫乃を指さした。
「よく見ろ。賢者の紫乃が、十メートル近い高さから落ちてくるお前を受け止められると思ってんのか!?」
「愛があれば可能です!」
「物理法則は愛だけじゃどうにもならねぇんだよ!」
「ですが、お姉様ならば魔術があります! 落下速度を緩和し、風圧を分散し、最後には優しく抱き留めてくださるはずですわ!」
その分析自体は、紫乃が咄嗟に考えていた方法とほぼ一致していた。
しかし、すみれが飛び降りてから着地するまでに与えられた時間は、あまりにも短かった。
「すみれ」
紫乃が、顔を覆ったまま低い声で呼びかける。
「はい、お姉様!」
「まず、斗花へお礼を言いなさい。彼女がいなければ、あなたは地面へ激突していましたわ」
「お姉様が受け止めてくださったはずです!」
「いいから、お礼を言いなさい!」
「……助けていただき、ありがとうございます、斗花さん」
「おう。分かればいい」
「ですが、やり直しは——」
「却下ですわ!」
紫乃の鋭い声が、前庭へ響き渡る。
すみれは一瞬だけ肩を震わせたものの、斗花に抱かれたまま紫乃へ熱い眼差しを向けた。
「お姉様が、わたくしの身を心配して怒ってくださっている……」
「どうしてそうなりますの!?」
紫乃は両手で頭を抱えた。
そんな三人のやり取りを、少し離れた場所から花恋と萌黄が眺めていた。
「……すみれ、今日もスケール大きいね」
萌黄がひそひそ声で囁く。
花恋は目を細めて、斗花の腕の中で騒ぐすみれを見つめた。
「大きいどころじゃないわよ。あれ絶対、五星姫のお姫様抱っこ見て憧れてたタイプでしょ」
萌黄は小さく笑い、肩を揺らす。
「言えてる。紫乃先輩が斗花先輩に抱っこされてるの見たら……すみれ、絶対ハンカチ噛んでそうだもん」
花恋も口元を押さえて、声を漏らさないように笑った。
「しかもさ……出来もしないのに、自分も紫乃先輩をお姫様抱っこするって言い出して、スクワットとかしてそうじゃない?」
萌黄は「うんうん」と頷きながら、すみれの方向をちらりと見た。
「運動神経は皆無なのにね……でも、努力だけはするんだよね。紫乃先輩絡み限定で」
花恋はため息をつきつつも、どこか楽しそうだった。
「ほんと、あの子……紫乃先輩のことになると、世界の理より愛を信じるからね」
萌黄は小さく笑いながら、騒ぎ続けるすみれを見守った。
「……まぁ、そこがすみれなんだけどね」
「ほんと……天才のこだわりって、すごいよね」
「褒めてないからね?」
「えっ、褒めたんじゃないの?」
「もえもえは、もう少し人の言葉に含まれる毒を覚えようか?」
「なるほど~」
「分かってない顔だよ、それ」
萌黄はこっそりと肩をすくめ、斗花の腕の中で、やり直しを求め続けるすみれへ視線を戻した。
「……でも、すみれだよ?」
その一言には、不思議な説得力があった。
花恋は否定しようとして、口を閉ざす。
すみれなら仕方がない。
紫乃に関することなら、これくらいはする。
むしろ巨大人型兵器だけで済んでいるのだから、まだ予想の範囲内なのかもしれない。
「……そうね。すみれだもんね」
花恋は小さくため息をつき、頭を抱えている紫乃の背中を見つめた。
「紫乃先輩、今日の夜、絶対寝られないわね」
萌黄も、その横顔へ同情するような眼差しを向ける。
「だよね……ただでさえ徹夜明けなのに」
「でも霊薬が効いてるから、眠くならないんじゃない?」
「じゃあ、ずっとすみれの相手ができるね! よかったじゃん」
「……それ、紫乃先輩に言ったら怒られるよ?」
「えっ、なんで!?」
萌黄が本気で分からないという顔をすると、花恋は声が漏れないよう口元を押さえながら、肩を小さく震わせた。
二人がこそこそと囁き合う横では、紫乃が頭を抱え、斗花がすみれを抱きかかえ、冴月が巨大人型兵器とすみれを交互に見つめている。
それ以外の者たちは、いまだ動けずにいた。
鏡宮の絶対防壁を素通りし、空中で人型へ変形した巨大兵器。
その操縦者が紫乃の妹分を名乗り、十メートル近い高さから感動の再会を求めて飛び降り、五星姫の一人へやり直しを要求している。
どこから問いただすべきなのか。
そもそも、何を最初に確認するべきなのか。
誰にも判断できない。
そんな凍りついた空気の中、斗花は腕の中でなおも騒ぐすみれへ、疲れた声で言い聞かせた。
「とにかく、まずは地面に降ろすぞ」
「待ってください! お姉様へ直接、受け渡してくださいまし。せめて最後だけでも、お姉様の腕の中へ……」
「紫乃が潰れるだろうが!」
「わたくしは、それほど重くありません!」
「そういう問題じゃねぇ!」
巨大人型兵器の胸で、『紫乃お姉様の笑顔が、私の燃料』という文字が輝き続ける中、ミラーパレスを揺るがした緊急事態は、いつの間にか一人の少女による壮大すぎる愛情表現へと姿を変えていた。




